第13話 偽りの身体
机の向こうから、スミス男爵の声が静かに落ちてきた。
低くて、重い声だった。
逃げてはいけない。
そう思うより先に、体が固まっていた。
「ロディエット王子は、男だったはずだ」
スミス男爵の目が、少しだけ細くなる。
首元の薄いしわが、ほんの少し、深く見えた。
「私の知るかぎり、十六の、すらりとした少年でいらした。
だが——」
一拍、間があく。
「今、私の前に立つあなたは、どう見ても、可憐な女性だ」
私は、その視線をまっすぐ受け止めた。
目をそらしたら、終わる。
そんな気がした。
「父上が、亡くなる直前に」
私は、ゆっくりと口を開いた。
自分の声が、まだ「リディア」の喉から出てくる。
その違和感に、いまだに慣れない。
「男爵様のお名前を、教えてくださいました」
スミス男爵は、答えなかった。
ただ椅子に深く座り直し、腕を組む。
私の瞳の奥を、じっと見定めていた。
私は、続けた。
「三月前のことです。
父上は私を、秘密のうちに大法官に任じられました。
国法と制度を組み直す権限を、私に授けるためです。」
「その任命の宣告があった夜。
私は、暗殺されかけました」
部屋の空気が、わずかに張りつめた。
「父上ご自身が、その場へ駆けつけてくださいました。
そして、ご自分の手で暗殺者を討たれた。
……けれどその時に、致命傷を負われたのです」
私は、一度だけ唇を噛んだ。
「父上は、最後の力で、ご自分の魔石を使われました。
ご自分の姿を、私と同じ年まで、若く変えられたのです」
「敵は、私が本当に死んだかを確かめる者を、送り込んできます。
身体の内側まで見抜く、解析の術を使う者を。
若く変わった父上のご遺体なら、その者の目には、私の死としか映らない。
……父上は、そうお考えだったのだと思います」
「私は、秘密の通路を抜けました。
たどり着いたのは、王家の古い祈りの場所——ボジヴォイ神父の教会です」
「神父は、私に変身の術をかけてくださいました。
顔も、体も、まったくの別人に変えて。
城の外へ、逃がすために」
私は、腰の脇から、深い赤色の魔石を取り出した。
握りこぶしの、四分の一ほどの大きさ。
その中で、何かがゆっくりと脈打っている。
薄い赤い光が、内側で息をしているように見えた。
「神父より、預かったものです。
時が来たら、これを砕けば、変身が解ける、と」
机の上に、そっと置いた。
スミス男爵は、その魔石をしばらく見つめた。
それから、視線を私の目に戻す。
「……ふむ」
短く、息を吐いた。
「嘘をついている目では、ない」
私は、ほっと息をついた。
「だが」
すぐに、次の刃が差し出された。
「変身の術は、ふつう数時間で解ける。
どれほど優れた宮廷の魔術師でも、半日を超えて保たせた変身など、私は聞いたことがない」
スミス男爵の声は、静かなのに、鋭かった。
「あなたが本物の王子なら——なぜ、今もまだ、女の姿のままでおられる」
私の息が、止まった。
——術が、解けるものだなんて。
知らなかった。
教会を出てから、もう十日近く。
それなのに、変身が解ける気配は、まったく無い。
「そんな……」
「確かに、私は——」
言葉が、続かない。
その時、アルテミシアさんが、一歩前に出た。
「お話の途中、申し訳ございません」
いつもの訛りが、すっかり消えていた。
低くて、整った声だった。
「私からも、申し上げてよろしいでしょうか」
スミス男爵は、視線を彼女に移し、わずかに頷いた。
「許す」
「この方の中身は、ロディエット王子。
間違いございません」
アルテミシアさんは、まっすぐに言い切った。
その瞬間、部屋の隅から、声が飛んできた。
「嘘よ!」
銀色の鎧をまとった少女——シェリーだった。
「もう、亡くなったと連絡が来ているんです!
王子は、ご自分のお部屋で、暗殺されたと——!」
「シェリー」
机の脇に立つ、ドレスの女性が、低く呼びかけた。
「お控えなさい」
スミス夫人だった。
レースの多いドレスの裾を、軽く整える。
「……はい。申し訳、ございません」
シェリーは、すっと背筋を伸ばした。
でも、その目だけは、私をまっすぐ睨んだままだった。
私は、静かに、もう一つの形見を取り出した。
王家のスティック。
握りの部分に、五つの魔石が並んで埋め込まれている。
柄の彫り。
握りの、すり減った跡。
魔石の、色の並び。
父上が生涯持ち続け、最後の瞬間に、私の手へ託されたもの。
私はそれを、赤い魔石の隣に、そっと置いた。
スミス夫人の手の中で、扇が、ぴたりと止まった。
夫人の視線が、五つの魔石の並びに落ちる。
「……これは」
夫人の声が、深く沈んだ。
「これは、王のお手元の——」
「父上の形見です」
私は、答えた。
スミス男爵は、五つの魔石の色を、目で一つずつ追っていった。
「藍、白、紫、赤、それから——緑、か」
ゆっくりと、呟く。
「王が位に就かれて、最初の評議——重臣たちとの話し合いの場で、王のお手にあったものと、同じ並びだ。
あの並びは、王ご自身がお決めになり、生涯、お替えにならなかったと聞く」
スミス男爵は、腕を組み直した。
「王家のスティックを、手元に持っておられる、か」
入り口に立っていた、ローブの男が、前に出てきた。
「少し、確認させていただきましょう」
低く、しわがれた声だった。
男は、長いローブの袖から、銀の杖を引き出した。
いくつもの魔石が埋め込まれ、先には、握りこぶしほどの紫の魔石がはまっている。
その瞬間。
私の目に、紫色の糸を絡めたような模様が、見え始めた。
円。
五角形。
細い線が、いくつも組み合わさっていく。
書物でも、見たことのない紋章だった。
——私の周りで、何かが組み上がっている。
紋章は、ゆっくりと、私の肩の高さで、円を閉じようとしていた。
私は、半歩、横にずれた。
閉じる寸前だった円が、さっきまで私がいた場所の空気を、薄く震わせて、閉じた。
ローブの男が、目を細めた。
「ほう」
その声に、初めて温度が混じった。
「避けるか」
杖の先の、紫の魔石が、もう一度光る。
今度は、組み立て方が違った。
私の足元から、見えない網が、急に立ち上がってくる。
私は、もう一度ずれようとした。
——だめだ。
紋章のほうが、私のずれる先まで、先回りして広がっていた。
次の瞬間、私の体が、地面に縫いつけられたように止まった。
腕も。
足も。
首も。
動かない。
——拘束の紋章。
細かい網目の、銀の鎖を組んだような形が、私の体に絡みついて見えた。
その上から、もう一つ、別の紋章が重ねられた。
今度のは、私の胸に向かって、薄く、扇のように広がっていく。
——解析の紋章。
胸の奥を、何かが、ゆっくりと撫でた。
触られているわけではない。
なのに、自分の中の何かを、丁寧に覗き込まれている。
背筋の奥が、冷たく縮んだ。
ローブの男は、しばらく無言で、その「体の中をなぞるような」行為を続けた。
「変身の術の痕跡は——感じない」
彼は、低く呟いた。
「だが、確かに、この体の造りは、異質だ」
その視線が、机の上の、赤い魔石に移った。
ローブの男が、もう一度、杖の先を軽く振った。
私に絡みついていた銀の鎖が、扇の紋章ごと、薄れていく。
空気の中へ、ほどけて、消えた。
腕の自由が、戻ってくる。
男は、ゆっくりと机に歩み寄った。
赤い魔石の上に、しわの刻まれた手を、そっと添える。
長い沈黙が、続いた。
——やがて、男の目が、わずかに見開かれた。
「……これは、ロディエット王子で、間違いない」
ぽつり、と、彼は呟いた。
「背中。
肩甲骨の下、指三本ほどの、古い切り傷の跡——
幼い頃、馬から落ちて、岩で背を裂いた跡だ。
あの傷を縫うところを、私自身が見ていた」
私は、息を止めた。
その傷を知っている者は、限られている。
王である父上と、母上。
当時の侍医。
そして——もう一人。
傷の治療に立ち会った、宮廷の魔術師だけ。
「だが、しかし——」
男は、首を傾げた。
紫の魔石を、指で軽く撫でながら。
「この魔石は、いったい、どうなっている。
ただの変身石ではない。
修復、保存、転送——体を治し、保ち、移す術が、幾重にも重ねられている。
ボジヴォイ……あの男。
宮廷を離れて九年で、こんな術式まで……」
男はもう、私のほうを見ていなかった。
スミス男爵が、ようやく口を開いた。
「ベガ」
スミス男爵は、ローブの男を、初めて名で呼んだ。
「お前の見立てに、間違いはないか」
「間違いない」
ベガと呼ばれた男は、魔石から手を離さずに答えた。
「魔石の中の体——肋骨の角度。
骨盤の上縁の形。
左の鎖骨の、わずかなずれ。
どれも、王城で見たロディエット王子と、ぴたりと合う。
そしてこの娘さんの内側を流れる魔力は——王子の魔力の質を、確かに保っておる」
スミス男爵は、深く息を吐いた。
机の上の、二つの形見を、もう一度、見比べる。
「……認めよう」
短く、彼は言った。
スミス夫人の扇が、初めて、軽く開いた。
そして夫人は、その扇の縁で、口元を一度だけ、隠すように動かす。
それは、礼の代わりのように見えた。
私の足から、ようやく、力が抜けた。
それから私は、アルテミシアさんのほうを見た。
「アルテミシアさん」
私の声は、低く、抑えられていた。
「どうして、教えてくださらなかったのですか」
アルテミシアさんは、私の目を、まっすぐ睨み返した。
その瞳の奥で、何かが、一度だけ揺れる。
——けれど彼女は、その揺らぎを、半分の瞬きで押し戻した。
そして、いつもの訛りに戻る。
「神父さまが、その体にお決めになったことだがね」
短く、彼女は言った。
「うちから話すことでも、にゃあがね」
「う、嘘よ……」
シェリーの声が、震えていた。
部屋の隅の銀色の鎧が、ほんのわずか、肩で揺れる。
「あなたが、ロディエット王子、なんて……」
私は、シェリーのほうを振り向いた。
その顔は、青ざめていた。
怒り。
信じられないという気持ち。
それから、もっと深い、何か——。
「すまない、シェリー」
私の口から、声がこぼれた。
「僕は、国を変えることも……父上をお救いすることも、できなかった」
その、瞬間。
私の右の頬に、乾いた、爆発のような音が当たった。
平手だった。
顔が、横に撥ねる。
頬の内側で、血が一気に熱を持った。
シェリーが、いつ、ここまで来たのか。
——私にも、見えなかった。
刺突剣を半分まで抜きかけていたアルテミシアさんも、止まっていた。
「お前のせいで」
シェリーの声が、私の真横で、震えていた。
「お前のせいで、父上や、母上が——!」
その顔には、怒りと——
一筋の涙が、流れていた。




