第3話 林檎
教会を出て、石畳の道を歩いた。
朝の霧は、まだ重い。
足元の石の継ぎ目に、小さな水たまりができている。
私は修道服の裾を、片手で持ち上げた。
膝を上げる感じが、いつもと違う。
腰から下が、まるで別の人の体みたいに動く。
——そうだ。これは、私の体じゃ……。
いや。今は、これが私の体なんだ。
道の脇に、古びた馬小屋が見えてきた。
粗末な木の囲いの中から、馬が二頭、首を出している。
一頭は灰色、もう一頭は茶色だ。
「神父様が、用意してくださっとる」
アルテミシアが先に、手綱に手をかけた。
「乗れるんかね」
「乗れる」
私は答えた。
馬の乗り方なら、子どもの頃から習ってきた。
体に染みついている。
「ふん」
アルテミシアが、短く息を吐いた。
その目が、ほんの一瞬だけ、私の細い手首で止まる。
気づいた途端、彼女は鼻で笑った。
「貴族が」
吐き捨てるような言い方。
でも、訛りのせいか、毒の角がどこか丸い。
「平民は、乗れんがね」
それだけ言って、灰色の馬にまたがった。
二人で、馬を駆けさせた。
朝霧を裂いて、街道を南西へ進む。
振り返ると、教会の屋根が、王城の白い塔と並んで、だんだん小さくなっていく。
私は一度だけ、振り返った。
十六年、あそこで生きてきた。
その建物が、もう遠い。
父は、あの中にいる。
私の——ロディエットの顔をしたまま。
きっと、もう、冷たくなっている。
——必ず、戻る。
胸の奥で、誓った。
父を、賢王として歴史に残す。
半年かけて書いた原稿で、この国を救う。
それまでは、リディアという女として生きる。
もう一度振り返ったとき、塔は、地平線の向こうに沈んでいた。
異変が起きたのは、それから数時間もしないうちだった。
最初は、馬の揺れがつらいだけだと思った。
鞍には慣れているはずなのに、今日は背骨の一つ一つが、きしむ。
やがて痛みは、背中だけのものではなくなった。
内ももの筋が、鞍を挟むたびに悲鳴を上げる。
——骨の形が、違う。
足の長さも、腰の位置も、骨盤の角度も。
全部、ロディエットの知っている体とは違っていた。
知らない体に、王子の乗り方を、無理やりさせている。
汗で湿った長い黒髪が、首にはりついた。
修道服の裾が、鞍と内ももの間に巻き込まれる。
一つ一つは、ささいなことだ。
それが十も二十も重なって、私の集中を奪っていく。
それに、いつもと違うことが、もう一つあった。
毎朝、魔石が消してくれていたはずの体の重さ。
背骨のきしみも、筋の痛みも、本当ならとっくに消えているはずだった。
それが、今日は消えない。
そして——
おへその少し上のあたりに、別の何かが生まれた。
冷たかった。
殴られた痛みではない。
鈍い痛みでもない。
ただ、内側から、じわじわと力が抜けていく。
指先まで届いていたはずの血が、その一点に吸い込まれていくみたいだった。
額に、汗がにじむ。
冷たい汗だ。
背中を伝って、服の内側に流れていく。
手綱を握っているのに、革の感じが薄い。
指先が、遠い。
視界の端が、色を失っていく。
馬のたてがみの色が、灰色に近づいていく。
——何だ、これは。
毒、と最初に思った。
教会で飲んだ水に、何か入っていたのか。
それとも、神父の変身の術の、代償なのか。
喉の奥に、うすい吐き気がわいた。
——死ぬのか。
その言葉が頭にはっきり浮かぶより先に、視界の隅がぼやけた。
鞍を握る手から、力が抜ける。
「リディア!」
前を行くアルテミシアが、振り返った。
声の調子が、変わっている。
馬を回して、戻ってくる音。
「あかん、はよ下りやぁ! 今すぐだがね!」
私が答えるより先に、地面が傾いて見えた。
アルテミシアの両腕が、私を鞍から引きはがした。
そのまま、街道脇の草地に下ろされる。
木の根元に背中を預けて、私はしばらく、息を整えた。
「真っ青だがね」
アルテミシアが、膝をつく。
手の甲を、私の額に当てた。
熱をみるその指が、一瞬、私の頬の輪郭の上で止まる。
「日も傾いとる。ここで野宿だがね」
短く舌打ちして、彼女は動き出した。
馬を木につなぎ、外套を地面に広げ、荷物を下ろしていく。
その動きに、迷いがない。
修道女というより、旅に慣れた人の動きだった。
「あんた、どこが痛いんかね」
「腹が」
私は、ようやく口を開いた。
「真ん中が、冷たい。しびれるような感じだ。
指先まで、血が通っていない。
喉に、吐き気のようなものが」
——やはり、毒だろうか。
そこまで言いかけて、私は飲み込んだ。
仮にそうだとして、今の私には、それを確かめる方法がない。
アルテミシアは、しばらく私を見た。
それから、深く、長く、ため息をついた。
額に当てた手を、ゆっくり離す。
「あんた、腹が空いとるんだがね」
「腹が——空く?」
私はその言葉を、舌の上で転がした。
空腹。
言葉なら、知っている。
文書庫の医学書で、平民の状態を表す言葉として、何度も読んだ。
胃が、栄養を求めて出す合図。
——これが、それなのか。
死ぬかと思った。
毒だと思った。
それが、ただ、腹が空いた、ということなのか。
平民が、毎日、味わっていた。
これを?
アルテミシアが、荷袋から赤いものを取り出した。
こぶしほどの大きさ。
それを私の膝の上に置く。
置くしぐさが、少しだけ長かった。
手を引くのを、半呼吸、ためらった気がした。
ひんやりと、しっとりした手ざわり。
手のひらに、ほのかな重みが伝わる。
林檎だった。
——いびつだな。
最初に、そう思った。
図鑑で見た果物は、もっときれいな丸だった。
手の中の林檎は、片側がふくらみ、片側がやせている。
皮には茶色いまだらがあって、底のへたの周りが、少しへこんでいる。
私が観察しているうちに、アルテミシアは自分の林檎を、ためらいなく丸ごとかじった。
ばり、と乾いた音がする。
口元から、白い果肉がのぞいた。
私も、自分の林檎を口元へ近づけた。
すっぱさの混じった甘い香りが、鼻先に立ちのぼる。
その瞬間、口の中に、大量のつばがわいた。
こんなにつばがわくものとは、知らなかった。
口を開けて、歯を表面に立てた。
歯が、立たなかった。
林檎の皮に、噛み跡をつけるのが精一杯だ。
何度か力を込めた。
あごの付け根が、きしむ。
皮が、わずかにへこむ。
それだけだった。
——硬いものは、噛んで食べるものではない。
頭のどこかが、そう判断していた。
「……あんた」
アルテミシアの目が、噛み跡だらけの林檎を見た。
そのまま、動かなくなる。
一度、二度、まばたきをした。
「冗談だがね」
あきれ、というより、もう少し別の温度を含んだ声だった。
彼女は荷袋から小さなナイフを取り出すと、手早く果肉を切り分けた。
皮のついた半月の一切れを、私の手のひらに置く。
果肉を切るその手元を、私からは見えない角度に、そっと隠していた。
私は、それを口に運んだ。
最初に舌に来たのは、すっぱさだった。
頬の内側が、勝手にすぼむ。
それから、追いかけるように、甘さが来た。
——え。
体が、勝手に動いた。
舌が、果肉を奥へ送る。
私の意志とは、関係なく。
喉が、噛みかけの繊維を、むさぼるように飲み下す。
下あごは、私が命じるより先に、もう次の一切れを口へ運ぼうとしている。
歯は、立った。
切り分けられた途端、さっき立たなかった同じ歯が、果肉を細かくつぶしている。
——噛める、と分かれば、噛めるのか。
口の中で果肉がほどけていく感じは、たしかに、生まれて初めて知る甘さだった。
冷たい果汁が、舌の奥に垂れる。
でも、その甘さと同時に、胸の奥が、少しだけ冷えた。
王城の文書庫で、本をめくっていた指。
評議の間で、羊皮紙を握りしめていた指。
その指が、今、林檎の切れ端を、むさぼるように口へ運んでいる。
——みっともない。
そう思った。
けれど、止まらなかった。
体はその言葉を無視して、獣みたいに、ただ次を欲しがった。
——僕は、こんな食べ方を、する人間じゃ……。
——これが、欲、というものか。
腹の冷たい中心に、ものが落ちた瞬間、冷たさが引いた。
その跡を、何か温かいものが満たす。
満たされた、と思った瞬間、体は、次を求めた。
腹は、たしかに満ちていく。
でも、馬で痛めた背骨のきしみも、内ももの痛みも、まったく引かない。
——食事は、空腹だけを、満たす。
魔石は、空腹も、疲れも、体の不調を、全部まとめて「無かったこと」にしていた。
食事は、そうじゃない。
体の不調に、こんなに種類があるなんて。
私は、初めて知った。
これが、毎日を魔石なしで生きてきた、平民の体なのか。
私は四切れ目を噛みながら、半月の皮を、もう一度見た。
——やはり、いびつだった。
「この林檎は、どこから」
「教会の近くの、農家からだがね」
「平民が育てた林檎、ということか」
「ほうだがね」
私は、林檎の皮を指でなぞった。
まだら。へこみ。ゆがみ。
王城の飾りの果物に、こんなゆがみは無かった。
馬で駆ける間、何度か、畑の脇を通り過ぎたのを思い出す。
畝は、まっすぐ引かれていなかった。
雑草が、作物に混じっていた。
耕されていない隅が、広く残っていた。
あの時は急いでいて、気にも留めなかった。
今、その光景と、手の中の林檎が、頭の中でつながる。
本では、知っていた。
育て方の地域差。教育のかたより。土地を回る教師の不足。
半年かけて書いた所信表明の中にも、その項目は、たしかにあった。
知っていた。
でも、知っていた、というのは、こういうことではなかった。
私は、指の中のゆがんだ皮を見つめた。
本に書いた「育て方の地域差」という言葉。
それは、ただの文字だった。
でも今、その言葉は、手の中の林檎になった。
自分の歯では皮も割れず、それでも私の腹を満たした、ゆがんだ林檎に。
言葉が、初めて重さを持った。
私は、声に出さずに考え始めた。
やがてその考えが、独り言みたいに、漏れていた。
「肥えた土地に、同じ品種を植えても、形がそろっていない」
「土を整える知識。枝を切る知識。間引きの知識。
それを、村々へ運ぶ制度が要る。
書類の上では、知っていた」
「だが、こうして手に取って、初めて、それが無いことの意味が分かる」
私は、続けた。
「奉仕量を減らすだけでは、足りない。
知識を運ぶ、仕組みが要る。
土地を回る教師の数。教材の書き写し。それを支える紙。
半年前に書いた草案では、まだ足りない」
私は、口元を覆った。
「……書き直さなくては」
その先は、声には出していなかった。
でも、頭の中では、もう列が伸びていた。
種。土。季節。教材。教える者。文字。書き写し。巡回教師。奉仕量のさらなる削減。貴族側への代替の見返り——
アルテミシアは、林檎をかじる手を止めて、しばらく私を見ていた。
ナイフを鞘に戻す手が、降りる。
降りたまま、しばらく動かなかった。
「……お前さん」
何かを言いかけて、また口を閉じた。
喉の奥で半分言葉になったものを、彼女は飲み下した。
「あんたを、まだ、信じたわけではないがね」
そう言いながら、彼女は干し肉を二切れ、私の膝に乗せた。
「夜は冷えるもんで。腹に入るうちに、もう少し入れときやぁ」
それから、火を起こすための枯れ枝を集めに、立ち上がった。
立ち上がる前に、私の膝に乗せた干し肉の位置を、指先で一度だけ、整えた。
私は、聞いていなかった。
頭の中で、項目の列が、まだ伸び続けていた。
陽が、街道の先で、赤く、低く、沈み始めていた。




