第18話 魔力と紋章
第18話 魔力と紋章
その夜、私は王家のスティックを小机に置き、初めて、新しい夜着に袖を通した。
桜色をまぜたような、うすい灰色。
なめらかな布が、肩の上をすべっていく。
えりのレースが、首すじにそっと触れた。
細いひもの帯を、腰の前で結ぶ。
白いシーツの上に、身体を横たえた。
ほおの片方にあった、かすかな熱。
それはもう、ほとんど引いていた。
腿の傷の痛みも、火傷の熱も、夜の冷たい空気の中で、静かに沈んでいく。
長い旅の疲れは、一日では抜けない。
それでも、寝台の太い柱が、私の身体の重みを、しっかりと受け止めてくれた。
私は、目を閉じた。
夢の中で、私は自分の身体の中にいなかった。
最初は、これが自分の夢だと分かっていた。
まぶたの裏に、いつもの灰色のまどろみが、ふわりと降りてくる。
でも――その靄が晴れた瞬間。
私の目に映ったのは、知らない部屋だった。
石でできた、低い天井。
ゆかは、みがかれていない灰色の石。
壁には、たなが何段もならんでいた。
硝子の小瓶。
陶器の壺。
布で覆われた、何かの形。
びんの中には、黒い液体。
それとも、銀色の粉。
つぼの口からは、煙とも湯気ともつかない、うすい白い気が立ちのぼっていた。
部屋の真ん中に、長くて、ごつごつした机。
その上に、何かが横たえられていた。
最初は、それが何なのか、よく分からなかった。
灰色の、かたい殻。
四本の、細い脚。
胴の横が、わずかに上下している。
――甲殻を持つ生き物だった。
その生き物は、生きていた。
でも、目は閉じている。
なぜか、魔法でねむらされているのが、私には分かった。
半円形の甲羅が、鈍く光っていた。
その下の脚が、かすかにふるえていた。
息に合わせて、腹のあたりが、ゆっくりと上下する。
机のわきに、若い男の人が立っていた。
灰色がかった青の長いローブ。
ぼさぼさの髪は、まだ白くない。
顎髭は薄く、伸び始めたばかりだった。
胸元には、銀の鎖。
その先に、こぶしほどの、むらさきの魔石。
――若いころのベガだった。
夢の中で、私にはそう分かった。
ベガの右手が、銀の杖をにぎっている。
小さな魔石を、たくさん埋めこんだ、長い杖。
その先を、生き物の胴の上に近づけた。
ベガが、紋章を組み立てはじめる。
「――いくぞ」
声が、私の頭の中に流れこんできた。
口に出した声じゃない。
ベガの、心の中の声だった。
「――これで、八十四度目」
「――前にやって分かったのは、豚では駄目だった、ということだ。馬も、駄目だった」
杖の先から、青白い光がもれる。
胸元のむらさきの魔石が、それに答えるように、深く輝いた。
私には、その紋章のかたちが見えた。
誰かの魔力を、外へ引き出すための紋章。
貴族が平民から魔力を受け取るとき、組むものがある。
文書庫の報告書で読んだ、あの紋章。
根っこは、それと同じだった。
でも、その上に。
私の読んだ書物には、のっていない線が走っていた。
奇妙な、追加の線。
獣の身体のかたちに合わせて、組みなおされたものらしかった。
「――人間に、限る必要は、無いはずだ」
「――同じ、生き物の、魔力だ」
紋章の光が、強くなる。
生き物の胴の上下が、止まろうとしていた。
杖の先から、青白い光が、その身体をなでる。
なでた跡から、何かがにじみ出ようとした。
でも――
にじみ出たそれは、杖の手前で消えた。
むらさきの魔石に入る前に、空気の中でほどけて、消えてしまった。
甲殻生物の胴が、もう一度上下した。
だが、その幅は、最初より明らかに弱かった。
「――また、駄目か」
ベガが、杖を引いた。
机のわきで、肩を少し落とす。
左手で、自分の額をおさえた。
「――獣の魔力は、人間の身体に入る前に、ほどける」
「――血の流れの中で、ほどける」
「――それとも、紋章が、まだ足りないのか」
机のすみに、書きつけの紙の束があった。
一番上の紙に、同じような生き物の絵が、何枚も描かれている。
絵のわきには、走り書きの数字。
そのほとんどに、横線が引かれて、消されていた。
消した数字のとなりに、もっと小さな数字が書きなおされ――
その上にも、また横線が引かれている。
――失敗の、積み重ねだった。
ベガは、しばらく動かなかった。
それから、新しい紙を一枚、取った。
ペン先を、黒い液体にひたす。
紙の上に、また、新しい紋章を書きはじめた。
その指の動きを、私は夢の中で、ずっと見ていた。
夢は、長くは続かなかった。
灰色の靄が、もう一度、視界のふちをおおう。
石の部屋のかたちが、ほどけていく。
若いベガの背中が、靄の中ににじんで、消えた。
机の上の生き物も。
紋章の青白い光も。
書きつけの紙の束も。
全部、靄の中にもどっていった。
私は、目を開けた。
白いシーツの上に、自分の身体の重みがもどっている。
夜着の布が、肩の上に、軽くのっていた。
部屋の中は、まだ暗い。
東の窓の外で、空はまだ、夜の色をしていた。
私はしばらく、天井の梁を見上げた。
腿の傷の痛みは、眠っている間に引いていた。
でも、別の熱が、いま、胸の中で目をさましていた。
――あれは、ベガの記憶だ。
森の中の戦いで、魔術師の組んだ紋章を読んだ。
あのときの感覚に、似ていた。
でも、もう一つ。
別の感覚も、混じっている。
宿場で、老人の指に触れたとき。
流れこんできた、あの「一生分の記憶」。
あれと同じ深さの、温度があった。
思いあたることが、あった。
応接の部屋で、ベガは紋章を使って、私の身体を読んだ。
そのとき、ベガが流した魔力。
それを、私の身体は知らないうちに、取りこんでいたらしい。
その中に、ベガの長い年月の、記憶のかけらが混じっていた。
ほんの一かけらが、いま、眠りの中で再生されたのだ。
――人間と、同じ生き物、ならば。
ベガの心の声が、頭の中で、もう一度くりかえされる。
獣から、魔力を取る。
それがうまくいけば――
平民に、命をけずって魔力を差し出させなくても、土地は肥える。
そのはずだった。
ベガは、それに賭けていた。
――でも、失敗していた。
あの、横線だらけの紙の束。
一本一本の線が、ベガの何年分の時間だったのか。
私には、まだ分からない。
獣の魔力は、人間用の紋章に乗せた時点でほどける。
魔石に留めることも、人間へ移すこともできない。
それが、八十四回の実験の結論なら――
いま私が、王城の文書庫で書きなおそうとしている政策。
その中から、一つの道が、もう消えていた。
「人間以外の生き物から魔力を集めて、土地を肥やす」という道。
それは、二十年以上も前に、消えていたのだ。
私は、その結論の重さを、寝台の上で、ゆっくりと噛みしめた。
ベガが私の前で見せた、あの疲れたような影。
その正体の一部を、いま、夢の中で見た気がした。
「……」
私は、寝台の上で、息を吐いた。
夜着のえりのレースが、首すじの上で、わずかに動く。
朝までには、まだ時間があった。
私は、もう一度、目を閉じる。
閉じたまぶたの先に。
若いベガの背中が、まだ、わずかに残っていた。




