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第十五話 桜色の衣

「お泊まりになる場所が、まだ無いようでしたら」


 男爵が、ゆっくりと立ち上がった。


「どうか、この屋敷をお使いください。空いている部屋なら、たくさんございます」


「ありがとうございます」


 私がそう答えかけた、その時だった。


「お心遣い、ありがとうございます。けれど私は、平民でございます」


 応接の間の入り口から、別の声がした。


 アルテミシアさんの声だ。


 ……でも、いつもと違う。


 あの名古屋の訛りが、きれいに消えていた。

 整った、丁寧な、よそ行きの言葉。


 そう話しながら、彼女の目は男爵を見ていない。

 机の銀の燭台《しょくだい》。緑の絨毯《じゅうたん》。男爵の胸の家紋。

 それを順番に、視界の隅でなぞるだけ。

 どれにも、長くは目を止めない。


「私は、宿場に泊まらせていただきます。

 リディア様は、どうかご邸宅でお休みください。」


 私の胸の奥で、何かが一度、跳ねた。


「え——アルテミシアさん?」


 自分でも驚くくらい、子どものような声が出た。


 ……今のは、まずい。


 すぐに恥ずかしくなる。

 でも、出てしまった声は、もう戻せない。


 アルテミシアさんは、私の方を一度だけ見た。


「私は」


 そう言って、すぐに視線を外した。

 また、男爵の方へ戻す。


「あの方をスミス男爵邸へお届けすること。それが、私の務めでした。その務めは、もう果たしました。これからしばらくは、この土地のシスターとして、できることをいたします」


「……分かった」


 男爵が、ゆっくりとうなずいた。


「では、宿の手配はこちらでいたしましょう。近くの『白鳩亭《はくきゅうてい》』が清潔で、修道女のお泊まりにも慣れております。宿代は、長くお泊まりになる分も含めて、我が家でお持ちいたします」


「ありがとうございます」


 アルテミシアさんが、丁寧に頭を下げた。

 下げる角度に、ためらいが無い。


 けれど、頭を下げたその姿勢のまま、彼女の目は男爵の靴の先までも届いていない。

 ただ、絨毯の模様だけを見ていた。


 私は、膝の上で両手をぎゅっと握っていた。

 無意識に。


 ——アルテミシアさんは、いなくなるわけじゃない。

 でも、毎晩、同じ屋根の下で過ごすわけでもない。


 教会から、ここまで。

 野宿の夜。盗賊との戦い。この身体で初めて口にした、林檎の味。井戸の冷たい水で洗った修道服。香油のかすかな匂い。


 その全部の隣に、いつもアルテミシアさんがいた。

 冷たい言葉と、温かい手が、結びつかないまま、ずっと隣に。


 その「隣」が、いま、少しだけ遠くなる。


 口では、何も言えなかった。

 でも、自分でも気づかないうちに、顔の表情が崩れていた。


 眉の端が下がる。

 唇の端も、下に引かれていく。


 それを止めようとしても、うまくいかなかった。


 アルテミシアさんが、もう一度、私の方を見た。


 その目はいつもの琥珀《こはく》色のまま。

 なのに、ほんの一瞬、その奥で何かが揺れた。


「そんな顔をしないでくれ」


 低い声だった。

 それも、訛りの抜けた、まっすぐな言葉。


「同じ町の中だ。お務めの合間に、顔は出すで」


 最後の一言だけ、ほんの少し、いつもの訛りが戻った。


 戻った、というより——こぼれた、という方が近い。


 ——顔は、出すで。


 その一言が、胸のずっと奥で、奇妙に響いた。


「はい」


 私は、やっとそれだけ言えた。


 声が、上ずらなかった。

 それが、自分でも少し嬉しかった。


 アルテミシアさんは、もう一度頭を下げた。

 そして、扉に向かって歩き出す。


 歩き出すその時、彼女の背中の、修道服の襟の縫い目が見えた。

 何度も野宿の地面に擦りつけた、その縫い目。

 森で盗賊の血が飛んだあと、彼女自身が揉み洗いした、その縫い目。


 扉が開いた。

 廊下の、香木《こうぼく》の匂いが、こもった部屋の空気に流れ込む。


 扉が閉じた。


 足音は、しばらく廊下の奥へ続いた。

 それから、遠ざかって、聞こえなくなった。


 私は、扉を見ていた。

 見ていたけれど、扉は、もう開かなかった。


「リディア様」


 横から声がかかった。


 男爵の声だ。


 私は慌てて、扉から男爵の方へ視線を戻した。


「ご紹介が遅れました」


 男爵が、入り口の脇に立っていた魔術師の方へ、軽く目を向けた。


「ここにいる魔術師は、ベガと申します」


 魔術師が、一歩前に出た。


 灰色がかった青の長いローブ。胸元の銀の鎖。その先に、握り拳ほどの紫の魔石。

 白髪まじりのぼさぼさの髪。顎髭は首元まで伸びていた。


 そのベガさんが、私の正面で、深く頭を下げた。


「申し遅れました」


 声はしわがれていた。

 でも、そのしわがれの中に、長い年月、知識を口で伝えてきた人の、独特の深さがあった。


「元、宮廷で仕えていた魔術師、ベガと申します。以後、お見知りおきを」


 ベガさんは頭を上げると、すぐにもう一度、わずかに頭を下げた。


「そして——先ほどは、失礼いたしました」


 その「先ほど」が何を指しているのか、私にはすぐに分かった。

 この応接の間で、私の身体を、解析の紋章で読み取った。あの時のことだ。


「いえ」


 私は、首を軽く横に振った。


 ベガさんは、ゆっくりとうなずいた。


 そのうなずきには、長く宮廷にいた人らしい慎重さと、もう一つ、別の何か——深い疲れに近い影が、混じっていた。

 その影の正体までは、まだ分からない。


 私は、もう一度、男爵の方へ目を戻した。


 立ち上がったままの男爵の顔の輪郭が、ろうそくの光の中で、はっきり見えていた。


 ——この方は、最近、何かを変えた。


 その推測は、まだ口にしない。


 ただ、男爵の顔の皺の一本を、もう一度、目に焼きつけた。

 評議の間で見た、どの貴族の顔とも違う、別の種類の重みとして。


「リディア様」


 男爵が、続けた。


「明日からは、このベガとともに、勉強や魔術の訓練をしてくださいませ」


「ありがとうございます。お願いいたします」


 私は、ベガさんに向かって頭を下げた。


「ふむ……」


 ベガさんが、低く声を漏らした。


 返事ではない。

 独り言に近かった。


 ベガさんは、見定めるような目で、私を頭の先から足の先まで、ゆっくりと視線で撫でた。


 修道服ではなく、その奥を見ている。

 この身体の中で、私が「自分」と呼んでいるもの。

 ベガさんは、その輪郭を探ろうとしているようだった。


 私は、その視線をまっすぐ受け止めた。


 何を見ようとしているのかは、まだ分からない。

 でも、これから何ヶ月か、この人のもとで学ぶのだ、ということだけは分かった。


「それと」


 男爵が、付け加えた。


「一応、護衛にシェリーを付ける予定でございます」


「あ……はい」


 声が、わずかにつかえた。


 シェリーの平手の熱が、まだ右の頬に残っていた。

 その同じシェリーが、これから私の護衛になる。


 王城の修練場で、柱の影から「ロディエット様は、わたしがお守りいたします」と言った、あの十二歳の少女。

 その六年後の姿が、いま、私の護衛だ。


 でもシェリーは、私の顔を、まだロディエットの顔として受け入れてはいない。

 それでも、護衛として、私の背中側に立つ。


「シェリーには、私の方からよく言っておきます」


 男爵の声に、もう一度、あの低い凄みの余韻が戻った。

 でも今度のそれは、私に向けた重みではない。

 これからシェリーに向かって、父として、当主として告げる、その重みの予告だった。


「あ、はい」


 私は、もう一度、軽く頭を下げた。


 謝罪で終わる話ではなかった。

 シェリーはこれからも、私の背後に立つ。

 その事実だけが、頬の熱とは別の場所に、重く残った。


 下げた頭の中で、私は思い出していた。

 シェリーの、白く震えていたあの拳のことを。


 あの拳を、これから私は、自分の背中側で、知らないふりをして過ごすことになる。


 それはたぶん、私が思っているよりも、ずっと重いことだった。






 応接の間を出た。


 廊下は、入る前とは別の表情をしていた。

 朝の光が、奥の窓から斜めに差し込んでいる。

 さっきまで閉じていた厚いカーテンが、いまは片側だけ、開けられていた。


 光の筋が、暗い色の板張りの上を、斜めに走る。

 その筋の中を、埃の粒が舞っていた。


 私は、その埃の動きを、しばらく目で追った。


 ——王城の文書庫でも、午後の光の中に、こんな埃が舞っていた。


 書架の間で書類をめくるたびに舞う埃。指で古い紙の繊維をたどるたびに立ちのぼる、古い紙の匂い。


 屋敷の奥へ、案内された。


 案内してくれたのは、若いメイドだった。

 歳は、たぶん十六くらい。


 平民の十六歳にしては、まだ頬に少し張りが残っていた。

 スミス家の食卓で、毎日きちんと食べてきた頬だ。


 でも、襟から覗く首筋には、もう薄く、皺の気配があった。

 十二の頃から始めた奉仕で、この子はもう、四年分の寿命を削られている。


 メイドは、ほとんど何も話さなかった。

 振り返らずに、ただ廊下を奥へ、奥へと進む。


 でも、その背中の歩幅には、誰かに教え込まれた、きちんとした緊張があった。


 いくつかの扉の前を通り過ぎる。

 扉の取手の銀細工は、どれも少し古いけれど、よく磨かれていた。


 廊下の突き当たり。

 その手前、左側の扉の前で、メイドはようやく足を止めた。


「リディア様のお部屋でございます」


 メイドが、扉をゆっくりと押し開けた。


 部屋の中の空気が、廊下に静かに流れ出してくる。

 香木の匂いが、わずかに漂っていた。


 私は、一歩、足を踏み入れた。


 それは、客間としては、とても質素な部屋だった。


 広さは、応接の間の半分ほど。

 床は廊下と同じ、暗い色の板張り。その上に、深い紅色の敷物が一枚。


 壁は、淡い灰色の漆喰《しっくい》。

 ところどころに、雨垂れの跡らしい薄い筋が見えた。

 でも、その上は最近、塗り直して直されている。


 調度品は、決して華やかではなかった。


 寝台が一つ。

 脚は、彫りを抑えた、樫《かし》の太い柱。

 白いシーツは、染みも皺もなく、ぴんと張られていた。


 脇に、低いテーブル。その上に銀の燭台《しょくだい》が一つ。

 反対の壁に、書き物のための小さな机と、肘掛けの無い椅子。

 窓は東向きに一つ。重いカーテンの代わりに、薄い白いレースだけが半分ほど引かれていた。


 朝の光が、その白いレースを透かして、部屋に柔らかく降りている。


 華やかではない。

 でも——調度の一つ一つを、私は目でたどった。


 シーツの織りは、王城の客間で見たのと同じ、上等な麻だ。

 銀のろうそく立ての縁の彫りは、簡素だけれど、職人の手は抜けていない。

 机の天板は、艶を出さない仕上げで、長く使い込まれた木目が、そのまま見えていた。


「品が、良い」


 思わず、声に出ていた。


 派手さでもなく、量でもない。

 一つ一つが、長く、丁寧に選ばれて、ここに置かれている。

 無理のない範囲で、いちばん誠実に整えられた客間だった。


 私はそこに、いまのスミス男爵家の在り方そのものを見た気がした。


 その時、廊下の方から、もう一人のメイドの足音が近づいてきた。


 軽い、でも丁寧な足取り。

 両手で何かを胸の前に抱えた人の、慎重な歩幅。


 扉の脇で、案内のメイドが軽くうなずく。

 すると新しいメイドが、腕の中のものを、机の上にそっと置いた。


 たたまれた衣類が、一揃い。


 私は、ゆっくりと机に近づいた。

 衣類の表面に、指先を軽く添える。


 目の細かい、上等なリネンの手触りだった。


 いちばん上にあったのは——


 淡い、桜色がかった、薄い灰色の長衣だった。


 襟元には、白いレースの縁取り。

 模様は、小さな野花を連ねたような、控えめなもの。

 手は込んでいるのに、見せびらかすための派手さは無かった。


 その下に、同じ淡い灰色の、ゆったりした袖の上着。

 さらにその下に、白い夜着らしい布が一枚。

 脇には、細い編み紐の帯が、丁寧に巻かれて置かれていた。


 ——女性物、だった。


 私の指が、レースの縁の上で止まる。

 しばらく、その衣の前で立ち尽くした。


 修道服の縄の帯の感触が、まだ腰の周りに残っていた。

 何度も結び直したあの縄。

 井戸の冷たい水で揉み洗ったあの麻。

 香油の、かすかな木の匂い。


 この身体は、いま、修道服をまとっている。

 そして机の上には、この身体のための、別の衣が置かれていた。


「あの……」


 衣を運んできたメイドが、机の脇で、控えめに声を出した。


 私は、ゆっくりと振り返る。


 メイドは手を前に揃え、軽く目を伏せていた。

 でも、伏せた目の先が、机の上の衣にわずかに流れている。

 そこに、若い、隠せない、誇らしさのようなものがあった。


「奥様が、お選びになりました」


 メイドの声は、慎ましかった。


「先ほど奥様がお戻りになる時に、リディア様の髪の色と目の色を、もう一度見定められて。この一着を、お選びくださいました。

 お気に召されると、よろしいのですが」


 ——奥様。


 応接の間で、レースの袖を机の縁に当てて、シェリーを叱ったあの婦人だ。

 頭の布の縁を絨毯に落として、男爵の隣で片膝をついた、あの婦人。


 私は、もう一度、机の上の桜色がかった灰色の長衣を見た。


 レースの野花の模様が、朝の光の中で、わずかに輝いていた。


 目の縁の内側で、もう一度、熱が湧いた。


「……ありがとう」


 私は、メイドの方へ向き直った。


「奥様にお伝えください。大切に着させていただきます、と」


 メイドは、目を伏せた顔のまま、わずかに口の端を上げた。


「かしこまりました」


 そう答えて、深くお辞儀をする。

 角度は丁寧だけれど、教え込まれた形に、まだ少し硬さが残っていた。


 二人のメイドが、静かに扉を閉めた。


 扉が閉じる、その小さな空気の動きの中で、私はもう一度、机の上の衣に目を戻した。


 桜色がかった灰色のレースの縁が、東の窓から差す朝の光を、静かに受けていた。


 私は、その衣の上に、もう一度、指先を添えた。


 頬には、まだ二つの熱が残っている。

 シェリーの平手の熱と、男爵が頭を下げた時に残していった、もう一つの熱。


 その二つの熱の真ん中で、私は、机の上の桜色の長衣を、静かに見つめていた。


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