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第4.5話 閑話 修練場——六年前

 その日のことを、僕は今でも、はっきり覚えている。

 僕が、自分には何もできないのだと、初めて思い知らされた日だった。


 王立修練場の地面に、木の柱が一本、まっすぐ立っていた。

 てっぺんに、白い布が巻かれている。

 風が吹くたび、布は葉のように揺れた。


 柱から十歩ほど離れた場所に、僕たちは横一列に並んでいた。

 十人くらい。

 みんな王立学園の制服を着て、胸には貴族の家の紋章もんしょうが縫いつけてある。


 僕も、その中にいた。

 十歳。

 今日は、初級の昇級試験だった。


 僕たちのうしろに、教官の男が立っていた。

 歳は六十くらい。

 生え際に白いものが混じって、目尻には深いしわがある。

 貴族ではない。

 王立大学から来た、宮廷の魔術師だ。


 魔法を教えるのは、貴族の仕事ではなかった。

 貴族は、若い体を保ち、領地を治め、平民から魔力を差し出させて暮らしている。


 だから紋章と魔石の扱いは、いつからか、王立大学の魔術師に任されていた。

 歳を取ることを嫌がらない、数少ない仕事の一つだった。


 教官が、僕たちの正面に進み出る。


「試験を始める前に、一度、おさらいをする」


 声の張りは、歳を感じさせなかった。


「魔法とは、頭の中で紋章を描き、自然の力に形をあたえる術だ。

 風を起こす。

 火をつける。

 水を凍らせる。

 すべて、紋章の組み立て方で決まる」


 紋章というのは、頭の中で組み立てる図形のことだ。

 この図形をうまく描けないと、魔法は使えない。


 教官が、細い木のスティックを取り出した。

 握りの部分に、深紅しんく群青ぐんじょう、淡い緑——無数の魔石がめ込まれている。

 子供たちの息が、一瞬、止まった。


「いくら頭の中で紋章を描いても、それだけでは何も起きん。

 お前たちの魔力は、体の外まで届かないからだ。

 そのために要るのが、これだ」


 教官は、魔石を指の腹で軽く叩いた。


「魔石は、魔力の通り道だ。

 これを通せば、魔力は手のひらの外まで届く。

 外に出た魔力が、頭で描いた紋章の通りに、自然の力を作り出す」


 教官が、柱のほうへ軽くスティックを振った。


 その瞬間、布のまわりの空気が、白く凍った。

 柱も、まわりの地面も、薄い氷につつまれていく。

 白い霜が、布の表面を走った。


 みんなの息が、もう一度、止まる。


「これが、氷結ひょうけつの紋章だ。

 空気の中の熱と水分を、根こそぎ奪う」


 教官がもう一度スティックを振ると、氷は一瞬で消えた。

 あとには、白い霧と、小さな水たまりだけが残った。


「魔石の数と質。

 頭の中で組み立てる紋章の正確さ。

 この二つで、魔法の大きさが決まる」


 それから教官は、声を一段、低くした。


「もう一つ、忘れるな。

 魔法を使うのは、お前たち自身の魔力だ。

 魔石は、それを外に運ぶ管にすぎん」


「管が細ければ、自分の魔力を、無理やり押し込もうとする。

 押し込みすぎれば、体の中で魔力が暴れる。

 軽ければ、頭痛か熱で済む。

 止めなければ、倒れる。

 しばらくは、立つこともできん」


「魔力は、いくらでもあるわけじゃない。

 お前たちの中にある分だけだ。

 使い切れば、回復するまで、ただの人間だ。

 これを、忘れるな」


 僕たちは、黙ってうなずいた。


「コンラート。前へ」


 最初に呼ばれたのは、コンラートだった。

 アロイス伯爵家の長男。

 歳は、僕と同じ十歳。


 コンラートは、細い指揮棒みたいなスティックを構えた。

 握りには、米粒くらいの小さな魔石が、たった一つ。


「お前のそれは、一粒だ。

 布を揺らせれば、初級は超える」


 コンラートは目を閉じた。

 息を整え、目を開き、布へ向ける。

 スティックを、まっすぐ突き出した。


 ——何も、起きない。


 みんなの顔に、少しだけ、あわれみが浮かんだ。

 でも、コンラートは諦めなかった。

 腕を伸ばす。

 もっと前へ。

 もっと前へ。


 その時、布が、わずかに揺れた。


 全員の目が、一点に集まる。

 コンラートの鼻から、赤いしずくが一筋、流れ落ちた。


 次の瞬間、布が大きくはためいて、上へ向かって暴れ始めた。


「やめろ」


 教官が止めた。


 コンラートは、その場に膝をついた。

 鼻血を袖で押さえながら、肩で息をしている。

 額には、汗が浮いていた。


 教官は柱に歩み寄り、布に触れて、うなずいた。


「魔石が小さいのに、自分の魔力で強引に押し込んだな。

 見事な魔力操作だ。

 初級、合格」


 子供たちから、拍手が上がった。

 コンラートは、膝をついたまま、ようやく顔を上げた。


「立てるか」


「……はい」


「しばらく魔法は使うな。

 今日のお前の魔力は、もう底に近い」


 立ち上がったコンラートは、足元がふらついていた。


「次。シェリー。

 お前は身体強化型だったな」


「はい」


 呼ばれて前に出たのは、白銀の髪の女の子だった。

 シェリー。

 スミス男爵家の長女で、歳は十二。

 僕の親戚で、物心ついた時から、ずっとすぐ隣にいた相手だ。


 腰には、飾りも魔石もない、ごつごつした大剣を差している。

 十二歳の女の子が提げれば、地面を引きずるはずの重さだ。

 それを平気で運んでいる時点で、もう身体強化型の証だった。


 身体強化というのは、自分の魔力を体に流して、力や速さを上げる魔法のことだ。

 魔石はいらない。

 その代わり、使ったあとは、ひどく疲れる。


 シェリーは大剣を引き抜き、両手で頭の上に振り上げた。

 深く息を吸って、止める。

 肩、腕、腰、太ももに、魔力が一気に巡るのが、隣の僕にも、肌で分かった。


「布だけを切れ」


 布は、風にはためいている。

 柱までは、十歩。


 シェリーは、地面を蹴った。


 一歩、二歩、三歩。


 たった三歩で、十歩の距離をつめていた。

 地面には、強く踏み抜いた跡が、点々と三つ、残っている。


 頭の上の大剣が、振り下ろされる。

 刃が、布の真ん中を、縦にまっすぐ断ち切った。


 布の上半分が、風に舞った。


 シェリーは、振り抜いた姿勢のまま、二、三回、呼吸を止めていた。


 教官が歩み寄って、切り口を確かめる。

 それから、柱そのものに指を走らせた。

 布のすぐ下、柱の木肌に、薄く、けれど確かに、刃の通った跡が残っていた。


「切り口は綺麗だ。

 足、腕、肩、肘まで、魔力が均等に巡っている。

 ただ——最後の振り下ろしで、手首の魔力が甘くなったな。

 剣筋がぶれて、柱まで削った」


 シェリーは、肩を落とした。


 それと同時に——

 肌からあふれていた魔力の気配が、潮が引くみたいに、すっと消えていく。

 頬を、汗が一筋、伝った。

 両手で握っていた大剣の切先が、ゆっくり、地面のほうへ傾いた。

 慌てて持ち直したけれど、剣の重さが、急に、十二歳の女の子の腕に戻ってきていた。


「だが、初級は超えている。

 合格」


 シェリーは、胸に手を当てて、軽く敬礼した。

 その腕も、わずかに震えていた。


 敬礼を解くと、シェリーは大剣をさやに納め、僕の隣に戻ってきた。

 何も言わなかった。

 ただ、自分の肘を、僕の肘の脇に、そっと寄せた。


「次。ロディエット王子」


 僕は、前に出た。


 手には、コンラートと同じ、一粒の魔石がついたスティック。

 腰の剣帯けんたいは、空っぽだった。

 十歳の僕には、金属の剣は重すぎる。

 身体強化が使えないんだから、当たり前だ。

 はがねの剣を提げて歩けるのは、この中でシェリーただ一人だった。


 腕の震えを止めるために、両手でスティックを握り直す。


 ——振動の紋章。

 空気の粒を、震わせる。


 頭の中で、紋章を組み立てた。

 文書庫の魔術書で、何百回も見た図形だ。

 線の交わる点、角の数、魔力の流れる向き。

 全部、暗記している。


 僕はスティックを構え、力を込めた。


 何も、起きない。


 先端の魔石は、冷たいままだった。

 コンラートのが熱くなるくらい、強く握った。

 それでも、冷たいままだった。


「もうよい、王子」


「待ってください。

 もう少しで、できそうなんです。

 コンラートの時は、待ったじゃないですか」


「コンラートには、わずかでも、魔石を通って外へ出る魔力の流れがあった。

 お前には、その流れそのものが無い。

 待っても、結果は同じだ」


 僕は、肩を落とした。


「身体強化を試してみよ」


 教官は、修練場の脇から木刀を取って、僕に差し出した。


「金属は、お前の腕では持てん。

 木刀でよい」


「……はい」


 僕は、木刀を受け取った。

 両手で握っても、その重さは、僕の手首には、十分に重かった。


 ——魔力を、体に巡らせる。

 シェリーみたいに。

 足から、腰、肩、腕へ。

 速く、動くんだ。


 地面を蹴った。


 遅かった。

 布に届く前に、勢いが止まる。

 木刀は空を切って、止まらずに、地面に当たった。

 僕も、その勢いのまま、前のめりに転んだ。


 少年たちが、声を上げて笑った。

 耳の奥が、熱くなった。

 頬についた土より、その笑い声のほうが、ずっと重かった。


『……魔力だけは、たんまりあるのにな……』


 笑い声の中に、別の声が、混じった気がした。


 僕は、顔を上げた。

 ——誰の口も、動いていない。


『……あれが、王子か……』


 コンラートの声が、切れ切れに聞こえた。

 でも、コンラートの口から、じゃない。

 コンラートは、まだ膝に手を置いて、息を整えている。


 ——なんだ、これは。


 僕はすぐに、顔を伏せた。

 他の誰にも、聞こえていないらしい。

 聞こえないなら、無かったのと、同じだ。

 そう、思うことにした。


 頬に、土がついていた。

 立ち上がろうとした手の脇に、別の小さな手が、差し出された。


「ロディエット王子」


 シェリーだった。

 いつの間に列を離れたのか、僕のかたわらに、膝をついていた。


「掴まってください」


 僕は、その手を取った。

 取った瞬間、シェリーの肩が、わずかに沈んだ。

 それでも、引き上げてくれた。


 立ち上がった時、教官の顔を、見られなかった。


 教官は、深く、ため息をついた。


「これで、本日の昇級試験を終える。

 ロディエット王子以外、全員、合格」


 そして、付け加えた。


「ただし、忘れるな。

 王子の潜在せんざい魔力は、お前たちの誰よりも、大きい」


「それは、私の目で見て、間違いない。

 使いこなせる日が来れば、お前たちは、一気に追い抜かれる」


 その言葉に、何人かが、肩をすくめた。

 誰も、追い抜かれるなんて、信じていなかった。


 教官だけが、しばらく、僕を見ていた。

 何かを言いかけて、やめる。

 それから、みんなのほうへ向き直り、解散を告げた。


 修練場の門を出る前に、シェリーが、もう一度、隣に並んだ。


 風が吹くと、白銀の髪があごの辺りで揺れて、すぐ元に戻る。

 淡い青の瞳が、まっすぐ、僕を見ていた。

 頬には、まだ汗の跡が残っている。


「ロディエット王子。

 気にしないでください」


「うん」


 僕は、小さく笑った。


「でも、父上を支えるためにも、早く魔力を使えるようになりたいんだ」


「大丈夫です。

 王子は、誰よりも潜在魔力が高いんですから。

 貴族で、魔力が出ない人なんて、いません」


 シェリーは、まっすぐな目で言い切った。


 その目を、僕は見返した。

 ——シェリーの心の声は、聞こえなかった。

 ただ、さっき肘の脇に寄せられた、あの感触だけが、まだ残っていた。


「ありがとう、シェリー。

 頑張るよ」


 それから、六年。


 僕の魔力は、一度も発現はつげんしないまま、十六歳の成人を迎えた。


 そして僕は、王立大法官に就任し、評議会の壇に立つことになる。


 あの日、修練場の地面に転がっていた少年が、貴族百人を前にして、こう告げる日まで——もう、わずかだった。


「——国王を含め、貴族も、平民も、一人残らず、死んでもらいます」

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