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第11話 宿屋

 村に入ったとたん、私は気づいた。

 ここは、王城下の街道とは、まるで別物だ。


 道は、石畳じゃない。

 踏み固めただけの、土の道だ。

 雨で深くえぐれている場所もある。


 馬が進むたび、蹄《ひづめ》が、ぐじゃ、と湿った音を立てた。


 道の脇に、浅い溝が走っている。

 下水だ。

 白い泡みたいなものが浮いていて、酸っぱい匂いが立ちのぼってきた。


 それでも、と私は思う。

 王の直轄地《ちょっかつち》の村に比べれば、ここはまだ、人が生きている。


 道の両側に、木の家が並んでいた。

 どの家の前にも、低い木の囲いがある。

 その中に、何かが植えてあった。


 紫の、小さな花。

 まだ若い、緑の葉野菜。


 風に、料理の匂いが混じる。

 玉葱《たまねぎ》を炒める匂い。

 燻製《くんせい》にした肉の、燻《いぶ》りの匂い。


 私の腹が、また鳴った。

 今度は、聞こえなかったことにした。


 ある家の前を通り過ぎた、その時。

 家の前の、木のベンチに、男が一人、座っていた。


 私の足が、止まった。


 その顔。

 それは、宿場で椅子に座っていた、あの老人と、同じ顔だった。


 遠くで、鍋を叩く音がしていた。

 子供の笑い声も聞こえていた。

 でも、その男を見た瞬間、それが急に、遠のいた。


 正確には、同じ顔じゃない。

 でも、皺《しわ》の入り方が同じだった。

 皮膚が、内側から張りを失って、勝手に下へ垂れている。

 頭には、白い毛が、わずかに残っているだけ。


 私の右手の、真ん中。

 そこが、ずくり、と疼《うず》いた。


 ——思い出してしまった。


 宿場で、あの老人の指先に触れた、あの朝。

 頭の奥で鳴り始めた、低い音。

 視界の端が、二重に歪んだ、あの瞬間。

 他人の心臓の音が、私の心臓の音の中に、混ざり込んできた感覚。


 体が、覚えていた。


 私は、半歩、後ずさった。

 指先の温度だけが、いまは妙に冷たい。


 もう片方の手で、自分の指の関節を撫でる。

 その下に、温かい肉の感触があった。

 それを確かめるまで、足が動かなかった。


「すみません、シスター」


 兵士が、振り返った。

 その声に、苦《にが》いものが混じっていた。


「最近は、魔力奉仕が重なりすぎて、ああして老いが進む者が増えております。

 このままでは、領地《りょうち》が、立ち行かなくなる」


 私とアルテミシアの肩が、ほとんど同時に、落ちた。


 ここでも、か。

 この国は、どこも、こうなのか。


 兵士はアルテミシアに向き直って、頭を下げた。


「シスター様。遠くから、ありがとうございます。

 この領地には、教会がございません。

 あなた様のお越しが、領民の、たった一つの慰《なぐさ》めなのです」


「神父様の名代《みょうだい》として、参っております」


 アルテミシアの言葉から、訛《なま》りが消えていた。

 きちんと整った、よそ行きの声だった。


「先ほどの、ベンチの方も——」


 兵士は、いま通り過ぎてきた家の方を、もう一度振り返った。


「ご自分の意志で、領主様に、最後の魔力を捧げておられます。

 その代わり、領主様は、毎月の食料を、ご遺族にお送りになる。

 それが、領主様と、奉仕する者との約束です」


 兵士の声に、誇りのような温度があった。


「あの方の奥方は、子を産まれて、まだ二年と経っておりません。

 王の命令では、出産の前後一年は、奉仕を免除すると決められております。

 ですが男爵様は、その一年に、もう一年を、ご自分で足された。

 母親が、子のそばに、二年いられる。

 この領地では、そうなっております」


 私の足が、もう一度、止まりかけた。


 出産のあと、二年。


 評議《ひょうぎ》の間で、私が貴族たちに問うたこと——

「乳を与え、布を替え、熱をはかり、抱き上げ、語りかける者が要ります」と言った、あの時間。

 それが、ここでは、ちゃんと仕組みになっていた。

 王の命令に、もう一年を、足して。


 私は、何も言わなかった。


 法を学ぶ者として、その「自分の意志」という言葉を、疑うべきだった。

 弱り切った人の選択を、本当に、自分で選んだ契約と呼べるのか。


 でも、いま口にすべき問いではない。

 そう思って、飲み込んだ。


 兵士は、ベンチの方を、もう一度見た。

 その視線が、地面に落ちた。


 声の温度が変わったのは、その瞬間だった。


「くそっ。……王族はなんで、無茶なことばかり言いやがる!」


 私は、何も言えなかった。

 足が、地面に縫いつけられた。


 ——王族はなんで。


 その声が、私の胸の内側で、ゆっくり反響した。


 父の顔が、浮かんだ。


 『夕食の卓で、「私が後ろ盾になる。お前の代で、この国を救え」と言った、あの夜の父。

 焦点の合った目で、ロディエットを——私を、まっすぐ見ていた』


 その父が——いや、父の名のもとで動く、誰かが——この土地から、何を奪っていったのか。

 私には、まだ、分からなかった。

 分からない、ということ自体が、私の落ち度だった。


 過去十年の死亡記録を、私は自分の手で書き写した。

 書き写したから、分かっているつもりだった。


 ——「分かっていた」と、思っていただけだ。


 評議の間で「皆、死ぬのだ」と口にした、自分の声。

 あの声の中に、いまベンチに座っていた男も、その奥方も、二歳にもならない子も、入っていなかった。

 ただの、数字としてしか。


 私は、口を閉じた。

 いま口を開けば、自分の正体まで、一緒に零《こぼ》れ落ちそうだった。


「は」


 我に返ったように、兵士が口を押さえた。

 その顔から、血の気が、一気に引いた。


「すみません。いまのは、聞かなかったことに。

 明日、領主様にお会いいただけるよう、お伝えします。

 ……ここが、宿になります」


 兵士が示したのは、目の前の、二階建ての建物だった。


 木で造られた、宿屋。

 看板には、葡萄《ぶどう》の絵と、寝台《しんだい》の絵が、並んで彫ってある。

 屋根からは、薄い煙が立ちのぼっていた。

 中で、料理が進んでいる気配があった。


 街道の途中で通った村を、私は思い出した。

 看板の字すら、ほとんど読めない建物ばかりだった。


 馬を、隣の小屋に繋ぐ。

 兵士はもう一度頭を下げて、来た道を戻っていった。


 二人で、押し扉を開けて、中に入った。


 受付の机が、正面にあった。

 でも、誰も座っていない。


「あれ。お客さん?」


 奥の、居間のような場所から、声がした。


 少女だった。

 十二歳くらい。

 栗色《くりいろ》の三つ編みを、肩の前に垂らしている。


 手元には、木の箱が、いくつも積んであった。

 箱の中には、丸い橙色《だいだいいろ》の果物が、ぎっしり詰まっている。

 オレンジだ。


 部屋の中に、柑橘《かんきつ》の、青く爽やかな匂いが漂っていた。


「いらっしゃい。

 シスター、お二人ですか?

 お食事は、どうしましょう?」


 私は、息を止めた。


 いままでの、乾ききった街道の景色とは、何かが、決定的に違う。

 十二歳の少女が、健康な頬の色で、家の仕事を手伝っている。

 壁の薪《まき》入れには、よく乾いた薪が、きちんと並んでいた。


 これは、生きている村だった。


「食事も、もらえると助かる」


 アルテミシアが答えた。


「誰かさんが遅すぎたせいで、まともな飯を、しばらく食っとらんでね」


「す、すみません……」


「ふん」


 訛りが、戻っていた。


 少女は、笑った。

 机の上から、鍵を二つ取って、アルテミシアに渡す。


「お部屋は、二階の奥です。

 お料理は、すぐお持ちしますね」


 二人で、二階に上がった。


 部屋は、思っていたより、ずっと整っていた。

 寝台が二つ、並んでいる。

 白いシーツに、皺一つない。

 机の上には、水差しと、白い杯《さかずき》が二つ、置いてあった。


 窓は、東向き。

 いまは閉まっているけれど、開ければ、村の屋根を見下ろせるはずだ。


 私の足が、ふらふらと、寝台に近づいた。


 このまま、倒れ込みたかった。

 腿《もも》の傷も、火傷《やけど》も、戦いの疲れも、何もかも置いて、眠ってしまいたい。


 寝台の縁に、半分、体を倒した——その瞬間。


 ぐい、と、襟元《えりもと》を、後ろから引かれた。


「おい」


 アルテミシアの声だった。


「お前、匂うがね。

 体ぃ拭いてから、寝やぁ」


 階下から、少女が、木の桶《おけ》を運んできてくれた。

 井戸から汲んだばかりの、冷たい水だ。


 アルテミシアは「剣の手入れをしとる」と言って、部屋を出ていった。

 あれは、気をつかってくれたのかもしれない。

 あとから、私は、そう思った。


 私は、修道服の胸の前の縄を、ほどき始めた。


 ほどく動作が、自分の手でも、まだ慣れない。

 十六年、男として、上着の留め具を外してきた指とは違う、細い指。

 その指がいま、縄を引き解いている。

 引き解いた先に現れるのは、私の知らない、女の体だった。


 修道服の上の一枚を、肩から滑らせる。

 落ちた服が、床に、軽い音を立てた。


 その下の、薄い肌着を見ようとして——

 私はすぐ、目線を上に戻した。

 ——っ。


 肩に、外の冷たさが、直接触れた。

 男の体では、知らなかった冷たさだった。


 視線を落としかけて、すぐに戻す。


 ——ぼ……僕は。


 そこで、言葉を切った。

 今は、考えるな。

 ただ、体を拭くだけだ。


 私は、桶の水に、手拭いを浸した。

 冷たい水を絞って、肌の上を、そっと撫でる。


 煤《すす》と、汗と、戦いの血のついた皮膚が、ほぐれていく。

 肌着も、脱いだ。

 火傷の表面は、もう赤みが引きかけていた。


 肩から落ちた髪が、濡れた肌に張りついた。

 その感触にも、私の体の内側は、まだ追いつけない。


 脱いだ服を、桶の中で軽く揉んだ。

 水が、すぐに灰色に濁った。


 しばらくして、扉が開いた。


「お前——」


 入ってきたアルテミシアの声が、止まった。


 私は、桶のそばに立っていた。

 肩から腰のあたりまで、何もまとっていない。

 腰の周りに、洗いかけの肌着の、白い布だけが、ぐるりと巻かれていた。


 私は、顔を上げた。


「あ、お、お帰りなさい」


「……なんで、下着なんだがね」


 アルテミシアの声には、いつもの突き放しの中に、少しだけ、呆れた色が混じっていた。


「臭いと言われたので、服も洗いました。

 そうしたら、着るものが、もう無くて」


「お前、王子じゃ、にゃあんだがね」


 アルテミシアは、扉を後ろ手で閉めながら、寝台の縁に、腰を下ろした。


「着替えが、どこにでもあると、思うんでにゃあて。

 着替えを買ってから、洗うもんだて」


「は、はい……」


 私は慌てて、寝台の上の毛布を、肩から被った。


 毛布の上から、私は思い切って、聞いてみた。


「アルテミシアさん」


「ん」


「あの——王族は、そんなに、嫌われているのでしょうか」


 アルテミシアの目が、すっと細くなった。

 冷たい視線が、私の目に、まっすぐ戻ってきた。


「自分で、調べやぁ」


 短く、彼女は言った。


「うちから、お前に教えることは、にゃあがね」


「……分かりました」


 私は、毛布をしっかり巻きつけたまま、寝台に横たわった。


 横たわった、その瞬間。

 目の前の、天井の梁《はり》が、薄くぼやけた。


 腿の傷の痛みも、火傷の熱さも、どれも、遠くなる。

 体がもう、起きていることを、許してくれなかった。


 意識が、灰色の中に沈んでいく、最後の瞬間。


 ——王族が、無茶なことばかり。


 兵士の声が、もう一度、耳の奥で鳴った。


 父が、それを命じたのか。

 それとも、私が、それを止め切れなかったのか。


 問いを抱えたまま、私は、眠りに落ちた。


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