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第9話 風と火

 背後で、地面を蹴る音が、みるみる遠ざかっていく。


 アルテミシアだ。

 正面にいた弓使いを追って、森の奥へ走っていったのだ。


 身体強化の気配が、十歩、二十歩と遠ざかる。

 あっという間に、私の感覚の外へ消えた。


 私は、振り返らなかった。

 振り返ったら、戻る道が見えてしまう気がしたから。


 二十歩ほど先。

 開けた木立の中に、灰色のローブの女が立っていた。


 魔術師だ。

 歳は、アルテミシアと同じくらい。たぶん二十歳前後。


 首から、親指の先ほどの灰色の魔石を下げている。

 それが胸の前で、ゆれていた。


 ローブの陰から、細い杖《つえ》がのぞいている。

 その先には、青く澄んだ大きな魔石。


 女の口元には、まだ笑いが残っていた。

 人を、見下す笑いだった。


 私には、ひとつだけ、思い当たることがあった。


 宿場の老人の手に触れたとき。

 寝台《しんだい》の少女の指先に触れたとき。


 あのとき、私の中に、相手の人生の切れはしが流れ込んできた。

 ——たぶん、あの力だ。


 私は父の杖を前に突き出し、駆けた。


 修道服のすそが、低い枝に引っかかった。

 ぴり、と布が裂ける。

 でも、止まらない。


 腿《もも》の擦《す》り傷が、走るたびに新しく血をにじませる。

 それも、かまっていられなかった。


 魔術師が、こちらに杖を向けた。


「ふん。突っこんできたのね」


 その声には、まだ余裕があった。


「腕の一本でもなくなれば、あきらめもつくでしょ」


 杖の先の魔石が、青く光りはじめた。


 女のまわりで、見えない何かが動き出す。

 落ち葉が、足元からゆっくり浮かび上がる。

 土の細かいつぶが、杖の先へ巻き込まれていく。


 風だ。

 風が、女の意志にしたがって、一点に集まっていく。


 その瞬間。


 私の頭の中に、それが、はっきりと映った。


 円と、まっすぐな線。

 ぐるぐると渦を巻く形。

 ぎゅっと押しちぢめる向きの、矢印。


 女の頭の中で組み上がっていく紋章《もんしょう》の設計図が、空中に見える。

 その図形が、私には読めてしまう。


 矢印の先が、指している。

 私の、左腕だ。

 いま走りこんで、突き出している、まさにこの位置。


 私は、走る勢いを、ほんの少しだけ右へねじった。

 左腕を引っこめ、上半身を右に傾ける。


 風の刃が、空気を薄く切った。


 左腕のすぐ脇を、何かが通りすぎる。

 背後の太い松の幹が、ばちん、と上から下まで裂けた。

 はがれた樹皮《じゅひ》が、地面に落ちる。


「何っ!?」


 はじめて、女の声から余裕が消えた。


「そんな、馬鹿な……」


 杖の先が、もう一度、青く光る。


 さっきと同じ、風刃《ふうじん》の紋章だ。

 ただし、集まる点の位置がちがう。


 ——膝《ひざ》の高さ。

 土のつぶが、今度は地面に近いところに集まっていく。


 さっきと同じ風だ。低い。膝を狙ってる。

 ——今だ。


 私は、地面を強く蹴った。


 走る勢いのまま、両足を地面から離して跳ぶ。


 風の刃が、私の足の下を、横に走った。

 地面の土が、線になって舞い上がる。

 落ち葉が、半分に切れて散った。


 私の足は、もう刃の上にある。


 着地。

 着地とほぼ同時に、もう一歩、踏みこんでいた。


 女との距離が、二十歩を切る。


 魔術師の顔から、表情が抜けた。


「読まれて……いるの……?」


 つぶやいた声には、もう見下す色はなかった。

 怒りでも、焦りでもない。


 もっと奥にある、別の色。

 ——恐怖だった。


 杖の先の魔石が、青から、赤へ変わる。


 私の頭に、さっきとはちがう、ちりちりした感覚が流れこんできた。

 何かの、予兆だ。


 ——火の紋章。


 空中に、こみいった形が浮かぶ。

 円の中に、三角と、線がからみあっている。


 もともと自然にある熱を、つかまえて、一点に寄せ集めるための図形。


 そしてそれは、さっきの風よりも、ずっと大きかった。


 まずい。

 広い範囲に、火の力が集まってる。

 ——逃げ場が、ない。


 まわりの空気が、ぐんぐん乾いていく。

 木の葉のふちが、くるりと巻きはじめる。

 苔《こけ》の湿り気が、見えない湯気になって立ちのぼった。


 まわりの熱が、残らず、一点へ吸い寄せられていく。


 私の右手が、ほとんど無意識に、腰の脇へ伸びた。

 魔術師の杖の先から、赤い光が放たれる。


 次の瞬間。


 女を中心に、空気そのものが、ぶわっと燃え上がった。


 業火《ごうか》。

 落ち葉が、苔が、低い茂みが、一瞬で青みがかった赤い炎に包まれる。

 熱風が、私の肌をなでた。


 火の壁が、まわりをぐるりと囲んでいた。


「あははははっ」


 火の向こうから、女の高笑いが聞こえる。


「もう、死んじゃえよっ」


 その、とき。


 火の壁を、私は突き破って飛び出した。


 魔術師の顔が、すぐ目の前にあった。

 おどろいた顔だった。


 杖を使うより先に、体が動いていた。

 私の右の拳《こぶし》が、その顔へ向かう。


 ——届け。


 でも。


 腕の振りが、思い描いた線と、ずれた。


 肩の動かし方が、男だったころとちがう。

 腰のひねり方も、ちがう。

 体重を、右の拳に乗せきれない。


 拳は、女の頬をかすめただけだった。


 そのとき気づいた。

 自分の足が、地面を踏みそこねている。


 腰の幅がちがうこの体は、思っているより、わずかに内側を踏んでいた。


 足が、もつれた。


 私は、横向きに倒れた。


 魔術師は、おどろいた顔のままだった。

 けれど私が転ぶのを見て、また笑いに戻った。


「……なによ。

 びっくりしたじゃない」


 笑いながら、女は杖を向け直す。


 立ち上がらないと。


 でも、私の腿は、もう動こうとしなかった。

 擦り傷が、ぱっくりと開いていた。


 駄目だ。

 ——風と、圧縮《あっしゅく》の紋章が、もうできてる。


 また、設計図が頭に流れこむ。

 完成した紋章。

 発動の、寸前。


 避けられない——。


 風の渦が、最後の形に、ぎゅっと集まりきった。


 その瞬間。


 魔術師の右手首に、細い剣が、音もなく突き刺さった。


 私の目には、それが空から降ってきたように見えた。

 アルテミシアだ。

 跳んだまま、刺したのだ。


 完成しかけた風の刃が、制御を失ってぶれる。

 私の脇のすぐ上を、ひゅう、と細い風だけがかすめた。

 背後の茂みが、葉ごと一筋に裂けた。


 アルテミシアの両足が、地面を踏む。

 着地の重みを、そのまま剣の柄《つか》に乗せて、手首をぐるりと半円にひねる。


 細い刃が、関節の内側で、骨と腱《けん》のすき間をこじ開けた。

 身体強化の重みが、まっすぐ刃に乗っていた。


 ぶつり、と。


 魔術師の右手が、杖を握ったまま、地面に落ちた。

 握りから、魔石が転がり出る。


「あぁぁぁぁぁっ!!」


 女の絶叫が、森じゅうに響いた。



 ――――――



 アルテミシアは、額の血を、手の甲で一度ぬぐった。

 傷は、もう乾いている。

 刺突剣《しとつけん》の刃には、新しい血がついていた。


「片付けたがね」


 短く、そう言った。


 そして剣を、よどみなく、魔術師の胸へ——心臓の位置へ突き刺した。


 柄まで届いた切っ先が、止まる。

 女の絶叫が、止まる。


 体が、地面に崩れ落ちた。


 アルテミシアは剣を引き抜き、刃を一度振った。

 血が、地面に飛ぶ。


 それから、倒れたままの私を見下ろした。


「……でら、よくやったがね」


 その声に、はじめて、訛《なま》り以外の何かが混じっていた。

 たぶんそれは、認める色だった。


 私は、あおむけのまま、その声を聞いていた。


 返す言葉が、見つからない。


 ただ、頬の脇を、新しい涙が一筋、流れ落ちただけだった。


 森の奥で、馬の鳴き声が、遠く、聞こえていた。

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