第17話 先人の轍《わだち》
男爵は、机の上で組んだ両手を、もう一度組み直した。
指の関節が、白く浮いている。
その節を、しばらく見つめていた。
それから、ゆっくりと口を開く。
「リディア殿。
ここから先は、無礼を承知で申し上げます」
声の温度が、変わった。
私には、それが分かった。
さっきまでの男爵の声は、自分の土地の十年を語る声だった。
でも今度のは、私に何かを願い出ようとする声だ。
「一つ、お願いがございます」
男爵は、まっすぐ私の目を見た。
「この領地を、リディア殿の実地修練の場として、お使いいただけませぬか。」
私は、息を止めた。
何を言われたのか、すぐには分からない。
学ぶための場。
その言い方が、ずいぶん慎重に選ばれている。
その慎重さに、背筋が、ソファの上で少しだけ固くなった。
「法律ができても」
男爵は続けた。
「国は、すぐには変わりませぬ。
法とは、紙の上に書かれた文字でございます。
その文字が、村の畑の、土の畝の、最後の一筋にまで届くには、何年もの手間が要ります」
男爵の指が、机の上でほどけた。
「書き写す者の手。
教えて回る者の足。
受け取って、耳をかたむける者。
その一つ一つが、間に要るのです」
私の頭に、ふと、あの林檎がよみがえった。
宿場で、私が手に握った林檎。
いびつにゆがんだ、半月みたいな形。
本に書いてあった、「育て方には土地ごとの差がある」という、たった一行。
その一行が、あのとき、一つの果物のゆがみとして、初めて手の重さで私に届いた。
あのゆがみを、まっすぐな畑の絵に戻すまでに、どれだけの人の手と、どれだけの年月が要るのか。
半年かけて書いた私の原稿の、どの行にも、その年月は、まだ書かれていなかった。
「ですから」
男爵は言った。
「その『年月』の部分を、この領地で、ご自分の手でご経験ください」
声に、はっきりとした誘いの温度が混じる。
「この領地は、いま申し上げた通りの有様でございます。
組んだ仕組みが、うまくいかなかった。
領民の意欲を、もう一度起こすには、どうすればよいか。
民の魔力を取らずに、土を育てる別の道はないのか。
奉仕の上限を、どこに引くべきか」
奉仕。
平民が土地を使う代わりに差し出す、命に近い魔力のことだ。
「そうした問いの一つ一つを、紙の上ではなく、土の上でお考えになっていただきたい。
この先、王城で組まれる法のために、土に根を張った手応えを、ここで持って帰っていただきたいのです」
男爵は、私に向かって、わずかに頭を下げた。
「私たちは、協力を惜しみませぬ」
机のそばで、ベガが低く頷いた。
ほんの小さな動きだ。
でも、その小さな動きの中に、男爵と長く机を並べてきた者の、「賛成だ」という温度が、確かに混じっていた。
私は、しばらく何も言えなかった。
ソファの革のふちを、指の腹で、知らないうちに撫でていた。
長く使い込まれた革の、わずかな艶。
その感触だけが、指先に届く。
紙の上ではなく、土の上で知る。
その言葉が、私の中で、静かに置き直された。
王城で、所信表明の原稿を机に広げていたあの頃。
私はまだ、この言葉の意味を知らなかった。
書類の上で、文字を組み立てる政策は知っていた。
評議の場で、声に出すための言葉の選び方も知っていた。
でも――それを毎日、土の上で繰り返すということ。
わずかな収穫の上がり下がりに、一喜一憂するということ。
ベンチに座る一人の老人の体を、自分の机の上の数字と、毎日突き合わせるということ。
それを、私は知らなかった。
知らないまま、私は評議の場で、宣告したのだ。
その自覚は、丘の上の村で、宿場の老人の手に触れた瞬間から、少しずつ重さを増してきた。
森の中で、紋章を読みながら体が転んだあの瞬間にも、重さは増した。
そして今、男爵の目の前で、その重さは、はっきりとした一つの形になった。
ここは、二度と得られない場所かもしれない。
領民の生の声を、毎日聞ける。
そのそばで、自分の机の上の数字を、組み直せる。
十年の手応えを体で知っている男爵とベガが、すぐ隣で見ていてくれる。
私は、決めた。
「ありがとうございます」
声は、思ったよりしっかり出た。
「お申し出を、謹んでお受けいたします」
男爵の目尻が、わずかに動いた。
驚きに、近い動きだった。
「……恐れ入りました」
低い声で、男爵が呟く。
「老いを止めた者ほど、決断に長い時をかける癖がつきます。
私のような身ですら、十年の刻みを引き直すのに、半月かかりました。
ジェンドリック公爵のような御方なら、十年お考えになることもございましょう」
声に、新しい温度が混じった。
「半年で所信表明の原稿を組み上げられた、ロディエット様のあのお早さ。
いま、もう一度、この机の上で目の当たりにいたしました」
私は、目を伏せた。
褒められている。
それが、評議の場で千の言葉を浴びたときとは、別の場所に届いた。
男爵が、ゆっくりと頭を下げる。
深く。
でも、応接の場で見せたような、片膝をつくほどの礼ではない。
机を挟んだ者同士の、合意の頷きに近い角度だった。
それが、かえって、私の胸に別の温度を置いた。
応接の場の、あの片膝の礼は、ロディエットへの忠義だった。
いまの、この机の上の頷きは、これから一緒に土の上で机を組み直す者として、私を引き受けるという礼だ。
二つは、別の温度だった。
私はその違いを、ソファの上で、ゆっくりと受け止めた。
「それから――」
男爵が、一拍置いた。
「シェリーには、明日からの護衛として、改めて言い聞かせます。
御身の背後に、もう一度立たせるよう、いたします」
私は、小さく頷いた。
頭を下げたままの視界の隅に、シェリーのことが浮かぶ。
白く震えていた、あの拳。
あの拳を、これから私は、自分の背後で、知らないふりをして過ごすことになる。
それが、自分で思っているよりずっと重いことだと、もう知っていた。
「リディア殿には、もう一つ、身につけていただきたいことがございます」
男爵の声が、また少し変わった。
男爵は、隣のベガを一度見た。
ベガが、わずかに頷く。
「身を守る、訓練でございます」
革のふちをなぞっていた私の指が、止まった。
「現王は」
ベガが、初めて口を開いた。
声はかすれていて、短く、淡々としている。
「魔力の天才で、あった」
天才『だった』。
その過去形が意味する残酷な事実に、胸が締め付けられた
私は、それを顔に出さなかった。
「杖の一振りで、一個大隊まるごと消える。
そう聞いたことがある」
ベガは続けた。
「ただしあれは、長い詠唱の上に組み上がる力でな。
短い詠唱では、その十分の一にも届かぬ。
あの晩、暗殺者を相手に振るわれた力は、短い詠唱のものでございましょう」
私は、頬の内側を噛んだ。
父の若い頃の戦の話は、城で何度か耳にしていた。
「一個大隊」という言葉を、あの頃の私は、ただの数字として聞き流していた。
でも今、ベガの口の中で、その言葉は、具体的な人の数の重さを持って置かれた。
それが、父の若き日の力だった。
その力を、最後の最後で、父は自分自身に向けた。
評議の間の暖炉の前で、父が暗殺者を装った男に殺された、あの夜。
父は、私――ロディエットの顔まで、深く変身を引き寄せていた。
その「念」を、できるだけ強く残すために、十六まで深く若返った。
そのために父は、自分の魔力を、ご自身の身体を私の姿に留めるために使い切った。
「護衛がついていても」
男爵が続ける。
「常に間に合うとは、限りませぬ。
ましてや、これからのリディア殿の政策を思えば、御身を狙う手は、これから増えてまいります。
貴族の側からも、隣の国の側からも」
声に、初めてはっきりとした警告の温度が混じった。
「ある程度は、御身ご自身で抵抗できるようになっていただきたい。
戦えるように、ということではございませぬ。
刃の先が御身に届くまでの、ほんの一拍を稼げる程度には、なっていただきたいのです」
「その一拍を稼いでいただければ」
ベガが、かすれた声で短く繋いだ。
「護衛が、間に合う」
それだけだった。
それ以上は、言わなかった。
どんな手を使うのか、その中身は、何ひとつ口にしなかった。
私は、頷いた。
森の中で、敵の魔術師が組み立てた紋章を、初めて自分の力で読んだ、あの瞬間を思い出す。
あれは、戦う技ではなかった。
あの瞬間まで、自分にそれができるなんて、知らなかった。
「お願いいたします」
私は、頭を下げた。
ベガが、もう一度、低く頷いた。
「最後に、もう一つ」
男爵が、ふと声の温度を変えた。
領地の話とも、政策の話とも、訓練の話とも、どれとも違う温度だ。
わずかに戸惑ったような、苦笑に近い温度。
「申し上げにくいことが、ございます」
私は、男爵の顔をまっすぐ見た。
男爵は、少し目を伏せる。
応接の場で見せた、あの凄みのある冷静さとも違う。
片膝をついた、あの忠義の温度とも違う。
ごく普通の、家庭の男の温度を、ふと滲ませた。
「私の妻のことで、ございます」
私は、応接の場での婦人を思い出した。
白いレースの多いドレス。
手元の、閉じた羽根の扇。
「シェリー!」と一度だけ鋭く声を上げて、すぐに黙った、あの抑えた声。
「妻は――」
男爵は、わずかに肩を下げた。
「正式の場では、扇の内に収まる者でございますが、内では、少々、別人でございます」
別人。
その言葉に、一瞬、頭が追いつかなかった。
「……別人、でございますか」
「お恥ずかしながら」
男爵は、目を少し伏せた。
「妻は長く、子を産み育てる方々の世話や、若い御方への衣装の見立て、そうしたものを、いたく好む者でございます。
応接の場の扇の下では声を抑えておりますが、扉が閉じたあとは、なかなか止まりませぬ」
苦笑の温度が、少し増えた。
「衣装の見立てが、何度も重なることもあれば、部屋の調度の入れ替えが、夜中まで続くこともございます。
お若いお嬢様に話しかける時には、夜の更けるのを忘れる、ということも」
男爵は、わずかに頭を下げた。
「もし、妻のすることでお困りになるようなことがございましたら、どうか遠慮なくお止めください。
止めていただいて、構いませぬ。
妻も、その方がよいと申しております」
私は、思わず口の端をゆるめた。
応接の場の、あの扇の握りの慎ましさと、片膝の礼の重み。
そのあとに、夜中まで続く調度の入れ替え。
それが、同じ一人の中に、同居している。
「分かりました」
私は頷いた。
「奥様のご好意は、有難く受け取らせていただきます。
ただ、もし夜が深くなるようでしたら、その時は、私の方からお休みをお願いさせていただきます」
「お願いいたします」
男爵が、ようやく、目尻に小さな苦笑を浮かべた。
その苦笑が、目尻の新しい皺の、ごく細い縦の線の上に、わずかに乗った。
私は、それを見ていた。
でも、声には出さなかった。
スミス男爵が、ゆっくりとソファから立ち上がった。
ベガも、それに合わせて立ち上がる。
「長くお時間を頂戴いたしました」
男爵が、私に軽く頭を下げた。
「明日からのお勉強と訓練のことは、ベガと改めてご相談ください。
領地のお話は、ゆっくり進めてまいりましょう。
今夜は、どうかお休みくださいませ」
「ありがとうございます」
私も、ソファから立ち上がった。
男爵は扉の方へ歩いていき、扉の前で、振り返った。
「あの、桜色の衣でございますが」
わずかに、苦笑の余韻を残している。
「もし、お気に召されぬところがございましたら、遠慮なく妻にお申し付けください。
妻はもう、何着かを、次の間に用意してございます」
私は、ようやく、わずかに笑った。
笑った頬の片方には、まだシェリーの平手の熱の、薄い余韻が残っている。
その余韻の上に、いま、別の温度の笑いが重なった。
「お伝えいたします」
男爵が頷いた。
そしてベガに目で促し、二人で部屋を出ていった。
扉が、閉じる。
部屋の中に、また私だけが残された。
東向きの窓から差し込んでいた朝の光は、いつの間にか、少し角度を変えていた。
机の上の、桜色の長衣のレースの上に、その光は、もう最初の角度では降りていない。
私は、もう一度ソファに腰を下ろした。
そのまま、男爵の話を、頭の中でもう一度たどる。
十年の、領地の話。
領主の賭けの、机の上。
所信表明演説の写しに、雫を落とした、あの机の上。
そして、「この領地を、学ぶための場としていただけませぬか」と問われた、その問いの重み。
私は、自分の指の関節を、もう一方の指で、ゆっくりと撫でた。
知ろう、と思った。
紙の上ではなく、土の上で。
知ろう、と思った。




