第13.5話 人質の少女——九年前 (アルテミシア視点)
あの頃、うちには名前が無かった。
いや、正しくは——名前らしい名前が無かった、と言うべきだ。
うちに与えられていたのは、どの国の言葉でもない、番号のようなものだった。
奴隷商人が、品物を数えるためにつけた印。
それが、うちの名前だった。
その番号で呼ばれるたびに、生まれた国の言葉が、少しずつ遠ざかっていく気がした。
うちは、十二歳だった。
貴族の屋敷の、奥の一室。
窓はあった。けれど、鉄の格子がはまっていた。
格子の向こうから、たまに馬の鳴き声が聞こえた。
外の世界とのつながりは、それだけだった。
◇
その部屋に、もう一人の女の人が連れてこられたのは、しばらく後のことだった。
二十二か、三くらい。
栗色の、さらりとした髪。
顔は青白かった。
でも、怯えてはいなかった。
女の人を連れてきた男が言った。
「おとなしくしていれば、悪いようにはしない」
女の人は、返事をしなかった。
ただ一度だけ、窓の格子を見た。
◇
「あなた、文字は読めますか」
先に口を開いたのは、彼女の方だった。
うちは警戒して、答えなかった。
「読めないなら、教えます」
彼女は、壁のしみを指でなぞりながら言った。
「外の世界のことも。国のこと。魔力のこと。貴族のこと」
「……なぜ、そんなことを」
「暇だから」
彼女は、初めて口の端を少しだけ上げた。
「こういう所にいても、頭の中だけは、誰にも奪えませんから」
◇
それからの毎日は、不思議な時間だった。
昼の間、男たちに連れていかれる。
その時間が終わると、彼女はいつも、うちに何かを教えてくれた。
文字の読み方。
数の数え方。
東の交易路の話。
北の山脈の話。
話の中には、いつも本物の地名や数字が混じっていた。
本当にそこで暮らした人の、話し方だった。
「お父さんは宮廷魔術師です。いつか、必ず来てくれます」
彼女は、一度だけそう言った。
「それまでは、できることをして、待っています」
◇
うちへの扱いは、厳しかった。
でも、彼女への扱いは、別の種類の厳しさだった。
人質だから、殺してはいけない。
けれど、すり減らすことは、許されていた。
彼女の魔力は、決まった日に抜かれた。
抜かれた後は、半日、立ち上がれなかった。
それでも次の日には、また格子のそばに座って、うちに文字を教えた。
「痛くないのか」
うちは、一度だけ聞いた。
「痛いです」
彼女は、あっさり答えた。
「でも、慣れました。お父さんが来るまでの、辛抱です」
その言葉を聞くたび、うちは何も言えなかった。
父親というものが助けに来てくれる。
そんなこと、うちは知らなかったから。
◇
あの女の貴族が来た日のことを、うちは今でもはっきり覚えている。
絹のドレス。
首には、つながった魔石。
指にも、魔石の指輪。
見た目は、十八か十九。
でも、その若さをどうやって保っているのか、うちはもう知っていた。
貴族は、彼女を見て言った。
「あれが、いいわ」
◇
何が行われたのか、うちにはよく見えなかった。
彼女は、椅子に座らされた。
貴族が、魔石を握った手を、彼女の肩に乗せた。
彼女の顔が、一瞬だけ、苦しそうに歪んだ。
それだけだった。
でも、それが、長く続いた。
彼女の顔の色が、変わっていく。
血の気が引く。
肌の張りが、失われていく。
目尻に、しわが刻まれていく。
彼女は、何も言わなかった。
ただ、目だけが、ずっと開いていた。
貴族が「もういいわ」と言って、手を離した。
彼女は、そのまま椅子からずり落ちた。
床に倒れる前に、うちが抱きとめた。
腕の中の体は、軽かった。
軽すぎた。
昨日まで隣にいた人が、こんなにも軽くなるなんて、知らなかった。
彼女の顔は、もう、年老いた人の顔だった。
それでも、その目は……まだ、開いていた。
うちを、見ていた。
「……お父さん、が」
唇だけが動いた。
声は、出なかった。
そして、目が、閉じた。
◇
その後のことを、うちは、きれぎれにしか思い出せない。
身体の奥から、熱いものが吹き出した。
体中に、力が満ちた。
気がつくと、うちは、あの女に飛びかかっていた。
自分のものとは思えない声を、上げながら。
女が振り向いた。
その顔に、うちの拳がめり込んだ。
骨の砕ける音を、生まれて初めて聞いた。
まわりの兵士も、襲いかかってきた。
でも、無我夢中で、倒したのだと思う。
動くものが無くなった部屋で。
うちは、意識を手放した。
……どれくらい、気を失っていたのだろう。
◇
扉が開いた。
駆け込んできたのは、宮廷魔術師のローブを着た男の人だった。
「リディア」
その声が、途中で止まった。
男の人は、床に横たわった彼女を見ていた。
膝をついた。
しわの刻まれた頬に、手を当てた。
しばらく、何も言わなかった。
やがて立ち上がり、うちを見た。
血で、ぐちゃぐちゃになったうちを。
男の人は、何も言わなかった。
ただ、自分の外套を脱いで、うちの肩にかけた。
◇
それから、長い年月が過ぎた。
男の人は、王のそばを完全に離れた。
「宮廷魔術師」をやめ、「神父」になった。
古びた教会の、小さな部屋。
そこに、ベッドが一つあった。
その上に、あのリディアと呼ばれた彼女の体が横たわっていた。
神父は毎日、ベッドの脇に座った。
魔石の光を、リディアの体に当てた。
しわが、肌の張りが、少しずつ戻っていった。
でも、目は、開かなかった。
「リディア」
神父は毎日、その名前を呼んだ。
返事は、返ってこなかった。
うちは、その様子をずっと、横で見ていた。
止める言葉を、持っていなかった。
九年目の、ある夜のことだった。
隠し通路の扉が、開いた。
倒れ込んできたのは、十六歳の王子だった。
「神父、様……」
声は、かすれていた。
腹に、傷があった。
うちは、傷の深さを見た瞬間に分かった。
これは、治る傷では、ない。
◇
神父は、しばらくの間、王子とベッドのリディアを、交互に見ていた。
「リディア」
神父は、リディアの名前を、もう一度呼んだ。
今夜で最後かもしれない。
そんな呼び方だった。
それから、王子の方を向いた。
「すまない」
誰に向けた言葉なのか、うちには分からなかった。
神父は、杖を取り出した。
杖の先で、紫の魔石が光った。
感じたことのない魔力が、部屋の空気の中に広がっていく。
「それは……」
うちは、声を出した。
出したけれど、続かなかった。
禁じられた術だ、と分かった。
止めるべきだ、と分かった。
それでも、足が、動かなかった。
光が、部屋の中で一度、強くなった。
そして、消えた。
静けさの中で、ベッドのリディアの手が、わずかに動いた。
神父が、前に出た。
リディアの顔を、のぞき込んだ。
リディアの目が、開いた。
神父は、息を呑んだ。
その目は、神父ではなく、うちを見ていた。
九年前に閉じた、あの目では、なかった。
「リディア」
神父の声は、震えていた。
リディアの口が、わずかに動いた。
返事は、返ってこなかった。
あの夜から、うちは心の中で決めた。
うちには、関係ない。
そう、決めた。
決めたのに……あの目を、忘れることは、できんかったがね。




