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第12話 石のアーチ

「うん、いい匂い」


 朝。

 私は洗い直した修道服を両手で広げ、鼻先に近づけた。


 昨夜、井戸の水と石鹸で揉み洗いして、宿屋の女の子が貸してくれた紐に吊るしておいたものだ。

 朝の空気の中で、麻の布はすっかり乾いていた。

 石鹸の、花みたいな甘い匂いが残っている。


 それを着た瞬間、その匂いがふっと消えた。


 別の匂いが、上から被さってきたのだ。

 ツンと鼻を刺す、薬草みたいな匂い。


 私は振り返った。


 アルテミシアが、小さなガラスの瓶を持っていた。

 瓶の口から、薄く油が滲み出ている。


「何ですか、それ……」


 つい、不満な声が出た。


「ユーカリの香油だがね」


 アルテミシアは瓶の蓋を、軽く戻した。


「男除けだて」

「男除け?」

「そう」


 アルテミシアは私を、頭のてっぺんから足の先まで、もう一度見た。


「お前、元は男だで、自分じゃ気付いとらんかもしれんけどな。

 顔は、ようできとる方だがね。

 街道や宿屋で、男に目ぇ付けられでもしたら、ろくなことにならんて」


 私は自分の頬を、そっと触った。

 気付くと、頬のあたりが少し熱くなっている。


 自分の顔をちゃんと見たのは、変身した最初の朝、神父が差し出した銀の手鏡の一度きりだ。

 あの時の顔が、いま指の下にある。


 褒められたのか、どうなのか。

 私には、判断がつかなかった。


「身体もちっこいて。力もにゃあ。逃げる足もにゃあがね」


 アルテミシアの目が、私の顔から、いったん離れた。

 離れて、また戻ってきた時には、声に別の温度が混じっていた。


「……その身体で、何かあったら」


 彼女は、最後まで言わなかった。

 代わりに、瓶の蓋を、きゅっ、と締め直した。


 私は、その沈黙の温度が変わったことだけは分かった。

 それが何なのかまでは、まだ分からなかった。


「ほな、さっさと男爵に会いに行こまい」


 アルテミシアは、もう廊下の方へ歩き始めていた。


「分かりました」


 私たちは受付の女の子に頭を下げて、宿屋を出た。



 朝の村は、昨日とは別の顔をしていた。


 家々の煙突から、薄い煙が上がっている。

 玉葱を炒める匂いと、麦を焼く匂いが、道の角々に漂っていた。


 家の前のベンチには、まだ何人かの老人が座っている。

 でも、その間を子供が走り抜けていく。

 三歳くらいの男の子が、母親の膝にしがみついた。


 畑では、数人が屈んで土を起こしていた。

 鍬を振り下ろすたびに、湿った音がする。


 誰も、大きな笑い声は上げない。

 だけど、生きている。

 それだけで、街道沿いの村とは、まるで別の世界だった。



 男爵の屋敷は、村の真ん中から北へ少し外れた、緩やかな丘の上にあった。


 昔は大きな屋敷だった。

 それは、一目で分かった。


 石の半円のアーチが、屋敷の真ん中に据えられている。

 そのアーチを境に、建物は左右へ腕を広げるように伸びていた。


 ただ、その腕は、もう伸び切ってはいなかった。


 右側の屋根瓦は、ところどころ黒い穴が空いたままだ。

 落ちた瓦は地面に拾い集められ、積み上げられたきり。

 直した様子はない。


 左側の窓は、半分以上が、内側から木の板でふさがれていた。

 板の上には、雨の跡が黒く垂れている。


 壁の白い漆喰は、新しい部分と、古い部分が混じっていた。

 最近直したばかりの場所と、何十年も触れられていない場所が、同じ壁の上で隣り合っている。


 維持できる範囲だけを、最小限、維持している。

 そういう屋敷だった。


 それでも、庭だけは手入れされていた。

 雑草は一本もない。

 花壇には、紫、白、橙、黄色の花が、きれいに植え分けられている。


 誰かが毎朝、ここの草を抜いている。


 石のアーチの、ちょうど下に。

 一人の男が立っていた。


 歳は六十くらい。

 顎髭が首元まで伸びている。

 髪もぼさぼさで、何日も櫛を入れていないように見えた。

 着ているのは、灰色がかった青の、長いローブ。

 明らかに魔術師然とした姿だった。


 ローブの胸元には、握り拳ほどの紫の魔石が、銀の鎖で吊られている。



 その男を見た瞬間、アルテミシアの背筋が、すっと伸びた。

 彼女の目が、男を上から下へ、一度なぞる。

 それから、ゆっくりと男の方へ歩いていった。


「昨日、門番に申し伝えました。

 ボジヴォイ神父の、使いの者にございます」


 訛りの抜けた、整った言葉だった。

 さっきまでの名古屋弁は、どこにもない。


「スミス男爵様に、お目通りを願いたく、参りました」


 ローブの男は、しばらく黙って、私とアルテミシアを見比べた。


 何を見ているのか、私には分からなかった。

 ただ、彼の視線は、修道服の表面を見ているんじゃない。

 布の奥、皮膚の下、もっと深いところを見ようとしている。

 それだけは、感じ取れた。


 しばらくして、男はわずかに頷いた。


「こちらへ」


 短い声だった。


 そして、屋敷の正面の、樫の扉を押し開けた。



 中に入ると、まず空気の重さが変わった。


 外の朝の風の軽さが、後ろに置いていかれる。

 代わりに、香木の匂いと、革と紙の混じった匂いが、廊下に漂っていた。


 廊下の壁には、絵が何枚か掛けられていた。

 古い肖像画だ。

 スミス男爵家の、昔の当主たちだろう。


 描かれた人は皆、染み一つない、滑らかすぎる顔をしていた。

 貴族の若さだった。

 百歳を超えても、二十歳のままの顔。


 調度品は、多すぎはしない。

 でも、どれも一級品だった。

 椅子の脚の彫りも、銀の燭台の細工も、王城の書庫で見た本の挿絵にあった、最高級のものと同じ形をしていた。

 床は暗い色の板張りで、足の重みを深く受け止めるような、しっかりした作りだった。


 ローブの男は、玄関を入ってすぐ右の扉の前で止まった。

 扉を、軽く押し開ける。


 部屋は、広くはなかった。

 応接間のようなしつらえだ。


 床には、深い緑の絨毯。

 窓には、厚い暗い色のカーテンが引かれている。

 朝なのに、光がほとんど入ってこない、暗い部屋だった。


 部屋の真ん中に、低い木のテーブル。

 両側に、革張りのソファーが向かい合っている。

 正面の壁には、もう火の消えた、大きな暖炉。


 そして部屋の奥に。


 艶のある、古い木の机が据えられていた。

 机の上には、書類の束と、銀の燭台が一つ。


 机の向こうに、一人の男性が座っていた。

 机の脇には、白いレースの多いドレスを着た女性が、別の椅子に座っている。

 手元には、閉じた羽根の扇が、一本。


 そして、部屋の隅。


 銀色の鎧を着た、若い女性が一人、まっすぐに立っていた。

 腰に差した長剣は、鞘に納まっている。

 飾りのない、無骨な鞘だ。


 鎧の留め具は、胸元まできちんと締められていた。

 お客を迎える場には、不釣り合いな、戦支度のままの格好。


 剣の柄には、触れていない。

 でも、いつでも触れられる。

 そういう立ち方だった。


 彼女の白銀の髪が、暗い部屋の中で、ほのかに光って見えた。


 その瞬間、私の胸の奥が、跳ねた。


 六年前。

 修練場の、柱の影。


 シェリーが汗を拭きながら、私を——いや、ロディエットを、まっすぐ見て言った。

「ロディエット様は、わたしがお守りいたします」


 あの日の声が、胸の奥でよみがえった。


 けれど、いまここに立っているのはロディエットではない。

 リディアの身体だ。

 そしてシェリーは、たぶん、王子は死んだ、と聞かされている。


 私は、シェリーから目を逸らした。

 目を合わせれば、私の中の何かが、顔に滲み出てしまう気がした。


「シスター。こちらに」


 ローブの男が、机の前まで案内した。


 机の向こうの男性が、ようやく書類から目を上げた。


 見た目の歳は、二十くらい。

 若い、貴族らしい若さだ。

 でも、どこかが、違っていた。


 首元の皮膚に、横一筋の、薄い皺が走っている。

 目尻にも、わずかに笑い皺の跡があった。


 それは、平民の老人の、崩れた皺とは違う。

 人が、ただ時間をかけて得る、自然な皺。


 でも、貴族の肌に、その皺はあってはならないものだった。

 若さを保つはずの肌に、時間が刻まれている。


 私は、評議会で会った貴族たちの顔を思い出した。

 上の貴族は、首元を晒して、白い肌を見せつけていた。

 下の貴族は、襟を立て、扇で顔を隠していた。


 机の向こうの男爵は、そのどちらでもなかった。


 襟は、深く開いている。

 扇も、持っていない。

 首の皺も、笑い皺の跡も、隠そうとしていない。

 ただ、そこにあるまま、座っていた。


 刺繍の入った絹のベスト。

 その上に、暗い紺のジャケット。

 胸には、家紋の銀のブローチ。


 スミス男爵だった。


 私は、男爵の前まで進んだ。

 座っている男爵の方が、私の目線より低い。

 でも、私は、自分が見下ろしているとは、少しも感じなかった。


 部屋の重さに、押されていた。


 机の脇のドレスの女性も。

 隅の鎧の女性も。

 入り口のローブの男も。

 皆、こちらを見ていた。


 四つの視線の真ん中に、私が立っている。


「それで」


 男爵が、口を開いた。

 声は深く、落ち着いていた。


「私に、何の用かな」


 私は、深く息を吸った。

 腰の脇に、王家の杖を感じる。

 父の形見の、五粒の魔石。


 いまここにいるのは、リディアだ。

 修道服をまとった、二十歳ほどの女の身体だけが、男爵の前に立っている。


 神父は、男爵にどこまで伝えたのか。

 それすら、私には分からなかった。


 軽々しく名乗っていい場じゃない。

 シェリーがいる。

 夫人がいる。

 奥には、あのローブの男もいる。


 私は、ゆっくりと口を開いた。


「私は」

「王のご指示で、こちらに参りました」


 机の上の、銀の燭台の火が、わずかに揺れた。

 男爵の眉が、かすかに動いた。


「王、と申されたか」

「はい」


 スミス男爵は、机の上の書類の端を、指でゆっくりと撫でた。

 それから、視線を、私の目にまっすぐ戻した。


「シスター。私のところには、確かにボジヴォイ神父より文が届いておった。

 文には、『一人、客を遣る。よしなに頼む』と、それだけ。

 お名前も、お顔も、伏せられておった」


 男爵は、そこで一度、間を置いた。


「シスターを一人、その『客』として遣る、とは……書かれておらなんだ」


 私は、息を呑んだ。


 部屋の奥のローブの男が、わずかに首を傾けた。

 それから、声を一段、低くした。


「同時に、王城より、別の使者も参っております」


 男爵が、続けた。


「ある使者は、王子は王の手にかかった、と申す。

 別の使者は、王子は王の手を逃れ、城の外へ落ち延びた、と。

 また別の筋からは、王子は重傷を負ったまま、行方が知れぬ、と。


 いまこの机の上には、王城から届いた文が、四通、積まれておる。

 四通のうち、一通として、同じことを申すものはない」


 男爵の声は、淡々としていた。

 それが、かえって怖かった。


「私は、四通のどれを信じるか、まだ決めかねておる」


 机の脇のドレスの女性の手が、扇を、ぎゅっと握り直した。


 部屋の隅のシェリーの喉が、一度、上下に動いた。


 私は、王家の杖の握りに、ゆっくりと指を添えた。

 父の形見の感触が、指の腹に、しっかり届く。


 そして、一歩、前に出た。


 静かに、口を開いた。


「私が」


 声は、自分でも驚くほど、静かに出た。


「ロディエット・フォン・ルクセリアです」


 部屋の中の、四つの視線が、ぴたりと止まった。


 机の上の、銀の燭台の火が、揺れた。

 それ以外、何の音もしなかった。


 部屋の隅の、銀色の鎧の女性の手が、長剣の柄に伸びた。

 無意識に、伸びた。

 そしてその手は、剣を抜く動きではなく、柄の上で、震えるように止まった。


 机の脇のドレスの女性の扇が、半分開きかけた角度で、止まった。

 入り口のローブの男だけが、目を細めた。


 そして、机の向こうのスミス男爵の口元が、ゆっくりと、結ばれた。


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