第10話 男爵領
アルテミシアが、刺突剣の刃を布でぬぐった。
魔術師の血は、暗い赤から、ほとんど黒に近い色に変わっていく。
森の湿った空気のなかで、地面に落ちる前に、半ば固まり始めていた。
アルテミシアが、私に手を差し出した。
「立てるかね」
私は、その手を握った。
思っていたより、ずっと硬い手だった。
墓を掘り、薪を割ってきた手。
その厚みが、細い指の付け根にまで残っていた。
体を起こす。
私は修道服の裾を払って、腰についた土を落とした。
——その時だった。
胸の真ん中に、何かが入ってきた。
冷たくて、目に見えないもの。
それが肋骨の内側を押し開けて、ゆっくりと、心臓に向かってすべり込んでくる。
はっきりと、分かった。
息が、喉の途中で詰まった。
頭の奥で、聞いたことのない音が鳴り始めた。
耳鳴りに似ている。でも、もっと低い。
誰かの息のような、誰かの絶望のような、意味の取れない音。
こめかみが、内側から押された。
私は、一歩、後ずさった。
鼓動が、止まらない。
「リディア?」
アルテミシアが振り向いた。
「怪我は無いんか。炎に巻き込まれた気がしたんだて」
「う、うん。だ、大丈夫」
私は、自分の胸を押さえた。
布の下に、血の感触は無い。傷も無い。
ただ、心臓だけが、まだ跳ねていた。
……今のは、何だったんだ。
分からない。
口に出す言葉も、まだ、持っていなかった。
アルテミシアの目が、不思議そうに私を見ていた。
「お前——」
「すみません。なんでもありません」
私は頭を振った。
胸の鼓動を無理やり押さえつけ、息を整える。
「あの炎、どう避けたんよ」
アルテミシアが、やっと刺突剣を鞘に戻した。
「間に合わなんだ、と思っとったんだがね」
私は、少し答えに迷った。
でも、一緒に戦いを切り抜けた相手に嘘をつくのは、違う気がした。
「あの人が、ありったけの魔力で、炎の紋章を使って、広い場所を燃やそうとしている。
それが、見えました」
私は、言葉を続けた。
「逃げ場が無いと分かったので——
炎の力が、いちばん薄くなる一点を探したんです。
そこに、持っていた水筒の水をぶちまけました」
私は、腰のわきの、空になった革の袋を軽くたたいた。
「水をかぶった所だけ、熱が散ります。
そこを、走り抜けました」
アルテミシアの目が、少しだけ見開かれた。
それから、腕を組む。
眉の上の、まだ乾いていない血のあとを、無意識に指でなでた。
「紋章が見えるわけ、にゃあだろうて。適当なこと、言うんでにゃあ」
「ほ、本当ですよ」
私は慌てた。
「力の流れ、とでも言えばいいんでしょうか——
相手が魔法を組み立てるときに出している魔力を、感じ取れるんです」
「そんなの、見えるわけ——」
そこまで言って、アルテミシアは口を閉じた。
私は不思議に思い、首をかしげて、彼女を見返した。
アルテミシアは、その顔を、しばらく見つめていた。
あの炎は、たしか、半径十歩をすべて焼きつくす魔法だった。
そのなかで、人が生きていられるはずがない。
——きっと彼女は、そう思っていたんだろう。
私のことを、もうあきらめていたのかもしれない。
その目が、何を考えているのか。
私には、半分しか分からなかった。
やがて、アルテミシアは視線を外した。
それ以上は考えない、という外し方だった。
アルテミシアが、口笛を吹いた。
長くて、低い音だった。
——教会の馬は、神父様が調教している。
おびえて散っても、この音には戻ってくる。
街道に出た最初の朝、私はそう聞かされていた。
しばらくすると、森の奥から、ばたばたと蹄の音が聞こえてきた。
散らされていた二頭の馬が、戻ってきた。
私の修道服は、煤で、ところどころ黒く焦げていた。
腕の肌にも、軽い火傷ができている。
私は湖のふちまで戻った。
冷たい水を手にすくい、火傷に押し当てる。
熱が、少しだけ引いた。
「行こまい」
アルテミシアが、馬の鞍にまたがる。
「あ、はい」
それから、二日。
馬は、ゆっくりと街道を進み続けた。
湖を抜け、針葉樹の森を抜け、丘をひとつ越えて、また別の平野に出た。
獣の影は何度か見えたけれど、どれも、こちらには近寄ってこなかった。
最初の夜は、街道のわきの窪地で野宿をした。
焚き火のそばで、アルテミシアは何も言わず、私の腿に巻いた布を解いた。
新しい水で傷口を洗い、別の布を巻き直す。
手つきは、雑だった。
それでも、結び目だけは、馬に揺られても緩まない形に、きちんと整えられていた。
お礼を言おうとした、その時。
胸の真ん中に、もう一度、見えないものがすべり込んできた。
息が、喉の途中で止まる。
焚き火の炎が、一瞬、二重に見えた。
頭の奥で、低い耳鳴りが鳴る。
誰かの息のような、意味の取れない音。
私は、唇を噛んだ。
……いやだ。
ぼ……僕は。
何が、起きてるんだ。
大丈夫。
そう、自分に言い聞かせる。
向かいで、アルテミシアの目が、ちらりと動いた。
でも、何も訊かなかった。
私も、何も言わなかった。
二日目の昼を過ぎたころ。
街道の先に、ゆるやかな丘が見えてきた。
丘の上に、何かが並んでいる。
最初は、低い塀のように見えた。
——丸太だった。
人の背丈ほどの太い丸太が、地面に深く埋まっている。
馬では、とても越えられない高さ。
あいだには、細い丸太や板が、横に打ちつけられていた。
でも、ところどころで丸太が傾き、板も、湿気と腐りで、だらりと垂れ下がっていた。
昔は手入れされていたんだろう。
今は、ぎりぎり保っているだけだった。
「スミス男爵領、だがね」
アルテミシアが、馬の歩みを緩めた。
「もう少し進めば、門があるて」
林を抜けると、木で組まれた両開きの門が見えてきた。
門柱の上に、銅の小さな鈴が、二つ吊られている。
風に揺れて、控えめな音を立てていた。
私たちは、馬を降りた。
門の手前を通り過ぎようとした、その時。
門柱の影から、二人の男が現れた。
腰に、剣を提げている。
でも、鎧は着けていない。
麻のような、薄い布の服。
門番というより、今すぐ隣の畑に戻って、鍬を握りそうな格好だった。
「止まれ」
声は低かったけれど、敵意は無かった。
「シスター。スミス男爵領に、何用か」
アルテミシアは、首から下げた紋章を外して、男たちに見せた。
銀の十字の真ん中に、小さな赤い石を嵌めた、教会の紋章だった。
「ボジヴォイ神父の命により、領主様に謁見いたしたく、参りました」
——神父様の使者として立つとき、彼女の声から、訛りが消える。
私は、その切り替えに、いつも感心してしまう。
兵士の一人が紋章を確かめ、もう一人と、目で合図を交わした。
「承知いたしました。お通りください」
兵士は、頭をわずかに下げた。
「スミス男爵には、ご謁見の旨、お伝えしておきます。
ただ、本日はもう日が傾いておりますゆえ——
まずは村の宿屋で、お休みになってはいかがでしょうか」
「お心遣い、感謝いたします」
アルテミシアが、もう一度、軽く頭を下げた。
兵士は、先導するように、門の内側へと足を進めた。
私も、馬の手綱を引いて、その後に続いた。
鈴の音が、門の上で、もう一度、控えめに鳴った。




