第4話 平野の夜
家ほどの大きさの岩が、あちこちに転がっている。
そんな平らな土地が、地平線まで続いていた。
「ここで野宿だがね」
私は馬を下りた。
修道女の薄い靴の底ごしに、地面の固さが伝わってくる。
土の上で眠る。
そんなこと、十六年生きてきて、一度もなかった。
アルテミシアは、慣れた手つきで火を起こした。
乾いた草を小枝で束ねて、火打石を二度、三度。
小さな炎が立つ。
ぱち、ぱち、と火がはぜる音が、夜の静けさに、規則正しく響いた。
「はよ寝ぇ。明日も長いがね」
私は外套にくるまって、岩の根もとに背中を預けた。
土の匂いがする。
その奥に、湿った草の匂い。
薄い外套ごしに、小石が一つ、わき腹を押してくる。
体の位置を変えても、また別の小石が、同じところに当たった。
虫の声がする。
一定のリズムで、でも、いくつもの種類が混じっている。
遠くで、何かが、長く、引き伸ばすように鳴いた。
獣の遠吠え。
本で読んだ知識だけが、その音の名前を、口の中でつくった。
——どれも、生まれて初めて聞く音だった。
そう思っているうちに、まぶたが重くなっていく。
火のはぜる音が、だんだん間隔をせばめて聞こえる。
やがて、その音さえ、遠くなった。
「起きやぁ!」
肩を蹴られた。
重いまぶたを上げた瞬間、目の前にあったのは、アルテミシアの背中だった。
立っている。
剣を抜いている。
指二本ほどの幅しかない、突くための細い剣を、頭の横に構えていた。
「ガルム」
短く、低く、彼女は言った。
「岩の裏に、六匹」
ガルム。
本で読んだことがある。
人をも襲う、狼に似た獣。
群れで行動し、リーダーが全体を率いる。
私は平野を見渡した。
火の光が届く範囲には、何もいない。
草が、夜風に揺れているだけだ。
「どこに——」
「気配、感じないんか」
アルテミシアの声が、低くなった。
「岩の裏だがね」
私は、気づいたら、本で読んだ知識を口にしていた。
「リーダーを倒せば、群れは引きます」
アルテミシアは振り返らず、鼻で笑った。
「本のお話だがね」
それだけだった。
彼女は、剣を構え直した。
「あんた、魔法か剣は使えるんかね」
私は黙った。
「おい。どっちか使えるがね」
「……すみません。どちらも、使えません」
アルテミシアは、長く舌打ちをした。
「ちっ。まぁええ」
もう一度、剣を構える。
「火ぃ持って、岩ぁ背にしときゃあ。動いたらいかんて」
私はすぐ、焚き火に手を伸ばした。
火のついた枝を、一本、つかむ。
「あつっ」
声が、勝手に出た。
その声を聞いて、また、ぞくりとした。
十六年、自分のものだった低い声じゃない。
頭の中で、別の高さで響く声。
手のひらの痛みより先に、その違和感が、頭の真ん中をなでていった。
手のひらが、すぐに悲鳴を上げる。
握る場所を、袖の布で急いで巻き直した。
指先には、まだ熱が残っている。
私は岩に背中をこすりつけるようにして、小さく縮こまった。
岩の裏で、何かが、低く、息を吐いた。
正面の岩の影から、一匹の狼が姿を現した。
焚き火の光が、その目に反射する。
垂れたよだれが、糸を引いて地面に落ちた。
腹の底からの、低いうなり声。
殺しに来ている。
頭より先に、体のほうが、そう理解した。
あの偽ハリスが私に向けた殺気とは、質がちがう。
あれは、計算された、研ぎ澄まされた、仕事の殺気だった。
今、岩の影から出てきたものは、ちがう。
むき出しの、空腹そのものだった。
続いて、岩の影から、残りの狼が、一匹、また一匹と出てくる。
群れの真ん中に、ひと回り体の大きな一匹がいた。
まぶたのつけ根に、古い傷あと。
ほかの五匹より、半歩、前に出ている。
あれがリーダーだ、と、本の知識が告げた。
膝が震えた。
振り返って、アルテミシアを見る。
彼女は細い剣を頭の横に構えたまま、切っ先をその一匹に向けていた。
まったく動かない。
焚き火が、一度、大きく弾けた。
その音と、同時だった。
何が起きたのか、私の目では追えなかった。
気づいたときには、リーダーの喉の奥に、剣の先が刺さっていた。
頸動脈ではない。
喉の中央、声を出す器官のすぐ上。
鳴き声を上げる暇さえ、与えない一突きだった。
次の瞬間、彼女はもう、元の場所に戻っていた。
刺された狼が、ゆっくりと、頭を一度かたむける。
それから、糸の切れた人形みたいに、地面に崩れ落ちた。
私は群れを見た。
群れは——引かなかった。
リーダーが倒れた地面を、五匹のうちの一匹が、一瞬だけ、においをかいだ。
それだけだった。
かぎ終えると、顔を上げて、またうなる。
ほかの四匹も、うなった。
「リーダーを倒せば、群れは引きます」
——自分の口から出た一行が、舌の上に、苦く残った。
本に書いてあったこと。
文書庫で、何度も読んだ、獣の生態。
それが今、目の前の現実と、つながっていない。
林檎の皮に歯が立たなかった夜と、同じだ。
知っていた。
知っていた、というのは、こういうことじゃなかった。
群れが、左右に散った。
一点を突くんじゃない。
囲んで、いくつもの方向から襲うつもりだ。
そのうちの一匹が、アルテミシアの右後ろに回り、地面を蹴った。
「危——」
私の口が言葉を作り終える前に、アルテミシアの体は、もうそこになかった。
屈んだ、と思った瞬間には、跳んだ狼の真横に、彼女の影がある。
細い剣が狼の腹に入り、あばらの隙間を縫って、心臓のところで止まった。
そのまま剣を引き抜く。
狼は跳んだ勢いのまま地面に落ち、二度、びくりと震えて、止まった。
音は、ほとんどしなかった。
なのに、私の耳の奥に、何か嫌な音だけが、こびりついて残った。
「声を出すな!」
二匹が同時に、アルテミシアの両側から襲いかかる。
彼女は、地面をすべるように踏み込んだ——ように見えた。
通り過ぎたあとの地面に、二匹は倒れていた。
どちらも、首の付け根から、わずかに血がにじんでいる。
それ以外の傷は、なかった。
残り、二匹。
そのうちの一匹が、私を見た。
アルテミシアに向かわず、岩の根もとで縮こまっている、火を握ったほうを選んだ。
獣の頭の中の計算が、私にも分かった。
強いほうじゃなく、弱いほうを、先に。
そう思った瞬間には、狼はもう跳んでいた。
私は火の枝を、前に突き出した。
突き出した、つもりだった。
腕は、伸びきらなかった。
足が、地面を蹴ろうとする。
でも、腰の幅が、いつもより狭い。
踏み込もうとした半歩が、途中で止まった。
体が、一拍ぶん、置いていかれる。
そのまま、後ろへ。
背中が、岩に当たった。
跳んだ狼の、口の中が見えた。
歯の白さ。
歯と歯のあいだに張った、唾液の糸。
口の奥の、赤い肉の色。
鼻先からただよう、腐った肉の匂い。
火の枝を握る指が、いつ自分の指でなくなったのか、分からなかった。
——死ぬ。
その一語が、ようやく、頭の中で形になった。
形になった瞬間、視界の右から、影がすべり込んだ。
アルテミシアの細い剣が、狼のこめかみから入って、反対側まで、ほんの少しだけ突き抜けて止まった。
狼は、跳んだ姿勢のまま、私の胸の手前、半歩のところで止まる。
落ちた。
私の靴の爪先に、その重みが、半分だけ乗った。
よだれが、私の修道服の裾に、糸を引いて落ちた。
温かかった。
最後の一匹は、後ろを向いた。
逃げかけた、その瞬間。
アルテミシアの細い剣が、二度、跳ねる脚の踵を突いた。
左右のアキレス腱が、半秒もかからずに断たれる。
狼は地面に、横向きに、投げ出された。
「キャン、キャン」
子犬みたいな悲鳴を、上げた。
アルテミシアは、ゆっくりと、その狼のほうへ歩いていく。
「許しゃあ」
短く言って、首の付け根を、一突きした。
狼の体が、びくっと震えた。
それから、息が抜けるように、生気が消えた。
アルテミシアは振り返り、剣についた血を、腰の布で、ていねいに拭った。
それから、岩の根もとの私のほうへ歩いてくる。
私の靴の爪先に乗った狼の頭を、革の靴底で、軽く脇に押しのけた。
そして、私の顔を見下ろす。
何か言いかけて、やめた。
「血の匂いに、別のが寄ってくるもんで。場所、変えるがね」
短く言って、馬の手綱を解いた。
焚き火の中から、燃えている枝を二本、慣れた手つきで取り出して、片手にまとめて握る。
「立ちゃあ。歩けるんなら」
私は、まだ岩の根もとに座ったままだった。
膝が、まだ震えている。
手の中の、火を巻いた枝は、いつの間にか地面に落ちていた。
私はあわてて、自分の枝を拾い直した。
新しい野営地は、最初の岩から半里ほど離れた、低い窪地だった。
風の通り道から、外れている。
アルテミシアは、持ってきた火種を、地面に積んだ枯れ草と小枝に移した。
新しい炎が、立ち上がる。
「あんた、その辺で、枝ぃ拾ってきやぁ」
彼女は窪地の縁を、顎で示した。
「そこから外には出たらいかんて。声の届く範囲だがね」
私はうなずいて、松明みたいに枝を掲げた。
そのまま窪地の縁にそって、乾いた枝を集めていく。
膝はまだ震えていた。
でも、何かを手で握っていると、その震えが、少しだけ和らぐ気がした。
戻る頃には、新しい焚き火が、落ち着いた炎で燃え始めていた。
火をはさんで座ったところで、アルテミシアが口を開いた。
「あんた、剣も魔法も使えんって、どういうことだがね」
私は、火に視線を落とした。
「昔から、訓練はしていました。ですが、どうしても、できないのです」
アルテミシアは、しばらく私を見た。
何か言いかけて、また閉じる。
「……あんた、なんか、変だがね」
それだけ、低く言った。
私は、自分の右の手のひらを、火に向かって開いた。
細い指。
節の丸い、自分のものじゃない手。
それでも、十六年、何度も、ここから何かが出てくれと願ってきた、同じ手のひらだった。
文書庫で読んだ、術式の図。
紋章の組み立て方。
力を伝えるための、理論。
書物の中の知識は、頭の中に、いくらでも並んでいる。
ただ、その一つも、この手のひらの外には、出ていかなかった。
教師は、首を振った。
父は、ただ、何も言わなかった。
何も言わない、ということが、いちばん深い諦めの形だった。
——せめて、今夜、一度でも。
手のひらの前で、火の熱が揺れている。
私は、指先に力を込めた。
込めた、つもりだった。
指は、ただ、震えただけだった。
何も、起きなかった。
岩の根もとで、火を握ったまま縮こまっていた。
その半刻前の自分が、まぶたの裏に戻ってくる。
跳ぶ寸前の、狼の口の中。
歯の白さ。
靴の爪先の、半分の重み。
あの瞬間、もし、この手のひらから、ほんの小さな火が一つでも出せていたら。
アルテミシアの剣を、半呼吸ぶんでも、待たせずに済んだなら。
私は、手のひらを握りしめた。
爪が、皮膚の柔らかいところに、食い込む。
痛みが来た。
痛みだけは、ちゃんと、来た。
「もう、寝ぇ」
火の向こうから、アルテミシアの声が、低く言った。
見ていたのかどうかは、分からなかった。
私は、握った手のひらを、ゆっくりと開いた。
四つの、爪のあと。
白く、残っていた。
私はもう一度、外套を引き寄せた。




