↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

16/48

第14話 頬の熱

 よける間なんて、なかった。


 頬に、はじめは熱がなかった。

 何かが当たった、という認識だけが先に来た。


 重い手応えだったはずなのに、その重さが頭に届くより早く、左の目の端が白くにじんだ。


 シェリーの右手が振られた瞬間を、私は見ていない。

 身体強化を使う者の動きを、今の私の目は、追えなかった。


 遅れて、熱が来た。


 頬骨のすぐ下の柔らかいところが、内側から押し返されるように、ずきずきと脈を打ちはじめる。

 耳の奥で、自分の心臓の音が、二重に聞こえた。

 目の前が、ちかちかした。


 ——叩かれた。

 そう気づいたのは、熱が頭まで上ってきてからだった。



「シェリー!」


 声が、部屋の空気を裂いた。


 机の脇に座っていた夫人の声だ。

 応接の間、ずっと扇を握る指だけで気配を残していたあの人が、今、低い喉から、鋭い音を押し出していた。


 レースの袖が机の縁に当たり、かさりと乾いた音を立てる。


 私は、すぐにはそちらを見られなかった。

 視界の中の、細かい光の粒が、まだ落ち着かない。



「シェリー」


 二度目に呼んだのは、男の声だった。


 スミス男爵。


 夫人の声は、母としての制止だった。

 でも、男爵の声は——


 頬の熱の向こうで、私はその違いを聞き分けた。


 男爵の声は、低い。

 低いまま、少しも震えない。

 ただ、その声の下に、長く磨かれた鋼のようなものが、一本、通っていた。



「力だけでは、解決せぬよ。

 なんで怒っとるのか、教えてくれぬか」


 ——なんで、と男爵は聞いた。


 その聞き方が、私の胸を、別の方向からもう一度叩いた。


 責めてはいなかった。

 娘の怒りそのものに、まず場所を与える聞き方だった。


 視界の白い粒が、少しずつ、収まっていく。


 頬を押さえる気には、なれなかった。

 手を頬に持っていく——その動きさえ、今の自分には許されない気がした。



「ロディー」


 シェリーの声が、ようやく戻ってきた。


 涙が、白銀のまつげの根元で揺れている。

 落ちきらないまま、淡い青の瞳の上で、固まっていた。

 私はその目を、ようやく、まっすぐ見た。


 シェリーは、私を見ていた。

 でも、その目の焦点は——私の顔の輪郭より、少しだけ後ろにあった。


 私の顔の奥に、別の顔を探していた。



「ロディー」


 シェリーの口が、その名を、噛みしめるように、もう一度こぼした。


 その響きに、シェリー自身が、一瞬、揺れる。


 六年前の修練場《しゅうれんじょう》。

 今よりずっと幼い口が、ロディエットを呼ぶときに使っていた音。

 女の私の輪郭にも、確かめたはずの中身にも当てはまらない、もっと昔の音だった。


 シェリーは、その音を口にした自分に戸惑い、戸惑った顔のまま、もう一度、同じ名を呼んだ。



「ロディー、あなたの——あの演説のせいで」


 声が、震えていた。


「あの日、……あれが無ければ」


 シェリーは、最後まで言わなかった。


 飲み込んだ続きを、シェリーは自分の中に持っている。

 それを口にすれば、目の前のロディエットの「したいこと」を、否定することになる。

 分かっているから、飲んだ。

 でも、飲みきれない分が、頬の裏で、じりじりと焼けていた。



「シェリー。それ以上は、許さんよ」


 スミス男爵の声が、もう一度、低く部屋に通った。


 冷たくは、ない。冷静だった。

 でも、その冷静さの底に、もう一段、別の重みが据えられている。


 私は、思わず、息を止めた。


 書物の中で、「凄《すご》み」という言葉に出会ったことがある。

 それが、どんな音を指すのか、私にはずっと分からなかった。


 今、目の前で、その音が、空気の中に置かれた。


 男爵は、座ったまま、声の高さを変えていない。

 眉も動かない。指も動かない。

 なのに、男爵が声を出したあと、部屋の空気が、わずかに重くなった。

 燭台《しょくだい》の炎の揺れさえ、その重さに絡め取られて、揺れる速さを、一段、落とした。


 シェリーの肩が、一度、跳ねた。

 それを見られたくないように、シェリーはすぐに、目を伏せる。



「……失礼します」


 絞り出すような声だった。


 シェリーは、きびすを返した。


 その瞬間、銀の鎧の留め金が、かすかに擦れる音を立てる。

 長剣の鞘《さや》が、腰の脇で、踵《かかと》の動きに合わせて、一度揺れた。

 剣の柄に、もう手は触れていない。


 ただ、握った拳が、白く、震えていた。


 シェリーは扉を開け、部屋を出ていった。

 扉が閉まる音は、思ったより、ずっと小さかった。

 最後の我慢が、その音の小ささに、残っていた。


 部屋に、静けさが戻る。



 入り口の脇のローブの男が、静かに、長い息を吐いた。


 肩が一度、下に落ちて、また戻る。それだけの長さの息だった。

 胸元の、握り拳ほどの紫の魔石《ませき》が、ローブの合わせの中で、息に連れて、わずかに揺れた。


 ローブの男は、何も言わない。

 その沈黙には、長く何かを見続けてきた者の、重みがあった。



 右の頬に、ようやく、熱の輪郭が定まってくる。


 その熱が、自分のものではない気がした。


 シェリーが、あの一打に込めたもの。

 怒り。喪失。信じきれない、六年間の重み。

 それが今、私の右頬の、小さな円の中に置かれている。


 私は、まだ、それを払いのけたくなかった。



「リディア様」


 スミス男爵が、ゆっくりと立ち上がった。


 椅子の脚が、絨毯《じゅうたん》の上を、少し後ろへ滑る。

 深い緑の絨毯が、男爵の靴の重みを、しっかりと受け止めた。


 男爵は机の脇まで歩き、角を回って、私の正面に立つ。


 机一つ分の距離が消えて、男爵の顔が、ずっと近くなった。


 首元の、薄い皺。目尻に残った、笑い皺の跡。

 それが今、暗い部屋の燭台の光の下で、はっきりと見える。


 評議の間で並んでいた貴族の、どの顔とも違う。

 私は初めて、その皺の一本一本を、目に焼き付けた。



「娘が、失礼をいたしました。

 全ては、私が責任を持ちます」


 男爵が、頭を下げた。


 低い、深い、礼だった。


 腰から首までが、一本の線のように、ゆっくりと前へ倒れる。

 位の高い者が、位の高い者にだけ向ける礼ではない。

 父親として、当主として、その両方の責任で下げる頭だった。


 私は慌てて、両手を前に出した。


「お頭を、お下げにならないでください」


 声が、自分でも驚くほど、はっきりと出た。

 頬の熱は、まだ残っている。

 それでも、声は震えなかった。


「私は今は——シスターのリディアです。

 これからは、リディアと、お呼びください」



 男爵が、頭を上げた。


 上げた目が、私の目を、まっすぐ見る。

 評議の間の貴族の、誰も私に向けたことのない目だった。

 値踏《ねぶ》みでも、嘲《あざけ》りでも、観察でもない。

 ただ、目の前の一人を、その姿のままに見ようとする目だった。


「……承知いたしました」


 男爵の声は、低い。


「リディア。

 娘には、後でよくよく言って聞かせます。

 どうか、ご勘弁を」


「お気になさらないでください」


 私はもう一度、首を横に振った。


 部屋の空気が、わずかに緩む。


 男爵は、ゆっくりと深く、息を吐いた。

 それから初めて、私に椅子を勧めた。


「どうぞ、お掛けくださいませ」



 私は、応接のソファに腰を下ろした。


 革張りの背もたれが、私の背を、深く受け止める。

 腰の脇に置いた、王家の杖の握りに、もう一度、指を添えた。

 父の形見の、五粒の魔石の感触が、指の腹に届く。


 ここから先は、もう、自分がロディエットだと示す場面ではない。

 スミス男爵は、すでに私を、ロディエットとして見ている。

 なら、私が伝えるべきは——父の最期だ。


 私は、ゆっくりと口を開いた。



 父が、暖炉《だんろ》の前で告げたこと。

「私を、愚かな王として後の世に残してでも、国を救え」

 そう告げた、あの夜の声の温度。


 変身の魔術をかけたあの女が、メイドの顔をして、部屋に入ってきたこと。

 秘密の通路の扉の前で、父が最後に告げた言葉。

「いいか、ロディエット。約束だ。

 死ぬのではないぞ。生きて、国を救え」


 私はそれを、一語ずつ、丁寧に、男爵の前で言葉にした。


 ところどころ、声がつかえる。

 父の声を、自分の口でなぞろうとすると、喉の奥が、勝手に締まった。


 それでも最後まで、私は語り終えた。



 部屋は、静かだった。


 机の脇の燭台の炎が、一度、長く揺れる。


 スミス男爵は、しばらく何も言わなかった。

 夫人の方を、一度見る。

 夫人も、男爵の目を、見返した。


 二人の目の合わせ方は、長い年月を重ねた夫婦の、声のない会話だった。



「……お父上の御志《おんこころざし》、しかと、お伺いいたしました」


 男爵が、低く口を開いた。


 その声の奥に、十年か、二十年か——背負ってきた重みのようなものが、静かに沈んでいる。

 それだけは、はっきり聞き取れた。


「ただ——」


 男爵が、もう一度、口を開く。


「折を見て、ひとつ、私からも改めてお伝えせねばならぬ話が、ございます。

 いま、この場では、ございませぬが」


「いつでも」


 私は答えた。


「お聞きいたします」


 男爵は、静かに頷いた。


 その頷きの中に、もう何かが動き始めている気配が、わずかにあった。

 それは追って告げる、と男爵の目が、言っていた。



 私は、もう一度、ゆっくりと口を開いた。


「父から託された、国を立て直すための方針——その大筋は、評議の場で示した、あの所信表明のとおりです。

 ただ——」


 私は、首をわずかに振った。


「正確には、これから書き直さねばなりません。

 この旅で、私は知りました。

 書物の中の数字が、どれほど、人の肌の温度を欠いていたかを。

 あの草案は、まだ、足りておりません」


 男爵が、私の目を、もう一度、まっすぐ見た。


 立ち上がる気配は、ない。

 ただ、男爵の目の奥の何かが、私の「足りておりません」という一語に、焦点を合わせ直した。


 その合わせ方は、応接の最初に男爵が「私に、何用かな」と問うた、あの瞬間とは、もう別の温度だった。



「……承知いたしました」


 男爵が、静かに告げる。


「リディア様。

 お疲れでありましょう。

 お部屋を、ご用意してございます。

 お話の続きは、また、改めて、いたしましょう」


 声に、急かす色は、なかった。

 昨夜からの街道と、戦いと、長い応接の重みを背負ってきた、十六の体を、もうこれ以上引き止めない——そういう温度だった。


「ありがとうございます」


 私は、静かに頭を下げた。



 頬の熱は、まだ残っている。

 でも、もう散ってはいない。

 頬骨の下の、ひとところに、一つの熱として、まとまっていた。


 それは、自分のものとして引き受けた、熱だった。



 机の脇の夫人が、椅子の上から、静かに、私へ頭を下げる。

 頭をおおう白い布の縁が、机の影の中で、わずかに揺れた。


 入り口の脇のローブの男も、ローブの裾の中で、わずかに身をかがめ、私へ深い礼をした。


 短く、丁寧で、けれど、まだ何も誓ってはいない——そんな頭の下げ方だった。


 ——誓いの言葉は、まだ、後に置かれている。


 その輪郭は、私には、まだ掴めない。

 でも、男爵が「折を見て」と置いていったあの一語が、男爵と、夫人と、ローブの男との、三人の間に、もう静かに張られていること。

 それだけは、感じ取れた。


 私は、それを、まっすぐ受け止めた。



 朝の光が、応接の間の濃い色のカーテンの隙間から、今、ようやく細く差し込んでくる。

 机の脇の燭台の炎が、その光の中で、もう必要を失ったように、静かに揺れていた。。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。