第20話 嘆願の束
食堂の扉が、背中で閉まった。
夫人のはずむような気配が、ようやく私の背中から離れていく。
頬の熱は、まだ引かない。
左の肩のあたりに、夫人の指がレースの縫い目をなぞった温度が、まだ少しだけ残っていた。
男爵様が、廊下を先に歩く。
私は、その三歩うしろをついていった。
裾の長い、暗い紺色の上着。
その背中の縫い目が、薄暗い廊下の光の中を、まっすぐ私の目の高さに走っている。
廊下の壁には、古い肖像画が何枚もかかっていた。
スミス男爵家の、昔の当主たちだ。
みんな、しみ一つない、なめらかな顔をしている。
貴族の若さを、保ったままの顔。
今の男爵様だけが、その並びから外れていた。
顔のつくりは、たしかに同じ血を引いている。
眉の濃さ。鼻すじの通り方。あごの形。
でも、頬の張りと、首もとの肌だけが、壁の中の誰とも違っていた。
男爵様が、廊下のとちゅうで足を止めた。
重い樫の扉の前だった。
「ここだ」
短く言って、銀の取っ手をにぎる。
みがき込まれた取っ手には、こすれた跡がうっすら残っていた。
この扉が、何代分も開かれ続けてきた証だ。
扉が開いた。
執務室は、思っていたよりずっと簡素だった。
正面に、幅の広い樫の机。
その上に、書類の束がきちんと積まれている。
わきには、銀の燭台。
机のうしろの壁には、家紋を織り込んだ紺色の布が、一枚だけ垂れていた。
右の壁には、天井近くまで本棚が組まれている。
でも、三段ほどが半分、空っぽだった。
本の背は、左ほど新しくつやがあり、右へ行くほど古びている。
最近、何冊か売ったのだろう。
「お掛けください」
男爵様が、机の前の革ばりの椅子をすすめた。
私は、ゆっくりと腰を下ろした。
男爵様も、自分の椅子にすわる。
机をはさんで、二人で向かい合った。
男爵様は、しばらく何も言わなかった。
机の上で、片方の指が、もう片方の指の関節をなぞっている。
やがて、その指が止まった。
「リディア殿。一つ、お聞きしたい」
低い声だった。
「五人の子を産んだ親は、そのあとの魔力の奉仕を免除する。
昨日お話しした、この領地の決まりのことです」
魔力の奉仕。
平民が、自分の魔力を貴族に差し出すこと。
その魔力は、命そのものに近い。
差し出しすぎれば、若い体は、あっという間に老いてしまう。
「はい」
「あれを、リディア殿はどうお考えになりますか」
私の頭に、おとといの景色がよみがえった。
村の入り口で、兵士から聞いた話だ。
家の前のベンチにすわっていた男。
柑橘の匂いのする宿屋。
十二歳の少女の、健康そうな頬の色。
その反対の景色も、いっしょに浮かぶ。
王様が直接おさめる土地の、人のいなくなった村。
道ばたにすわり込んだ、二十歳の老人。
地面に置かれたまま、もう握り直す力もない鍬。
二つの景色が、別々の温度になって、胸の中に並んでいた。
「王の直轄地の、人のいなくなった村とくらべれば」
私は、ゆっくりと口を開いた。
「この領地には、人の暮らしの温かさが、たしかに残っていました」
そこで一度、言葉を選んだ。
「ただ、昨日、男爵様ご自身が『うまくいかなかった』とおっしゃいました。
あの一言が、ずっと頭のすみに残っています」
男爵様の眉が、わずかに動いた。
「この決まりは、奉仕で命を削られていく人の数を、生まれる側でおぎなおうとなさったもの。
私は、そう読みました。
減っていく一方の人を、新しく生まれる子で支え直す。
考え方の筋としては、わかります」
私は、机の上の男爵様の目を、まっすぐ見た。
「私が王城で組み立てていた政策にも、似た筋がありました。
奉仕を減らすことと、子を産み育てる家を助けること。
その二つを、両方の車輪として進める。
ねらう方向は、近いと思います。
……ただ、その筋が、実際の土地の上でどう動いたのか。
それを、私はまだ知りません」
男爵様は、しばらく私の目を見ていた。
「ふむ……」
低い声だった。
「筋は、いまおっしゃった通りです。
生まれる子で、人の数を支え直す。それをねらいました」
男爵様は、一拍おいた。
「ですが、その筋が、土の上で何を起こしたのか。
それを、これからお見せしたい」
男爵様が、机の引き出しに手をのばした。
かわいた音を立てて、引き出しが開く。
両手が、中から紙の束を取り出した。
机の上に、どさり、と低い音が落ちる。
私は、息をのんだ。
束は、思っていたよりずっと厚い。
こぶしほどの高さがあった。
はしから見える紙の色は、新しい白から、年季の入った薄茶まで、何層にも混じっている。
何年分も積み重なった束だった。
「これは」
男爵様の声は、たんたんとしていた。
「五人の決まりを作ってから、村々を回った兵士たちが、領民の声を書き取って上げてきたものです。
この領地に、教会はありません。
字を書ける者も、少ない。
だから、訴えのほとんどは、兵士が口で聞いて、紙に写したのです」
男爵様は、束の上に手のひらを置いた。
「一通ずつ、目を通していただきたい」
男爵様は、束の一番上の一枚を取り上げた。
紙のふちは、誰かが何度もにぎり直したらしく、わずかにしわがついている。
「まず、これを」
私は、両手で受け取った。
文字は、兵士の手によるものらしく、整っていた。
でも行の頭に、小さな書きそえがある。
『村の北、製粉小屋のうら。本人は字を書けぬゆえ、申された言葉のまま書き取り候』
その下に、母親の言葉が、そのまま並んでいた。
『四人の子を産みました。
もう産めません。腹の中がこわれてしまったと、産婆さまが言いました。
来年からまた、魔力の奉仕が始まります。
夫は、家を出ていきました。奉仕の免除をもらえぬ家には戻らぬ、と。
子供たちは、いちばん上が五つ、いちばん下が一つになります。
わたしが奉仕に出ているあいだ、子供たちを誰にあずければよいのでしょうか。
わたしが奉仕でねこんだら、子供たちは誰に食事をもらえばよいのでしょうか。
路頭に迷います。どうかお教えください』
私の指が、紙のふちの上で止まった。
宿屋の十二歳の少女の、健康そうな頬の色が、頭をよぎる。
あの少女の、となりの村に、こんな母親がいたのか。
「つまり」
男爵様の声が、机の向こうから、静かに置かれた。
「五人に達しないまま、産めない体になってしまった母がいる、ということです。
四人を産むだけでも、平民の体には、限界に近い。
その先の五人目で、体はしばしば、こわれます。
こわれたあとの暮らしを、決まりの側は、見ていませんでした」
私は、紙をもう一度、持ち直した。
決まりの側は、見ていなかった。
その一言が、しばらく、胸の中で宙にういていた。
「次に、これを」
男爵様が、もう一枚をぬいた。
今度の紙も、同じ兵士の手だった。
でも行と行のあいだに、ところどころ、書き手が一度ペンを止めたような、わずかなにじみがある。
私は、受け取った。
『三人産みました。ですが、もう二年、子ができません。
夫は、早く五人目を産めと言います。産まねば、自分の家系は奉仕の免除をもらえぬ、と。
夜になると、夫はわたしを叩きます。壁の方へ押しつけます。
腕の骨が、一度折れました。
夫は何もしないのに、なぜ女ばかり、こんなに辛い目にあわねばならぬのでしょうか』
私の目の奥が、熱を持った。
椅子の革のふちを、知らないうちに、指の腹で押している。
奥歯を、強くかんだ。
「……これは」
私は、自分でも思いがけず、声を出していた。
「この決まりは、五人目を産むよう、家に求めています。
けれど、求める側――夫の側への定めが、どこにもありません。
免除という、ごほうびだけを置いて。
それを誰が、どう取りに行くかは、家の中の力まかせにしている」
男爵様が、わずかに目を上げた。
「お続けください」
「ごほうびを一つ置けば、それをうばい合う力は、いちばん弱い者へ向かいます。
この家では、それが、妻の腕の骨でした」
私の声が、最後の一語で、少しかすれた。
「私は、半年かけて条文を書きました。
どの行にも、夜の家の中で『もう一人産め』とせまられる側の温度は、書き込んでいませんでした」
男爵様は、しばらくだまって、私を見ていた。
「その通りです」
低い声だった。
「文の上では、ただ『もう一人産んでいただきたい』と願うだけ。
その『ただそれだけ』が、夜の家で何に変わるかを、私も、書くときに考えておりませんでした」
「次に」
男爵様が、別の一枚をぬいた。
文字は、最初の二通より整っていて、迷いがない。
「これは、兵士自身からの訴えです」
私は、受け取った。
『兵士より、申し上げます。
村の木工職人ホークは、独り身でございます。
ですが、街道で身寄りをなくした孤児を、五人引き取って育てております。
ホーク自身は、五人の本当の父ではないため、奉仕の免除を受けられません。
いまも奉仕に出ております。このまま続ければ、ホークは遠からず命を落とします。
そのとき、五人の孤児は、もう一度、路頭に迷います。
どうか、ご一考を』
私は、紙をしばらく、目でたどった。
血のつながりがない。
その一言が、頭の中で、ゆっくりところがる。
条文には「五人を産んだ親には、奉仕を免除する」とあった。
「親」と「産んだ」が、つながっていた。
産んでいないが、五人を育てている者の居場所は、そこにない。
「乳をあたえ、布をかえ、熱をはかり、抱き上げ、語りかける」
私は、低く口にした。
「子が育つために要る手間は、産んだだけでは終わりません。
その手間を五人分、果たしているのが、ホーク殿です。
なのに条文の中では、ただの独り身の男でしかない」
それは、評議の場で、私が貴族たちに向けて言った一節そのものだった。
でも、その言葉は、いま、ホークの暮らしの中で、誰にも届いていなかった。
「『産む』と『育てる』が、決まりの中で、別物に分かれてしまったのです」
男爵様が、私の言葉を引き取った。
「いま、ご自分でおっしゃった通りに」
「次に、これを」
男爵様が、もう一枚を取った。
整った文字の中に、書き手の怒りの名残のような、強い筆の跡が、わずかに混じっている。
「となり村からの通報を、兵士が書きとめたものです」
『通報いたします。
村長の娘は、街道で孤児を何人か引き取っております。
ですが戸籍の上では、自分が産んだと届けております。そうして、奉仕の免除を受けております。
また、村長の娘とのこんいんを望む男には、たくさんの銀貨を要求します。
応じた男には、書類の上だけの、夫の席をあたえます。
その男もまた、書類の上で、奉仕の免除を受けます』
私の指が、紙のふちで止まった。
孤児を引き取った、村長の娘。
もう一つ前の、孤児を引き取った木工職人ホーク。
二人は、同じことをしている。
でも一人は、街道で奉仕を続けながら、死へ向かっている。
もう一人は、戸籍をいつわって免除を受け、夫の席を、銀貨で売っている。
その差を分けたものは、何か。
「……戸籍簿の、書きつけの形だけです」
私は、自分の出した答えに、少し息をのんだ。
「同じ行いが、片や聖人、片やぺてん師になる。
それを分けているのが、戸籍の上の形だけだとすれば。
この決まりは、形しか見ていません。
形を整えた者にごほうびが出て、整えない者は、より良いことをしていても、こぼれ落ちる」
私は、顔を上げた。
「ならば、急ぐべきは、戸籍の整えなおしです。
誰が親なのか。誰が、この子を育てているのか。
生まれと、引き取りと、育てを、どう帳簿に刻むのか。
そこがゆるいままでは、この決まりは、正直者から順に、殺していきます」
男爵様の目が、わずかに見開かれた。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「……十年、私が言葉にできずにいたことを、いま、一息でおっしゃった」
「次に、これを」
男爵様が、もう一枚をぬいた。
今度の紙は、小さい。
書きとめた兵士の筆が、ところどころ強く押しつけられて、紙の繊維がささくれている。
『通報いたします。
となりの家のアンジェラは、子を五人産みました。ですが、育てておりません。
ほうっております。二人は、うえて死にました。
残りの子が、いまどこにいるのか、誰も知りません。
孤児の宿にあずけられたのか、街道に出されたのか、それもわかりません。
ですがアンジェラ本人は、奉仕の免除のもとで、何不自由なく暮らしております』
私は、目をふせた。
机の上の紙が、わずかににじむ。
頬を一筋、温いものがすべった。
落ちる前に、もう片方の手で、そっとおさえる。
紙に、しみを作らないためだった。
男爵様は、何も言わなかった。
すぐには「つまり」を置かなかった。
部屋の中で、しばらく、誰も口を開かない。
やがて、男爵様が低く言った。
「子が、親の命を延ばすための手立てに、なり果てた」
それだけだった。
私の胸の奥で、評議の場の、自分の声がもどってくる。
「子は、国の根である」と、私は書いた。
その「国の根」が、アンジェラのとなりの家で、二人、うえて死んでいた。
男爵様は、束の表面に、手のひらを置いた。
「これらのほかにも、まだ答えを出せずにいる問いがあります」
低い声が続いた。
「産まれた子が、大人になる前に亡くなった場合。
その免除を、続けるべきか、止めるべきか。
育てる手間も、母の体への負担も、五人に達した時点で、もう払われている。
けれど、その五人が、いまは生きていない。
止めれば、子をなくした母に、二重の追い打ちになる。
止めねば、五人を産んだだけで、子がすぐ亡くなっても、一生の免除になる」
男爵様は、机の上で、指を組み直した。
「私は十年、この問いに、答えを持てずにおります」
私は、うなずくしかなかった。
「そして、これは紙にはありません」
男爵様は、束から手を引いた。
その手が、机の上で、わずかに宙にうく。
「昨年、ある村で、実際に起きたことです」
男爵様は、私の目を見なかった。
机の上の、何もない一点を見ていた。
「ある母が、四人を産んで、五人目で体をこわしました。
もう自分では産めない。
夫からは、五人目を求める声が止まらぬ。
奉仕の免除も、近く消えようとしていた」
男爵様の、指の関節が、机の上で白くなった。
「その家の、上の娘が、まだ十四でした」
私は、息をのんだ。
「娘が、母の代わりに子を産むと、申し出ました。
戸籍の上では、母の五人目の子として、届ける。
それで母の免除を、家でつなぐ。
そういう申し出でした」
部屋の空気が、密度を変えた。
「娘は、お産で亡くなりました」
男爵様の声は、最後までふるえなかった。
でも、机の上の指は、白いまま、もどらない。
私は、深く目をふせた。
十四。
その数字が、宿屋の十二歳の少女の頬の色とつながる。
あの少女と、二つちがい。
あの少女の、二年後の体。
その腹の中に、母の代わりの子。
胸の奥で、何かが、深くしずんだ。
でも、私はそこで、もう一度、顔を上げた。
「……決まりが、人を殺しました」
声は低かったけれど、ゆれていなかった。
「十四の娘の子を、母の五人目として、帳簿に書ける。
そのゆるさがあったから、家は、娘の体に手をのばせた。
戸籍の決まりがしっかりしていれば、この申し出は、最初から成り立たなかった」
私は、束の上に、そっと手を置いた。
「免除を、何に結びつけるのか。
産んだ数か。育てている事実か。
そして、それを誰が、どう確かめるのか。
そこを定めないまま、ごほうびだけを置けば、いつか、ゆがんだ事実があらわれます。
さっきの妻の腕も、この娘の命も、同じ決まりの欠けたところから、こぼれ落ちました」
男爵様は、長く私を見ていた。
「……その穴をふさぐ手立ては、おありか」
「すぐには。
ですが、ふさぐべき穴のありかは、いま、はっきり見えました」
私は答えた。
「考えます。今日からでも」
机の上に、紙が何枚も並んでいた。
そのとなりに、まだこぶしほどの束が、残っている。
「もう一つ、お伝えしておかねばなりません」
男爵様が、ゆっくりと続けた。
「この領地の平均の寿命は、王の直轄地のころより、のびました。
男はおよそ三十、女はおよそ二十八。
国全体の数字を思えば、たしかに、のびたのです」
私は、自分が書き写してきた、死亡の帳簿の数字を思いうかべた。
国のほかの土地では、男が十八、女が二十二か三。
女のほうが、五年ほど長い。
それが、過去十年の、ゆるやかな線だった。
「ですが」
男爵様の声が、低くなった。
「国のどこでも、女は男より、長く生きます。
リディア殿が写された帳簿でも、そうでありましたな」
「はい」
「この領地では、それが、逆になりました。
のびはした。けれど、女だけが、のびそびれた」
男爵様は、一拍おいた。
「私の組んだ決まりが、村全体をそこ上げしながら、女の体だけを、よけいに削っている。
そういうことです」
部屋の中で、しばらく、誰も口を開かなかった。
机のわきの、銀の燭台に、火は入っていない。
でも台座のふちの彫りのかげが、机の上に、わずかにのびていた。
窓の外の光は、いつのまにか、角度を変えていた。
「リディア殿」
男爵様が、ようやく口を開いた。
「私は、リディア殿を責めるために、これをお見せしたのではありません」
机の上で、指を組み直す。
「むしろ、逆です。
ロディエット様が所信表明でお示しになった政策は、大きな筋として、間違っていない。
私はいまも、そう確信しております。
だからこそ、その筋を、土の上に降ろしたときに、どんな形で組まねばならぬのか。
何が起こり得るのか。
それを、まずここで、見ていただきたかった」
男爵様は、束の上に、もう一度、手のひらを置いた。
「いますぐ答えを出していただく必要は、ありません。
幾日でも、幾月でも、お使いください」
「承知いたしました」
私の声は、思ったより低く出た。
「私の政策にも、通じるものがあります。……考えます」
「ありがとうございます」
男爵様は、ゆっくりと頭を下げた。
「向こうの机を、お使いください」
部屋の左すみの、小ぶりの机を、目で示す。
「あれは、私がまだ書記であったころに使っていた机です。
お役に立てれば、うれしい」
私はうなずき、椅子から立ち上がった。
机の上の紙と、残りの束を、両手でかかえ上げる。
重かった。
その重さが、両腕の中に、ずしりと降りた。
部屋の左すみの机の前に、私は腰を下ろした。
天板のふちに、指の腹が、軽くふれる。
つやを失った木の感触が、届いた。
若い書記のころの男爵様が、紙の角を、何百回、何千回と、このふちにこすりつけてきた。
その時間の感触だった。
束の中から、まだ男爵様がぬかなかった一枚を、手に取った。
それも、別の村の母の声だった。
文字の重さは、さっきの五通と、同じ温度を持っている。
最後まで読み、次の一枚をめくる。
そのまた次も。
どの紙の上にも、生きた声があった。
責めるための文字でも、計算するための文字でもない。
ただ、いまそこに生きている者が、領主の机の上に、自分の生のかたちを置こうとした。
その声だった。
目をつぶりたくなった。
でも、つぶらなかった。
責めを、自分の机の上で受けるのが、上に立つ者の仕事だ。
私は、自分の中で、もう一度たしかめた。
評議の場で、百を数える貴族たちの前で声を上げた、あの宣告の責の重さ。
その一たんが、いま、両腕の中の束の重みとして、机の上に置かれていた。
「リディア殿」
ふと、正面の机の方から、男爵様の声がかかった。
「あまり根を、つめられぬよう」
私は、顔を上げた。
男爵様は、自分の机で、別の書類に目を通していた。
その視線が、ふと、窓の方を向く。
「日が、もう天頂を過ぎております。
そろそろ、ベガとの修練の時間です」
私は、窓の外を見た。
朝の高い光は、すでに屋根の上をこえている。
庭の木々のかげが、足もとの方へ、短くちぢんでいた。
午前の時間が、知らないうちに過ぎていた。
「……はい」
私は、束の上に、両手をそっと置いた。
「続きは、また明日、読ませていただきます」
「お待ちしております」
男爵様が、軽く頭を下げた。
私は、立ち上がった。
両腕の中の重さは、もうない。
束は、机の上に置いたままだった。
でも、その重さは、すでに、胸の奥に降りていた。
廊下を、自分の部屋の方へ、もどった。
足取りは、執務室へ向かうときとは、別の温度だった。
重いというのとも、ちがう。
ただ、一歩ごとに、板ばりの床の感触を、いつもよりはっきりと拾っていた。
この板の一枚一枚も、誰かがけずって貼ったものだ。
けずった者は、いまも生きているのか。
それとも、もう帳簿の上の、数字になっているのか。
廊下の壁の、しみ一つない先祖たちの顔の前を、通り過ぎた。
自分の部屋の扉を開けると、机の上に、たたまれた服が、もう一そろい置かれていた。
桜色がかった灰色の長衣とは、明らかに別の形のものだ。
私は、ゆっくり近づいた。
深い緑がかった灰色の、丈夫な上着。
襟はつまり、袖口は手首でしまっている。
体に沿った形の、長いズボン。
腰には、細い革のベルト。
腿の縫い目には、馬具や訓練でこすれても傷まないよう、厚手の布が二重に縫い込まれていた。
乗馬の服に、近い。
でも、そのものではなかった。
その骨組みをもとに、女性の体の動きやすさを、優先して仕立て直されている。
肩の縫い目には、腕を上げても突っ張らないよう、わずかな工夫があった。
机のわきに、小さな白い紙が、そえられていた。
『リディアさん
訓練の日のために、お直しいたしました。
動きにくいところがありましたら、すぐにお申しつけください。
直しは、何度でもいたします。
――夫人』
私は、紙の上の「夫人」の二文字を、しばらく見つめた。
朝食の机の向こうで、扇を口もとによせ、目じりをゆるめていた夫人の姿が浮かぶ。
「腕によりをかけてみたのよ」と言った声。
その同じ人が、私が執務室で、兵士たちの声に向き合っていたあいだに。
動きやすい服を選び、手を入れて、ここに置いていた。
私の目の奥が、もう一度、熱を持った。
私は、長衣の襟もとの、レースの結び目をほどいた。
肩から、長衣がすべり落ちる。
深い緑がかった灰色の上着に、袖を通した。
リネンより、厚みのある布だった。
肌に当たる感触が、長衣のレースとは、別の温度を持っている。
腰の革のベルトを、前で結ぶ。
思ったより、しなやかに腰へ沿った。
最後に、底の厚い編み上げの靴に足を入れ、甲の上で、ひもを結ぶ。
ゆっくりと、立ち上がった。
足もとが、たしかだった。
腰の動きも、肩の動きも、これまでの修道服や長衣では得られなかった種類の自由を、私にあたえてくれていた。
午後は、ベガとの訓練だ。
執務室の机に置いてきた、束の重み。
それは、まだ胸の奥に、降りたままだった。
でも、いまから始まる午後の時間は、別の場所で、別の重さを、私に求めて待っていた。
私は、扉の取っ手に、手をのばした。




