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第16話 領主の十年

 

 私は寝台のそばの小机に、王家のスティックを置いた。

 そのまま、しばらく動けなかった。


 東の窓から、朝の光が差し込んでいる。

 机の木目の上に、淡い格子の影が落ちていた。


 部屋の空気には、まだ落ち着かない揺らぎが残っている。

 新しい人を迎えたばかりの、ふわついた気配。

 扉の方から、香木のにおいが、かすかに流れてきた。


 私はもう一度、杖の握りに指をそえた。

 父の形見の、五粒の魔石《ませき》。

 その冷たい感触が、指の腹に届く。


 ——応接の間で語ったことは、本当に、父上の御志《おこころざし》のすべてだったのか。


 私は、自分に問いかけた。


 机の上の羊皮紙《ようひし》。

 書き直さなければいけない草案の、最初の一行が、まだ頭の中で揺れている。


 そのとき、扉が小さく鳴った。

 控えめなノック。


 二度。

 それから少し間を置いて、もう一度。


「リディア様」


 扉の向こうから、若いメイドの声がした。

 さっき廊下を案内してくれた、あの子の声だ。


「旦那様と、ベガ様がお見えです。

 お通ししても、よろしいでしょうか」


 私は、そっと息を整えた。


「どうぞ」


 声は、自分でも驚くくらい、自然に出た。


 扉が、ゆっくり開く。


 最初にメイドが、軽く頭を下げて入ってきた。

 その後ろから、スミス男爵。

 さらに半歩うしろに、白髪まじりの頭を少しかがめて、ベガが続いた。


「リディア殿」


 男爵が、静かに口を開いた。


「お疲れのところを、申し訳ない。

 少し、お話ししたいことがあって参りました」


 その声は、応接の間で聞いたときと同じ。

 深くて、落ち着いている。


 私は、男爵の顔をまっすぐ見た。


「いえ。

 私のほうこそ、お礼を申し上げます。

 お話の機会を、いただきました」


「女性の部屋で、まことに無礼ですが」


 男爵が続けた。


「人払いを、お許しいただけますかな」


 その言葉の選び方が、胸の中に、小さな重みを置いた。


 人払い。


 その一言だけで、これから話されることの重さが、伝わってくる。


「はい。

 お気づかい、ありがとうございます」


 私はうなずいた。


 男爵は、ゆっくりとメイドの方を見た。

 それ以上の言葉はいらなかった。

 メイドは、視線の意味をすぐに受け取った。


「失礼いたします」


 低く、ていねいにお辞儀をして、扉まで戻る。

 扉を静かに引いて、閉じた。


 部屋には、三人だけが残った。


「どうぞ、お掛けください」


 私は、東の窓辺を手で示した。


 窓のそばに、低い丸テーブルがある。

 それをはさんで、背の低い革張りの椅子が、二脚。

 革は新しくはない。

 でも、長く使われた革だけが持つ、深い艶があった。


 私は片側の椅子に腰を下ろした。

 向かいに、男爵が座る。

 ベガは、もう一つの椅子を運んできて、男爵の隣に静かに腰を落とした。


 椅子の革が、ベガのローブの裾の中で、小さく軋んだ。


 窓の外。

 庭の方から、鳥の声が一つ、二つ、聞こえた。



 男爵は、しばらく何も言わなかった。


 テーブルの上で、両手を重ねる。

 重ねた指の関節を、もう一方の指でゆっくりと撫でた。

 まるで、自分の指の輪郭を、確かめているように。


 その手が、止まる。


「リディア殿」


 声は低かった。


「いまからお話しすることは、この領地の、十年近くの話です。

 長くなるかもしれぬ。

 お聞きいただけますかな」


「はい。

 お聞きします」


 男爵は、もう一度、指の関節を撫でた。

 それから、ゆっくりと口を開いた。


「十年ほど前のことです」


 声の温度が、ひとつ沈む。


「この領地の村々で、平民の寿命が、急に下がり始めました。

 それまでも、決して長くはなかった。

 ある時から、急に、削れていったのです」


 男爵は、組んだ手を組み直した。


「最初の年は、村ごとに、一人か二人。

 若い者が、老いて死にました。

 翌年は三人。四人。

 その次の年には、もう、数えるのを、みなやめておりました」


 私は、息を止めた。


 評議の場で、自分が読み上げた、あの数字。

 自分の手で書き写した、あの帳簿。

 十年で、平均寿命が三歳近く縮んだ、あの線。


 あの一目盛りの、一つ一つが。

 いま男爵の目の前で、生きていた人だった。


「私は、王に、じかに、書簡をお送りしました」


 男爵が続けた。


「あの頃はまだ、私の中に、王と臣下の絆というものが残っておりました。

 書簡には、領地の数字を、できるかぎり正確に書きました。

 平民の寿命の下がり方。

 収穫の落ち方。

 亡くなった者の記録の写し。

 最後に、自分の家紋を、押しました」


 男爵は、そこで一度、口を閉じた。


 短い、息の間。


「返事は、ございませんでした」


 声は、淡々としていた。


 でも、その淡々の下には、十年分の沈黙が、横たわっている。


「半年待って、もう一通。

 その二通目は、王領出身の貴族の手を通らぬよう、別の道を使いました」


 男爵は続けた。


「さらに半年待って、三通目。

 また別の伝手をたどりました。

 書簡を運ぶ者にも、家紋ではなく、無印の蝋《ろう》で封をするよう頼みました。

 途中に誰がいても、王の机までは届くように。

 組めるだけの道を、組みました」


 男爵の指が、もう一度、関節を撫でる。


「あわせて、御目通りの願いも出しました。

 地方の領主が王に直接お会いする、その形式の文を、宮内省《くないしょう》へ、二度ほど」


 男爵は、息をひとつ吐いた。


「ついぞ、通りませんでした」


 私は、うなずくことすら、できなかった。


 父上の机の上に、その書簡は、届いていたのか。

 届いていたとして、父上はどう扱ったのか。

 それとも、届く前に、別の手が止めたのか。

 御目通りの願いを、誰が握りつぶしたのか。


 いまの私には、その、どれも、確かめる術がない。


 確かめられない。

 そのこと自体が、胸の中で、ひとつの重さになった。


「ですから」


 男爵が続ける。


「私たちは、自分たちで何かを組まねば、ならなくなりました。

 持続できる領地。

 そういう考え方を、その時に思いついたのです」


 男爵は、テーブルの上の指を、また撫でた。


「子を五人以上産んだご夫婦には、その後の魔力奉仕《まりょくほうし》を免除いたしました。

 誰かが進んで、他人の分まで魔力を捧げると申し出たときは、その家族へ、毎月の食料を、領主の名でお届けする。

 そういう約束を、結びました。

 王の決まりでは、出産の前後一年は免除です。

 そこへ、もう一年を、こちらで足しました。

 母親が、子の傍に、二年いられるように」


 私は、はっとした。


 それは、村へ入る道で、兵士から聞かされたことだった。


 ベンチに座っていた、あの男。

 その妻。

 二歳に満たない、子ども。


 あの「毎月の食料」の約束。

 その源が、いま、目の前にいる、この人だった。


「しかし」


 男爵の声が、少し低くなる。


「すべてが、うまくいったわけでは、ありません」


 その一語が、テーブルの上で、しばらく宙に浮いた。


「魔力は、年々、少なくなりました。

 土地は、痩せていきました。

 収穫は、落ちました。

 食料は、足りなくなりました。

 もう、ここでは生きられぬと判じた者が、出始めました」


 男爵は、一拍、置いた。


「領地を出て、街道沿いで盗賊になった者も、おりました」


 私は、声を出さなかった。


 森の中で、矢を放ってきた、あの二人の弓使い。

 矢が、アルテミシアの修道服の裾を、かすめた瞬間。

 あの、鋭い矢音。

 アルテミシアの刺突剣が、最初の弓使いを仕留めた、あの湿った音。


 あの盗賊たちは——もしかして、この領地から出た者だったのか。

 道を知り尽くしたあの手筋は、自分が育った土地の道だけを、最後まで頼った者のものだったのか。


 いまの私には、それを、確かめる術がない。


「土地を良くしようとすれば、魔力を取らねばなりません。

 しかし、魔力を取れば、領民の寿命が、もう一段、削れる。

 そのどちらかを、選ばねばならぬ。

 しかも、どちらを選んでも、出口は、無い」


 男爵の声に、別の温度が混じった。


「働く者の意欲も、落ちました。

 働いても、その先に、何も見えない。

 その状態が五年も続けば、人は、農具を地面に置いてしまう。

 置いた農具を、もう一度握り直すための力が、無くなるのです」


 男爵は、両手の指を、また組み直した。


「私は」


 声は、低かった。


「もう、この領地が立ち行かなくなる日を、覚悟しておりました」


 部屋の中で、誰も口を開かなかった。


 私は、ベガの方を、ちらと見た。

 ベガは、自分の椅子で、長いローブの裾の中、わずかに目を伏せていた。

 胸元の銀の鎖。

 その先の、紫の魔石。

 そこに走った亀裂の跡が、目の下で、わずかに見えていた。


 ベガもまた、男爵の語るこの十年を、隣で見続けてきた人だった。


「そんな時に」


 男爵の声に、ふと、別の温度が混じる。


「王城の方から、噂が、流れて参りました。

 王子が、魔力の差し出しを、減らす政策を目指しておられる、と」


 男爵は、私の顔をまっすぐ見た。


「最初は、信じませんでした。

 長く、宮廷の動きを見て参った身です。

 貴族の取り分を抑え、魔石を国の手で配り直す。

 そんな話が、評議の場で通るとは、思えませなんだ」


 男爵が続ける。


「ですが、噂は消えませんでした。

 半年待っても、一年待っても、その話が、王城の中から、少しずつ漏れてくる。

 そして噂の中心に、いつも、王子のお名前が、ございました」


 男爵は、わずかに目を閉じた。


「そしてある日。

 王城より、評議の場への、召集状が、届きました」


 声が、もう一段、低くなる。


「王子が大法官《だいほうかん》にご就任なさる。

 その、評議の場でございました」


 私は、息を止めた。


「……あの、評議の場に」


「百を数える貴族たちが集まり、私もまた、その一人として、馬を出しました」


 男爵は、淡々と続けた。


「私は、後列の隅に、おりました。

 私のような地方の男爵には、それ以上の場所は、与えられませぬ」


 男爵は、私の目を、まっすぐ見た。


「リディア様は、その日、壇上に、お立ちでした」


 私の目の縁が、わずかに熱くなる。


 百を数える貴族たちの前で、握りしめた羊皮紙が、指の腹に刺さっていた、あの朝。

 振り向けば、父上の虚ろな目があった、あの瞬間。

 ジェンドリック公爵の頬の筋が、組み上がる前のまま止まった、あの一拍。


 その全部の場に、目の前のこの人も、いた。

 百の貴族の、後列の隅。

 扇の影の、ひとつとして。


「数字を、読み上げられました」


 男爵が続ける。


「過去十年の、平民の、亡くなった年。

 十八歳。二十三歳。

 そしてそれが、王立記録院と王立医学院。

 二つの機関が手を組んで調べた数字であること。

 二百人の記録官と医師が、半年間、毎週、突き合わせ続けた結果であること」


 男爵の指が、テーブルの上で、止まった。


「私は、自分の手で、書簡を三通、書きました。

 けれど、その数字が、誰の机に着いたのか。

 誰の手で止められたのか。

 私には、分からなんだ。

 ところが、壇上のリディア様は、その数字を出すために、二つの機関を、半年間、動かしておられた」


 男爵の声に、初めて、別の温度が混じった。


「ああ、と、私は思いました。

 数字とは、こういう運び方をするものだったのか、と」


 私は、息を止めたまま、男爵の目を見返した。


「『法を守ることに非ず、法の目指す所を、守ることなり』」


 男爵は、低く、引用した。


「初代大法官、エルディーガ・ヴェレンの就任の誓い。

 リディア様が、評議の場の真ん中で、口にされた一句です。

 私はその日、馬の鞍の前に、その一句を載せて、領地へ戻りました」


 男爵は、そこで一拍、置いた。


「鞍の前には、もう一つ。

 所信表明の——ご自分の方針を述べた演説の、写しを持ち帰りました。

 評議の場で配られたものです」


 私の目の縁から、滲んだ熱が、ようやく頬に落ちた。


 王城の文書庫で、半年かけて書き上げた、あの草稿。

 百を数える貴族の前で、声に出して読み上げた、あの紙の束。

 その一部が、この人の鞍の前で、領地まで運ばれていた。


「これからこの国は、変わる」


 男爵の声は、低かった。


「私は、馬の上で、それを確信しました」


 ——馬の上で。


 私は、男爵がその一語を、どう発音したか。

 その音の温度を、受け取った。


 書斎の机で、確信したのではない。

 家臣と相談して、確信したのでもない。

 王城から領地へ戻る、一人の、馬の上で。

 長い時間をかけて、確信した、ということだった。


「ただ」


 男爵の声が、もう一段、変わった。


「同時に、もう一つ、見えてしまったものが、ございました」


 私の背筋が、わずかに伸びた。


「リディア様は、お若い」


 男爵は、静かに告げた。


 責めるためでは、なかった。

 後列の隅から、壇上を見上げていた男の、観察の結果だった。


「貴族のためこんだ魔石を、貴族のあいだで配り直す、と仰った。

 ジェンドリック公爵のためこみを、他の貴族へ回す、と」


 男爵が続ける。


「あの公爵が、それを、おとなしく受け入れるはずが、ございません。

 あの瞬間、確かに、公爵の頬の筋は、組み上がる前のまま止まりました。

 リディア様の手続きの巧みさが、公爵をその場で、押し戻した。

 ですが私は、あの止まり方を、後列の隅から見ておりました。

 あれは、降参の表情では、ございませなんだ」


 私は、思わず、唇を噛んだ。


「あれは」


 男爵は、静かに告げた。


「『この場では引いた、というだけの表情』でございました。

 いずれ必ず、別の手で、リディア様を止めにきます」


 私は、うなずくことも、できなかった。


 あの評議の、数日後。

 自分の身体に起きたこと。

 父上の腹に、深紅の魔石が押し当てられた、あの瞬間。


 あれは——男爵の言葉の通りに、別の手が動いた、その結果だったのだ。


「リディア様のご政策は、正しい」


 男爵が続ける。


「ですが、お若い。

 貴族の老獪《ろうかい》さに、まだ、肌で触れていらっしゃらぬ。

 評議の場で、頭を下げさせたこと。

 その代償が、いずれ、別の場所で、リディア様のお身体に、跳ね返って参ります」


 男爵は、息を、ひとつ吐いた。


「ですから、私は決めました」


 声は、深く、低かった。


「残ったスミス家の全財産を、王子のご就任から、十年ほどで、ちょうど尽きる線まで、引き伸ばす。

 その十年のあいだに、リディア様の政策が、貴族のずる賢さに、何度か潰されかけても。

 最後の最後で、立ち直れる道だけは、残しておく。

 そういう線まで、引きました」


 私は、息を呑んだ。


「十年のあいだに、政策がこの国に届かねば、スミス家は十年後、文字通り、一文無しとなる。

 そういう、線でございます」


 男爵が続ける。


「毎月、屋根に回せる魔石の量。

 畑に回せる量。

 領民の食卓に回せる量。

 残りの時間が、一刻ずつ削れていく前提で、机の上の数字を、組み直し続けました」


 男爵は、一拍、置いた。


「右の翼の屋根瓦を葺き直さなかったのも。

 左の翼の窓を、木の板で塞いだのも。

 あれは、好みでは、ございません。

 残りの時間の計算の上の、優先順位の、結果でございます」


 私は、屋敷の外観を、もう一度、思い出した。


 石の半円のアーチ。

 左右がそろっていない、二つの翼。

 右の翼の屋根に、ところどころ抜け落ちた、黒い穴。

 左の翼の窓を、内側から塞いだ木の板の、雨垂れの跡。


 ——あれは、馬の上で計算された、残り時間の跡だったのか。


 最初に見たとき、私はこう思った。

 維持できる範囲だけを、ぎりぎりで維持している、と。


 いま私は、それを、見た目ではなく、意味として、受け取った。


「領地に戻ってからは」


 男爵が続けた。


「鞍の前から下ろした写しを、机の上で、何度も読み返しました。

 文字を、目で辿りました。

 辿るたびに、頬の上に、何かが落ちる。

 それが雫なのか、汗なのか。

 自分でも、区別が、つきませんでした」


 男爵の声の上を、もう一度、わずかなものが走った。

 今度はそれを、男爵自身、抑えなかった。


「私は、生まれて初めて」


 声は、最後まで、しっかりと続いた。


「机の上の数字の向こうに、自分の手で動かせる現実がある、と感じました。

 この領地。

 ひいては、この国そのものが。

 まだ、立て直せる。

 ただ、そのためには、潰れかけるリディア様を、その都度、誰かが引き上げねばならぬ。

 私の十年は、その引き上げのための、刻みでございます」


 私の目の縁の内側で、また、熱が湧いた。


 半年かけて書き、貴族たちの前で読み上げた、あの声を。

 後列の隅で聞いていた一人の男が、馬の上で家計を組み直し、領地まで戻って。

 その十年分の刻みを、いま、私の前で、語っている。


 私は、まばたきで、その熱を抑えた。


「しかし」


 男爵の声の温度が、もう一段、変わった。


「その後、王城から続けて届いた、いくつかの手紙には、困惑させられました」


 私は、うなずいた。


「王子に重傷の噂。

 王子は王の手にかかった、という、別の使者の言。

 めいめいが別々の話を、別々の便りで運んで参りました。

 応接の場で、お伝えした通りでございます」


 男爵が続ける。


「絶望、と言うほかに、ございませんでした」


 声は、淡々としていた。


「そんな時に」


 男爵は、目を上げた。


「神父からの文が、届きました」


 男爵は、私の目をまっすぐ見た。


「『一人、客を遣る。よしなに頼む』。

 短い、一文でございました。

 しかし、時期が時期でございました。

 文をご覧になった瞬間、私の中で、賭けが、もう一度生まれました。

 この客が、王子のご一行ではないか、と」


 その一語が、テーブルの上に、置かれた。


 私は、男爵の目を、しばらく見つめ返した。

 男爵も、目を逸らさなかった。


 そして——


 男爵は、ゆっくりと、椅子から立ち上がった。


 テーブルの脇に出て、私の正面で、片膝を、じゅうたんの上に落とした。


 私は、息を呑んだ。


 爵位を持つ男が、同じ爵位の若い男に対してすら、めったに見せない種類の動作だった。

 深い赤のじゅうたんの毛足が、男爵の膝の下で、ふっくらと押し潰された。


「ロディエット様」


 男爵の声は、低かった。


「我らスミス家は、いま一度、この場に誓います。

 リディア様を、全力でお助けすることを。

 所信表明にて発表された、あの政策の成就に、惜しみなく協力いたします。

 残りの時間を、共に削る覚悟で、ございます」


 私の目の縁の内側で湧いていた熱が、一筋、頬の方へ滑り落ちた。


 ロディエット様、と呼ばれた、その一言で、胸の奥が勝手に揺れる。

 それでも私は、まばたきで、こらえた。


 これは、私が生まれて初めて、誰かに「忠義」を示された瞬間だった。


 評議の間で、貴族たちは、私の前で頭を下げた。

 だが、その頭の下げ方の、すべてが、設計図通りの、滑らかな曲線だった。

 額を当てる、という所作は、そこには無かった。


 百の貴族の中で、ただ一人。

 後列の隅で、扇に隠れていた、この男だけが。

 馬の上で、その所作を組み立てていた、ということだった。


 男爵は、ゆっくりと、私の右手の方へ、両手を伸ばした。


 私は、自分の右手を、その手のひらの上に、預けた。


 スミス男爵は、私の手の甲に、自分の額を、押し当てた。


 額の温度が、手の甲を通して、手の骨まで、届いた。


 書物の中で、読んだことがあった。

 額を相手の手の甲に当てる礼が、本物の臣従の形だ、と。


 だがいま、その意味は、文字ではなく、額の温度として、骨まで届いていた。


 ベガもまた、男爵の隣で、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

 そして、男爵の半歩うしろで、ローブの裾をじゅうたんの上に落とすように、片膝をついた。


 ベガは、何も言わなかった。

 長い宮廷魔術師の影を引いた老人の、これが、返答だった。


「……ありがとうございます」


 私の声は、もう、抑えきれなかった。


 片方の頬には、まだ、シェリーに打たれた熱が、残っていた。

 そこへ、もう片方の頬から、別の温度の雫が、ゆっくりと降りた。


 二人は、立ち上がった。

 立ち上がる前に、男爵は、ベガと、一度、目を合わせた。


 その目の中に、いま、新しいものが加わっていた。


 これから国を変えるための、長い道のりに賭ける、前を向く者の目。

 その道のりが、十六歳の身体にとって、どれほど過酷であるかを、すでに見抜いた者の目。

 そして、その道のりに、十年の時間の中で、自分たちもまた、共に死ぬ覚悟をした。

 二人の政治家の、目だった。


 私は、その目を、まっすぐ受け止めた。


 窓の外で、鳥の声が、もう一度、響いた。

 今度は、最初の一つでも二つでもなく。

 もっと遠く、屋敷の裏の林の方で、別の一群が、声を交わしていた。


 朝が、わずかに、進んでいた。


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