第1話 暖炉の向こう
半年かけて、準備をした。
城下町には、十二回も足を運んだ。
この十年で死んだ人たちの記録を、全部、自分の手で書き写した。
そうして今日。
貴族が百人も集まる広間で、僕は立った。
そして、これからやりたいことを、話した。
この国の平民は、貴族に「魔力」を差し出して生きている。
魔力は、命とほとんど同じものだ。
差し出しすぎれば、若い体でも、あっという間に老人のようになる。
だから平民は、二十歳くらいで、おじいさんやおばあさんになって死んでいく。
なのに貴族は、百歳を超えても、若いままでいる。
おかしい。
こんなのは、間違っている。
だから僕は、いくつもの案を出した。
平民が差し出す魔力に、上限を決める。
子どもを育てている間は、差し出さなくてよくする。
貴族がため込んでいる魔石を、配り直す。
ジェンドリック公爵とも、カルディオ伯爵とも、何度も言い合った。
——けれど。
賛成は、一つも得られなかった。
自分の部屋に戻って、僕は机に額を押しつけた。
冷たい木の感触が、熱を吸ってくれる。
それでも、頭の熱は、引かなかった。
「……どうして、分からないんだ」
口の中で、つぶやく。
「このままじゃ、みんな死ぬのに」
死は、誰にでも来る。
公爵にも、伯爵にも、王である父にも、いつかは来る。
それを、次の世代に引き継ぐ。
ただ、それだけのことだ。
なのに、どうしてこんなに嫌われるんだろう。
理由は、分かっていた。
あの人たちにとって、「次の世代」なんて、どうでもいいのだ。
自分が千年でも生きられるなら、子どもに何かを託す必要はない。
若返りは、ただの「若返り」じゃない。
あの人たちにとっては、「永遠に死なない」ことそのものなんだ。
それでも。
「みんなが死んでからじゃ、遅いんだ」
口に出してから、自分で笑ってしまった。
広間で言わなくてよかった台詞だ。
あんなことを言えば、ベルダム侯爵は鼻で笑っただろう。
カルディオ伯爵は、こう切り返してきたはずだ。
「それは理屈ではなく、感情ですな」と。
感情で動く者は、政治では必ず負ける。
父が、夕食の席でそう言ったのは、三か月前だった。
「私が、後ろ盾になる」
父は言った。
「お前の代で、この国を救え。
私を、愚かな王として歴史に残してでも、構わぬ」
あの夜の父の目は、いつもと違った。
普段の父の目は、虚ろだ。
長く生きすぎた人の、どこも見ていない目。
でも、あの夜は違った。
父は、僕を見ていた。
「ロディエット様。失礼いたします」
扉が、ノックされた。
僕は額を机から上げて、表情を直した。
「入れ」
入ってきたのは、世話役のハリスだった。
朝は僕の髪を整え、夜は湯の支度をする女の人だ。
「今日のご演説、お疲れ様でした」
ハリスは、蜂蜜を溶かした湯を、銀の盆にのせて運んできた。
それを、机の脇に、そっと置く。
「城の中、王子様のお話で持ちきりですよ」
「笑い物の、間違いだろう」
「いいえ。みんな、震えております。
あんなにはっきり物を言う王族は、初めてだって」
ハリスは、笑った。
いつも通りの、控えめな笑いだった。
——いつも通り、過ぎる笑いだった。
どうして、そう感じたのか。
理由を考えるより先に、扉が、もう一度開いた。
「ロディエット様、しつ……」
入ってきた声が、止まった。
僕が顔を上げると、扉の前に、もう一人のハリスが立っていた。
同じ髪型。
同じ顔。
同じ服。
同じ、銀の盆。
部屋の脇に、ハリス。
扉の前にも、ハリス。
同じ顔が、二つ。
扉の前のハリスが、両手で口を押さえた。
息ができないみたいに、口がぱくぱく動く。
そして、盆を取り落とした。
湯が、絨毯にしみこんでいく。
部屋の脇のハリス——いや、ハリスの顔をした女が、ゆっくり動いた。
扉のハリスに、近づいていく。
一歩、踏み出す。
——音が、しなかった。
絨毯の上を歩いているはずなのに、足音が、しない。
その違和感に気づくのが、遅れた。
僕の目は、もう「本物のハリス」に向いていたからだ。
本物のハリスは、後ろに下がろうとして、扉の枠に背中をぶつけた。
その音だけが、やけに大きく聞こえた。
偽物のハリスが、本物に歩み寄る。
そして、その胸の下を——肋骨のあたりを——右手で、そっとなぞった。
小さな、優しいとさえ見える動きだった。
本物のハリスの口が、動いた。
何か言おうとしている、と思った。
叫びか、助けを求める声か。
でも、声は、来なかった。
口は、動き続けていた。
動き続けているのに、声だけが、来なかった。
偽物のハリスが、本物の耳元で、囁いた。
「息が、できなくなるの」
本物のハリスは、目を見開いたまま、偽物の腕の中に崩れ落ちた。
偽物は、その体を、そっと絨毯に横たえた。
酔って眠った人を寝かせるみたいに、丁寧に。
そして、こっちを見た。
「ふふ」
笑った。
「これなら、声を出させずにすむでしょう。王子様」
膝が、震えた。
舌が、上あごに張りついた。
頭の中では、いくつもの言葉が回っていた。
護衛を呼べ。
鈴を鳴らせ。
机の引き出しの、短剣を取れ。
どれも、声にならない。
手も、動かない。
体は、椅子の上で固まっていた。
でも、頭だけは動いている。
動いているから、よけいに分かってしまう。
——自分の体が、まったく動かないことが。
ハリスの口は、もう動いていなかった。
いつから動かなくなったのか、それすら分からなかった。
これが、死というものか。
偽物のハリスが、音のない足どりで、近づいてくる。
「ロディエット!」
扉が、もう一度開いた。
そこに、父が立っていた。
いつもの父の目は、虚ろだ。
三百年を超えて生きてきた人の、すり減った目。
でも、今は。
その奥に、何かが灯っていた。
消えかけたかまどの奥に、まだ小さな火が残っているような。
その目が、まっすぐ僕を見ていた。
父の右手には、一本の杖が握られていた。
黒い杖に、いくつもの魔石がはめこまれている。
王家の杖だ。
僕は、これまで二度しか見たことがない。
父が王になった日と、母が城の離れに移された日だけ。
父は、その杖を、まっすぐ偽物のハリスに向けた。
偽物のハリスは、杖の先を見た。
音のない足どりが、止まった。
彼女の喉が、初めて音を立てた。
息を、のんだ音だった。
偽物の目に、初めて、感情のようなものが浮かんだ。
——恐怖だ。
それでも、彼女は退かなかった。
ナイフを振りかぶり、絨毯を蹴った。
「ロディエット、目を閉じよ!」
父の声が、響いた。
僕は反射的に、両腕で顔をかばい、目を閉じた。
その瞬間。
——音は、後から来た。
最初は、光だった。
閉じた瞼の裏が、真っ白になる。
腕の毛が、ぜんぶ逆立った。
皮膚が、内側から押し返されるような圧。
それから、音。
窓ガラスが割れる音じゃない。
壁そのものが、消える音だった。
体が、椅子ごと後ろに滑った。
頬に、冷たい外の風が当たった。
目を開ける。
部屋の北側の壁が、無くなっていた。
ぽっかり開いた向こうに、夜の空が見える。
壁の二枚分、奥まで吹き飛んでいた。
偽物のハリスは、いない。
部屋の真ん中に、父が立っていた。
杖を、まっすぐ突き出したまま。
そして、その腹に。
ナイフが、深々と刺さっていた。
「父上!」
僕は、椅子から転げ落ちるように立ち上がった。
「無事か」
「父上、お腹に……!」
「あぁ、これか」
父は、刺さったナイフを見下ろした。
柄を握り、ためらいもなく、抜いた。
血が、流れ出す。
それでも、父の表情は、変わらなかった。
「ロディエット。私のところにも、暗殺者が来た。
もう、ここは安全ではない」
父の口から、血が一筋、流れた。
「『大法官になった王子は、その夜、暗殺された』。
明日の朝、城下に、その噂が流れる。
お前は、死んだことにする」
廊下の方から、足音が走ってくる。
複数だ。
警備兵の靴の音と——それに紛れる、足音のしない誰かの気配。
父は、懐から何かを取り出して、両手で包んだ。
こぶしほどの、深い赤色の魔石だった。
魔石が、内側から光った。
深い、深い赤。
父が、息を吸った——いや、吸う音はしなかった。
代わりに、部屋の空気が、いっせいに父の方へ引かれていく。
僕の髪も、父の方へ揺れた。
父の顔が、変わり始めた。
顔が、どんどん若くなっていく。
二十歳、十八歳、と下がっていく。
顎の線が、やわらかくなる。
頬が、丸みを帯びる。
——止まったとき。
そこには、僕とそっくりの顔があった。
父が、目を開けた。
三百年生きてきた疲れが、魔力といっしょに、いったん消えたみたいだった。
その目は、焦点が合っていた。
まっすぐ、僕を見ていた。
「これでよい」
声まで、僕の声だった。
父は、杖を僕の胸に押しつけた。
「これを持って行け。
私の部屋の暖炉の奥に、抜け道がある。
二度、右に折れろ。
三つ目の分かれ道で、左だ。
外の教会を訪ねよ。
それから、スミス男爵のところへ行け。
神父には、もう伝えてある」
「いやです」
声が、出た。
自分でも、驚くほど素直に。
「僕は、父上が、いないと」
「もう、お前は『お前』ではない」
父は——僕の顔をした人は——優しく言った。
「お前は今夜、死んだ。
死んだお前は、しばらく、別の人間として生きよ。
時が来たら、お前として戻ってこい。
そして、この国を救ってくれ」
僕は、何度か口を開いた。
言葉が、すぐには出てこなかった。
そして、最後に、こう言った。
「必ず。
父上を、賢い王として、歴史に残します」
父が、笑った。
僕と同じ顔で。
でも、僕にはまだ出せない、深い笑いだった。
「行け!」
父が、僕の背中を押した。
僕は、隣の——王の寝室に、飛びこんだ。
暖炉の煉瓦の、左から三段目を押す。
それは、ずっと前に、父が教えてくれた合図だった。
煉瓦が、内側に沈む。
暖炉の床が、横に滑った。
暗い、下りの石段が、現れた。
僕は、振り返った。
部屋の真ん中で、僕と同じ顔の父が、絨毯の上に倒れていた。
腹の傷から流れた血が、絨毯を黒く染めていく。
父は、天井を見ていた。
何を考えているのかは、読めなかった。
僕は、石段に足を踏み入れた。
背後で、暖炉が元に戻る音がした。
完全に閉じきったところで、僕は、やっと息を吐いた。
涙は、出なかった。
出している場合では、なかった。
杖を、握り直す。
これを父と思え。
父は、そう言った。
僕は、杖の魔石を、額に押し当てた。
冷たかった。
でも、その冷たさだけが——いま自分が「ロディエット」として生きている、たった一つの証だった。
そして、暗い石段を、下り始めた。
背後で、何かが破裂する音が、響き始めた。
警備兵の怒鳴り声と、誰かの叫び声が、混じり合う。
僕は、振り返らなかった。




