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第2話 古い教会と二十一歳のシスター

 石段は、思っていたよりずっと長かった。


 冷たい壁。湿った空気。

 足音だけが、暗闇に吸い込まれていく。


 明かりは、つえの先の魔石が放つ、青白い光だけ。

 その光で見えるのは、ぬめったこけと、その先に続く闇だけだった。


 右に二回。三つ目の分かれ道を、左。

 父に教わった順番を、僕はもう、頭で考えていなかった。


 代わりに、別のものが、ずっと頭の中で繰り返されていた。


「頼んだ」


 父が、最後に動かした唇の形。

 僕は首を振った。

 振っても、その形は消えてくれない。


 杖を握る手が、震えている。

 寒さのせいだ。

 そう、思うことにした。


 通路の終わりに、低い木の扉があった。

 押すと、きしんで開いた。


 外は、城の北の塀のすぐ外だった。

 夜の風が、頬を撫でていく。

 塀の脇に、古い石造りの建物が立っていた。


 屋根の十字架は、半分が欠けている。

 壁の白い塗りはげ落ち、すすと苔の色が、まだらに混じっていた。


 僕は、この建物を知っていた。

 昔、王家が祈りをささげた古い教会だ。

 父の代に城の中へ新しい大聖堂が建てられてから、誰も来なくなった場所だった。


 明かりは、漏れていない。

 扉にひたいを押し当てて、僕はやっと気づいた。

 自分が、もうほとんど立っていられないことに。


 扉が、内側から開いた。

 僕は前のめりに倒れた。

 倒れた体を、誰かが受け止めた。


「とうとう、この時が来ましたか」


 ろうそく一本の、弱い明かり。

 その下に、白い髪と深いしわの老人が立っていた。

 神父の、黒い法衣ほういの裾が、わずかに揺れている。


 老人の目が、腕の中の僕の顔を見た。


「奥へ、お入りなさい」


 声の調子が、少しだけ変わった気がした。

 でも、それを考える余裕は、僕にはなかった。


 老人は僕の腕を肩にかけ、祭壇さいだんの裏の、さらに奥の小部屋へ運んだ。

 寝台しんだいが一つ。机が一つ。それだけの部屋だ。

 高い窓から、月の光が斜めに落ちていた。


 僕は、寝台に倒れ込んだ。


「ロディエット様」


 神父の声は静かだったが、いつもとは違う硬さがあった。


「あなた様、お分かりですか」


 神父は、僕の脇腹に目を落とした。

 絹のシャツの裾を、手早くめくる。


「ここを、深く刺されておられます。

 暗殺者の手でしょう」


 僕は、ゆっくりまばたきをした。


「痛みが頭に届かぬよう、お身体が自分で止めていたのです。

 ……ですが、もう、もちませぬ」


 神父は、懐から一つの石を取り出した。

 こぶしの半分ほどの、薄い藤色ふじいろの魔石。


「ロディエット様。これより、変身の魔術をお掛けします」


「変身、の」


「逃げる間、王子のお姿のままでは、逃げきれません」


 藤色の石が、僕の額に押し当てられた。


「術の間、深く眠られます。

 眠っておられる間に、傷の手当てをいたします。

 目覚めた時には、痛みも、形も、別のものに」


「別の、形」


「ご了解いただく時間は、ありませぬ。

 お許しを」


 石が、額の上で、少しだけ温かくなった。


 光は強くなかった。

 父が見せた、空気そのものを引き寄せるような術とは違う。

 静かな術だった。


 藤の花の色が、肌の内側から、ゆっくり広がっていく。

 それからすぐに、意識が遠のいた。


 眠る、というより、水の底に沈んでいくようだった。

 痛みはない。

 ただ、自分の輪郭が、ゆっくり、別の形に溶けていく。


 ——これは、僕の——。


 そこまでしか、考えられなかった。


  *


 目が覚めた時、天井の蜘蛛くもの巣は、まだ揺れていた。

 風はないのに、揺れている。

 昨夜と、同じ揺れ方だった。


 昨夜と違うのは、僕の体のほうだった。


 最初に気づいたのは、首だ。

 寝返りを打とうとしたら、首が、思った距離より軽く回った。


 次に、肩。

 それから、胸の前で、布が、知らない重さで引かれた。


 僕は、動けなくなった。


 喉の奥で何かを呑み込もうとして、気づいた。

 喉仏のどぼとけのあった場所に、何もない。

 空振りに、近かった。


 心臓だけが、はっきり鳴っている。


 僕は目を閉じて、脇腹の傷を確かめようとした。

 痛みは、なかった。

 痛みがないこと自体が、別の恐ろしさを連れてきた。


「お目覚めですか」


 声のほうへ振り向こうとして、また首が回りすぎた。

 神父が、寝台の脇に椅子を引いて座っていた。


「……傷は」


「おふさぎいたしました。痛みは、もう残っておりませぬ」


「これは、僕の体では、ない」


「変身の魔術にございます」


 神父は、そう言った。

 言葉の選び方の中に、ほんの少し、間があった気がした。

 けれど僕の頭は、その間を拾える状態ではなかった。


「……なぜ、僕をかくまうのです」


 机の水差しから、水を一口含んだ。

 水は鉱物の匂いがして、舌に冷たく落ちた。

 その水が、知らない頬の内側を撫でていく。

 それが、ぞっとするほど、よそよそしかった。


「王と、ふるい知り合い、と申し上げておきましょう」


 神父は笑った。皺が、深くなる。


「旧い知り合いと申しても……私が幼い頃から、王のお顔は、何ひとつ変わっておられぬ」


 僕は、目を上げた。


 幼い頃、父の年齢を聞いたことがある。

 乳母うばも、文書庫の司書も、護衛も、誰も答えなかった。


 父自身に尋ねた時、父はこう言った。

「数えるな。数えれば、お前の生まれてきた意味が変わる」


 それきり、僕は数えるのをやめた。


「私は、今年で七十になります」


 神父の声は、淡々としていた。


「昔、噂で聞いたことがある。

 王は、三百五十を超えておられる、と」


 僕は、息を止めた。

 驚いた、というより、確かめられた、という感じだった。


 ——父は、三百五十年。

 その長さで、いったい何を見てきたのだろう。


 その問いは、今まで一度も、頭の中で形にならなかった。

 形にすれば、答えが何もないことに、気づいてしまうから。


「王は、信じておられた」


 神父は続けた。


「才ある者が長く生き、国を動かす。

 そのほうが、平民にとっても平和なのだ、と」


「ただ……人のねたみと欲は、王の見積もりより、ずっと大きかった」


 神父の声が、少し低くなる。


「貴族たちは、こぞって魔石を求めました。

 より若く、より長く、誰よりも長く。


 私は、王に忠告いたしました。

 このままでは、国は立ち行かなくなる、と」


「王は、何と」


「『分かっておる。だが、これは私の代では、もう止められぬ』。

 それが、王のお答えでした。

 ……四十年前のことです」


 四十年。


 止められないと知りながら、玉座ぎょくざに座り続ける。

 それは、どういう四十年だったのだろう。


「私はその日、心の中では、王の元を離れました」


 神父は、窓の外へ目を向けた。


「……ただし、本当に縁を断ち切ったのは、それからしばらく後のことです」


「しばらく、後」


「もうしばらく、とだけ。

 今、お話しするときでは、ありませぬ」


 神父は、それ以上、続けなかった。

 続けない、という選び方が、僕の中に、別の重さを残した。


 神父の言葉を聞きながら、私は膝の上の手を見ていた。

 細い指が、知らない僕の指が、震えている。

 それでも、神父の話から目をそらすことはできなかった。


「噂は、もう」


「流れております」


 神父の声から、笑いの皺が消えた。


「『王、ご乱心。自らの手にて、ロディエット王子を刺し殺す』。

 城下では、その話で持ちきりです」


 僕の指が、寝台の縁を握りしめた。

 爪が、木の柔らかい部分をえぐる。


 父を、悪役にする。


 狂った王として閉じ込め、ジェンドリック公爵が、王の代わりに国を動かす。

 そして僕の政策は、「王に殺されるほど危険な思想」として、永遠に封じられる。


 父は、三百五十年の最後に、息子殺しの汚名を着せられて、歴史に残る。


 ——必ず、お父様を、賢王として後の世に残します。


 別れ際に口にした、自分の言葉。

 あの時は、考えずに言った。

 その重さが、今になって、肩に落ちてきた。


「変身の魔術には、もう一つ、申し上げておかねばならぬことが」


 神父が、静かに言った。


「術は、術者が死ねば、解けます。

 掛けられた者が死んでも、解けます」


 僕は、その意味をたぐった。

 そして、思い至った。


 父は、僕の顔に変わって、絨毯じゅうたんの上に倒れた。

 父は、死ぬまでのほんの少しの間、変身を保てばよかった。


 それなのに父は、十六まで深く若返るほどの魔石を、使った。


「父は……術を見破られることを、見越して。

 わざと、深く若返ったのか」


「左様で。

 お父上は、最後まで政治家でいらした」


 胸の奥が、もう一度、きしんだ。


「ロディエット様。

 ここを、お出にならねばなりませぬ」


「兵が、来るのですか」


「兵だけなら、まだしのぎようがあります。

 私が恐れているのは……ジェンドリック公爵が送り込む、解析かいせきの魔導師です」


「解析」


「変身の魔術を、見破る者です。

 王立大学に、術の痕跡こんせきを読む者がおります。

 奴らが街道を回り始める前に、ここを出ねば」


「いつ、来る」


「分かりませぬ。

 ですが……半日のうち、と私は見ております」


 その言葉を呑み込もうとした、その時だった。


 外で、馬のひづめの音がした。

 いくつも。


 神父は窓の隙間から外を見て、すぐに振り返った。


「ジェンドリック公爵の兵です。

 教会の前で、止まりました」


「これは、先触さきぶれの小隊。

 本隊は、半日のうち。

 解析師は、その本隊の中におります」


「いま来た兵は」


「捜索の確認に過ぎませぬ。

 ……ですが、その確認の最中に、寝台の上で王子の衣を見つけられれば、すべて終わりです」


 神父は、立ち上がった。


「お着替えを。

 机に、修道服を置いてあります。


 私が手を貸せば、後で兵の目に、『女の身仕度を男が手伝った』と残ります。

 ……ご自分で、お願いいたします」


 神父は、早足で部屋を出ていった。

 扉の閉まる音が、いつもより硬く響いた。


  *


 机の上に、灰色の修道服が畳まれていた。


 僕は、寝台から、ゆっくり足を下ろした。

 足が床についた瞬間、膝が、知らない位置で内側に寄った。


 十六年、決まった幅で立ってきた骨が、別の幅で立ち直す。

 それを、僕はただ、内側から感じているしかなかった。


 逆らえない。

 それが、何より、恐ろしかった。


 寝間着を脱ぐ前に、もう一度、自分の手を見た。

 指が、細い。

 爪の形が、僕の知っているものより、少しだけ丸い。


 その時、正面の扉が、叩かれた。


「調査である。開けるぞ」


 低い、有無を言わせぬ声。


 僕は、寝間着を脱いだ。

 修道服の麻に、腕を通す。

 袖の長さが、少し合わない。


 胸の前で紐を結ぶ手順なんて、知らないはずなのに。

 指が、勝手に、それらしい結び目を作った。


 正面の扉が開く音。

 石の床を踏む、複数の靴音。

 神父の落ち着いた声が、「どうぞ、お調べを」と告げた。


 奥の部屋の扉が、勢いよく開いた。


「失……」


 兵士の声が、止まった。


 僕は、振り返らなかった。

 振り返れば、男の目線になってしまう。


 代わりに、片手で胸元の紐を引き寄せ、もう片方の手で襟を直す。

 その動きだけを、ゆっくり続けた。


 その動作は、僕が選んだものではなかった。


 体が、先に知っていた。

 この姿で、男の目をどうやり過ごせばいいのかを。


 ……落ち着け。

 今は、私だ。

 私として、やり過ごすしかない。


「これは……失礼、いたした」


 兵士の声が、別の硬さに変わった。


「すまぬ。城から逃げた王を、捜しておってな。

 この部屋には、他に誰か」


「……いえ。

 あの、私、だけです」


 口から出た声に、私自身が、少し驚いた。


 高くて、柔らかい、若い女の声。

 わずかな怯えと、戸惑い。


 その声が、私の頬骨ほおぼねの内側で、聞いたことのない響き方をした。

 男として十六年聞いてきた声と、今、頭の中で鳴っている声は、震えの通る場所が、違っていた。


「すまぬ。お邪魔した」


 兵士の声は、もう退いていた。

 靴音が、部屋から離れていく。


 正面の扉が閉まるまで、私は振り返らなかった。

 蹄の音が、教会の前から遠ざかっていく。


 神父が、奥の部屋に戻ってきた。


「ご無事で」


 私は、やっと息を吐いた。

 襟の紐を、もう一度結び直す。

 今度は、最後まで、きちんと。

 指は、まだ、自分のものではなかった。


「これを」


 神父は、別の魔石を、私の手のひらに置いた。

 深い紅色くれないいろの、小さな石。


「時が来た時、これをお砕きください。

 元のお姿に、戻られます」


 私は、握った。

 こぶしの四分の一ほどの、小さな石。

 父が使ったものとは、比べものにならない。

 でも、それで十分だった。


「もう一つ。

 お名前を」


 神父が、私の目を見た。


「ロディエット様、とは、もうお呼びできませぬ。

 道中、名を呼ばれる場面が、必ず参ります」


 私は、少し考えた。

 考える時間がほとんどないことも、分かっていた。


 考えても、何も浮かばなかった。

 十六年「ロディエット」でしかなかった頭は、別の名前を組み立てる枠を、持っていなかった。


 神父の目が、わずかに揺れた。

 ほんの、わずか、だった。


 皺の中の目が、一瞬、私の背後を見たような。

 そのまま、窓の外の何かを見たような。

 そんな、焦点の遠さがあった。


 それは、すぐに戻った。


「……リディア、では、いかがでしょう」


「リディア」


 私は、その音を、口の中で転がした。


 とっさに、振り向ける名前だ、と思った。

 「ロディエット」の影を、少し残しすぎている、とも思った。


 でも、その音はもう、口の中に座っていた。

 退ける理由が、どこにも見当たらなかった。


「……ええ。

 それで、お願いいたします」


「リディア様」


 神父が、繰り返した。

 その時、神父の声が、わずかに震えた。


 私は、それを、聞き違いだと思った。

 思おうと、した。


「よい、お名前です」


 神父は、深く頭を下げた。

 下げたまま、しばらく、上げなかった。


「アルテミシア」


 神父が、奥の扉に声をかけた。

 その声に、もう、震えはなかった。


 入ってきたのは、修道服の若い女だった。

 背は、今の私より、頭半分ほど高い。

 栗色くりいろの髪を、首の後ろで結んでいる。

 頬に、そばかすが、少しだけ散っていた。


 そして、目が、冷たかった。


 私を見たその目には、品定めも、敬意もなかった。

 何かを確認して、確認し終えたら、もう見ない。

 そういう種類の、目だった。


「神父様」


 アルテミシアの目が、神父に向く。


「お呼びは、何でしょう」


「この方を、街道の南。

 スミス男爵領まで、送ってくれ」


「……ええ。承りました」


「お名前は」


 神父が、答えた。


「リディア様、だ」


 その瞬間。

 アルテミシアの目が、止まった。


 でも、私は、見ていた。


「……神父様」


 アルテミシアの声が、低くなる。


「その、お名前で、よろしいので」


「他に、ふさわしい名は、思い浮かばなんだ」


 神父は、そう答えた。

 アルテミシアは、それ以上、訊かなかった。


 代わりに、もう一度、私を、頭の先から足の先まで、視線で撫でた。


「貴族のお守りなんて、気が進まんがね」


 冷たく、はっきりと。

 なまりのある言葉で、言い切った。


「歩けるんかね」


「……歩けます」


 私は、答えた。

 自分のものではない声で答えるのに、舌が、少しつっかえた。

 アルテミシアは、それを見ていた。


「……まあ、ええて」


 短く、言った。


 言ったあとで、アルテミシアは、肩にかけていた外套がいとうのフードを外した。

 そして、無造作に、私の頭にかぶせた。

 その手が、私の髪に、一度だけ、軽く触れた。


「霧が出とるもんで。

 風邪、ひかれては困るがね」


 冷たい声と、暖かい手つきが、つながっていなかった。


 アルテミシアは、扉のほうへ歩き出した。


「行こまい」


 振り返らなかった。


 私も、続こうとして、神父にもう一度、頭を下げた。

 頭を上げた、その時。


「リディア様」


 神父が、もう一度、呼んだ。

 その声は、低く、静かだった。


「風の噂で、所信表明の中身を、お聞きしました。

 平民の寿命のこと。

 子どもを育てる人たちのこと。

 国の未来のこと。

 ……すべて、聞きました」


 神父は、そこで、一拍、置いた。


「私は四十年前、心の中で、王の元を離れました。

 それから今日まで、この古い教会の隅で、ルクセリアの未来を、半ば諦めて生きてまいりました」


「私はこの古い教会の番人となりました。

 誰も来ない場所で、いつかあなた様のような方が扉を叩く日を、待っていたのかもしれませぬ」


「……ですが、昨夜。

 初めて、もう一度、信じてもよいのかと、思いました」


 私は、何も言えなかった。


「王子のお考えを、どうか、おみのらせください。


 止めるのではなく――変える、ということを」


 神父は、ただ一度、深く頭を下げた。


「――どうか、よろしくお願いいたします」


 私は、もう一度、頭を下げた。

 言葉では、返せなかった。

 返してはいけない気も、した。


 私は黙ったまま、扉のほうへ歩き出した。


  *


 教会の扉が、音もなく閉じた。


 街道に、朝の冷たい霧が降りている。

 霧の向こうから、まだ蹄の音が、遠く響いていた。

 それはもう、私たちを追う音ではない。

 ……少なくとも、今のところは。


 私は、修道服の襟元を、もう一度しっかり整えた。

 そして、霧の中を歩き出したアルテミシアの背を、追った。


 歩き出した瞬間、足の運び方が、いつもと違うことに気づいた。

 腰が、左右に、わずかに揺れる。

 それは、女の歩き方だった。


 私は、その揺れに、自分の体重を任せるしかなかった。


 前を行くアルテミシアは、何も言わない。

 ただ、歩いていた。


 頭にかかった、見知らぬ女の外套のフードが、霧の重みで、わずかに沈んだ。


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