↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

21/48

第19話 朝の食卓

 扉の向こうで、ベルの音が軽く鳴った。


 私はゆっくり目を開けた。


 東の窓には、もう朝の光が差していた。

 白いレースの布をすかして、寝台のシーツの上に、薄く落ちている。


 頭の中には、まだ夢の切れはしが残っていた。


 石でできた部屋。

 樫の机。

 若いベガの背中。

 横線の引かれた紙の束。

 黒い液体に、ペン先を浸した指。


 ——昨日、ベガに拘束の紋章をかけられた、あの一瞬。

 ほんのわずか、何かが私の指先まで、逆に流れこんだ気がした。


「リディア様」


 扉の向こうから、若いメイドの声がした。


「朝食の支度が、整いました。

 旦那様が、お待ちでございます」


 私は寝台から足を下ろした。


「すぐに、参ります」



 扉が開いた。


 メイドが、たたんだ長衣を両腕に抱えていた。

 昨日、机の上に届けられた、桜色がかった灰色の服だ。


「お手伝い、いたします」


 夜着を脱ぐ手は、まだうまく動かなかった。

 細い帯が、腰の前でもつれてしまう。


 メイドの指が、その帯をするりとほどいた。

 白い夜着が、神父の娘の細い肩を滑り落ちる。

 代わりに、目の細かい長衣が、肩の上にそっと置かれた。

 襟の白いレースが、首の薄い皮膚に重なる。


 頭の中で、若いベガの背中が、もう一度ゆれた気がした。



 メイドの後ろを、廊下に出た。


 窓から、朝の光の筋が斜めに落ちている。


 途中で、料理の匂いが鼻に届いた。

 何種類かが、混じり合った匂いだった。


 ——いったい、何の匂いだろう。


 その時、腹の奥が、ぐ、と知らない動きをした。


 知識として、私は知っていた。

 これは「空腹」と呼ばれる状態だ。

 そう気づいただけで、足の運びが少し軽くなった。



 食堂の扉が開いた。


 中央に、長い樫の机がある。

 上座にスミス男爵。

 左手に夫人。

 その向かい、男爵の右手にシェリー。

 家族の食卓だった。


 そして机の脇の壁ぎわに、ベガが立っていた。

 白髪まじりの、ぼさぼさの頭。

 昨日と同じ、静かな立ち姿だ。


 私は思わず、ベガを見つめた。


 ——夢の中の、あの若い背中。

 黒い液体に、ペン先を浸した指。


 ふと、ベガの目がこちらを向いた。


 目が合った。


 私は慌てて、視線を机に戻した。

 ベガは何も言わなかった。

 ただ、片方の眉の根を、わずかに上げただけだった。


 メイドに案内されて、男爵の正面の席に着いた。

 長い机の、もう一方の端だ。


 椅子が引かれる。

 私はゆっくり腰を下ろした。



 机の上に、皿が並んでいた。


 白くて丸い、焼きたてのパン。

 湯気を立てる、雑穀のスープ。

 鮮やかな黄色の、ふくらんだオムレツ。

 皿の脇には、小さく切り分けたチーズ。


「食卓」と呼べるものの本物を、私は初めて目の前にしていた。


 旅の間に、口にしたものはあった。

 アルテミシアの腰袋の干し肉。

 乾いた草の束。

 教会を出てすぐの林檎。

 どれも、ただ噛むだけのものだった。


 王城に、食卓は無かった。

 私はずっと、貴族は食事をとらずに生きるものだと思いこんでいた。

 だから、皿が並ぶこと自体に、少し違和感をおぼえた。


 ——でも、ここにあるものは、はっきりと食事だ。


 白いパンを、じっと見つめた。

 芳ばしい香りが、鼻の奥に深く届く。


 口の中に、唾液が湧いた。

 喉が勝手にそれを飲みこむ。

 飲みこんだそばから、また次の唾液が満ちた。


「リディア」


 スミス男爵の、低い声が響いた。


 私は慌てて顔を上げた。


「君は、この家の、家族として、扱う」


 男爵の声は、昨日の応接の間で聞いた時と同じ、深い温度を保っていた。

 その上に今、新しい温かさが重なっている。


「一緒に、食卓を囲もう」


 喉の奥が、わずかに詰まった。


「……ありがとうございます」


 シェリーが、机の上で両手を組んだ。

 目を伏せる。


 短い祈りの言葉が、その口の中で囁かれた。

 私の席からは、内容までは聞き取れない。

 ただ、その祈りの形が、この家で長く繰り返されてきたものだ、ということだけは分かった。


 祈りが終わった。


 男爵が、最初にパンへ手を伸ばす。


 私もゆっくり、自分の前のパンを指でつまんだ。



 パンの表面は、思ったより硬かった。


 王城の書庫で読んだ本に、平民の食物としてパンの名は何度も出てきた。

 けれど、それを指でちぎる時の手ごたえまでは、書かれていなかった。


 指の腹に力をこめる。

 表面がわずかに抵抗して——

 ぱり、と乾いた音を立てて割れた。


 割れた断面から、湯気がふわりと立つ。

 内側は白く、まだ温かい。

 焼いた麦の香りが、一気に深くなった。


 ちぎった一片を、口に運んだ。


 最初、舌の上には何も来なかった。

 味の輪郭が、まだ定まらない。


 けれど、噛んだ。

 歯が、白くふっくらした中身を押しつぶす。

 その瞬間——

 舌の奥に、わずかな甘さが湧いた。


 噛むたびに、甘さが濃くなっていく。


 ——甘い、のだ。


 パンというものが、こんなに甘い味をしている。


 口の端が、自然に上がった。



 次に、雑穀のスープにスプーンを伸ばした。


 匙の縁が、皿に軽く当たる。

 まだ握り方が手になじまない。

 それでも、湯気の立つ汁をすくった。


 口に運ぶ。


 味の表面は、薄かった。

 けれど——

 舌に置かれた瞬間、それが体の深いところへ、ゆっくり降りていった。


 塩の、かすかな温かさ。

 雑穀の、ほのかな香ばしさ。


 舌で味わうもの、というより——

 体そのものが欲しがって、引きこんでいくものだった。


 ——体が、欲しがっている。



 チーズに、指を伸ばした。


 ひと欠片を、口に入れる。


 その瞬間、強い匂いが鼻の奥を通り抜けた。

 発酵した、獣のような、深い匂い。

 舌の上には、わずかな苦味。


 私は思わず、鼻に皺を寄せた。


 ——けれど。


 奥歯で、もう一度噛んだ。

 苦味の下から、別の濃い何かが滲み出す。

 それは舌より、もう一段深いところで味わうものだった。


 ——癖になる。


 眉が、わずかにゆるんだ。

 食物には、こんなにも別々の味があるのか。


 最後に、私の目は——

 鮮やかな黄色のオムレツを捉えた。



「リディアさん?」


 ふと、机の向かいから声がかかった。

 夫人の声だ。


 私はようやく、皿から顔を上げた。


 三つの視線が、こちらを向いていた。

 男爵。シェリー。夫人。

 そして壁ぎわのベガまで。


「あ……」


 頬が、わずかに熱くなる。


 夢中になっていた。

 机の上の、他の何もかもが、視界の外へいっていた。


 夫人が、口の端を上げた。


「とても美味しそうに、お食べになるのね」


 その声には、昨日「シェリー!」と叱った時のような鋭さは無かった。

 代わりに、面白がるような温かさがある。

 家の中の食卓の声を、私は初めて聞いた。


「は、はい」


 私はようやく答えた。


「こんなに美味しいものがあるなんて——

 私は、知りませんでした」


 声が、思ったより幼く響いた。

 言ってから、また頬が熱くなる。


 正面の少し脇、シェリーの方から、小さく息をのむ音がした。


 とっさに、そちらを見る。


 シェリーは、私の顔を見たまま止まっていた。

 ナイフとフォークを持つ手が、机の上でほんの一拍だけ抜けている。

 淡い青の瞳の焦点が、私の顔より少し奥の、どこかに向いていた。


 シェリーはすぐ、いつものきりりとした顔に戻った。

 慌てたように、目を皿に落とす。

 ナイフとフォークを、丁寧な作法のままに動かしはじめた。


 その整った作法の中に、わずかな力みが残っていた。

 それも、私の席からは、ほとんど見えなかった。



 夫人の前のオムレツが、まだ皿の上で私を待っていた。


 もう、手は止められなかった。

 スプーンの縁で、ふっくらした表面を切る。

 中から、半熟の黄色がとろりと溢れた。


 一切れを、口に運ぶ。


 ——美味しい。


 舌の上で、卵の柔らかさがほどける。

 口の奥に、塩気と、何か香草の温度が混じった。


 左手が、自然と頬の脇に添えられた。

 口の端の笑みを、もう止められない。


 夫人が、声を立てて笑った。


「ふふ……あらあら」


 その笑い声が、机の上に軽く響く。


「リディアさん、お顔に出過ぎですよ」


 夫人の手元の扇は、今は膝の上に閉じたまま置かれていた。

 家の食卓では、夫人は扇を顔の前に置かないらしい。


「こんなに喜んでいただけて、嬉しいわ。

 今朝はいつもより、腕によりをかけてみたのよ」


 スプーンを握った手が、一瞬止まった。


 ——いつもより、腕によりを。


 昨日の、男爵の話を思い出す。

 売れる家財は、売った。

 領民がぎりぎり立っていられる土のために、魔石をつないだ。

 その、十年。


 その十年の食卓に、今、私のために、いつもより何かが加えられていた。


 思わず、シェリーの方を見た。


 シェリーは、ちょうどチーズを切り分けようとしていた。

 私の視線に気づくと、すっと目を逸らす。

 昨日、応接の間で平手を振った白銀の鎧の少女と、同じ顔とは、今も思えなかった。



「リディアさん」


 夫人が、もう一度声をかけてきた。


「お時間がある時に、私と、一緒に、お料理を作りませんこと?」


 私は目を上げた。


「私が、料理を、ですか?」


「そうよ」


 夫人の声に、軽い誘いの温度が混じる。


「白麦のパンの捏《こ》ね方も、お教えするわ。

 オムレツの火加減の見方も。

 チーズの上に、ハーブをひとつまみ足すと、また別の味になるの。

 お味の組み立ては、何通りもあるのよ」


 胸の奥で、何かがぱっと明るくなった。


 王城のどの本にも——

「お味の組み立て」という言葉は、書かれていなかった。


 口の端の甘さ。

 舌の上の塩気。

 奥歯の苦味。

 それらが、何通りにも組み合わさる。

 それが「お味」と呼ばれるものになる。


「はい」


 私は頷いた。

 その声が、自分でも思ったより弾んでいた。


「お願い、いたします」



 朝食が終わった。


 ナプキンで、口元を軽く押さえる。

 シェリーは、まだこちらをちらちら見ている気がした。

 けれど目が合うと、すぐ別の方へ逃げてしまう。


「さて、リディア」


 男爵が、椅子から立ち上がった。


「食後で申し訳ないが——

 執務室の方へ、来てもらえるかな。

 今後の話を、もう少し詰めたい」


「はい」


 私も立ち上がった。


 立ち上がった、その瞬間。


 ——え。


 目の前に、夫人が立っていた。

 ほんの一瞬前まで、机の向こうに座っていたはずなのに。

 扇の白いレースが、私の胸元から、ほんの数寸の距離にある。


「やっぱり、思った通り、ぴったりだわ」


 夫人の手が、私の肩の縫い目を軽く撫でた。

 もう一方の手が、腰の帯の結び目に触れる。

 桜色がかった灰色の肩の落ち方を、指でたしかめるように辿った。


「うん。次のお衣装も、私がお選びするわね」


 その声は、弾んでいた。

 家の中の夫人の声だ。


「もう、本当に——

 娘がもう一人増えたみたいで、嬉しいわ。

 これから、たくさん、お教えするわね。

 お衣装の合わせ方。

 お辞儀の角度。

 お茶の温度の見立て方——」


「お母様!」


 机の脇から、シェリーの声が上がった。


 思わず、そちらを見る。

 シェリーの白銀の睫毛の根が、わずかに震えていた。

 それは、昨日の平手の時の震えとは、別の種類のものだった。


「あら」


 夫人が、肩越しにシェリーを振り返る。


「あなたの代わりに、私がリディアちゃんと一緒にいても、いいのよ?」


「お、お母様……!」


 シェリーの白い頬が、わずかに桜色に染まった。


 それを見て、夫人は扇の縁を口元に寄せた。

 扇の向こうで、目尻が深くゆるんでいる。


「……ふふ」


「そこまでに、しないか」


 スミス男爵の、低い、ため息のような声が落ちた。


「リディアも困っておるぞ」


 その声に、昨日の応接の間の凄みは無かった。

 あるのは——長年、妻と娘のこの掛け合いを脇で見続けてきた者の、深い呆れだった。


 夫人が、ようやく私の肩から手を引いた。

 それでも最後の一瞬まで、肩の縫い目を名残惜しそうに撫でていく。


「はい、はい」


 夫人の声は、まだ弾んでいた。


「リディアちゃん、後でまた、お話、しましょうね」


 私は、ようやく息を吐いた。


 頬が、すっかり熱くなっている。


 胸の中には——

 甘い白麦のパン。

 体に染みた雑穀のスープ。

 癖になるチーズの匂い。

 鮮やかな黄色のオムレツ。

 そして、夫人の指の温度。


 その何もかもが、まだ新しい輝きのまま残っていた。


 私はベガと男爵に、軽く頭を下げた。


 そして、弾むような夫人の視線に見送られながら、食堂の扉へ歩き出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。