第21話 紋章《もんしょう》
第21話 紋章
男爵邸の庭は、屋敷の裏手に深く広がっていた。 午後の日は、もう屋根の上を越えていた。
私は執務室を出て、自分の部屋で着替えた。夫人が手を入れてくれた乗馬服だ。
執務室の机に置いてきた、平民たちの嘆願書の束。 あの紙の重さが、まだ胸の奥に残っていた。
その奥に、訓練場がある。石畳が途切れた先に、固く踏み固められた土の広場が見えた。地面には、何代もの人が足を運んだ跡が、薄く重なっている。
そこに、ベガ様とシェリーが立っていた。
ベガ様は、いつも通りだった。胸元の銀の鎖の先に、紫の魔石が下がっている。半分はローブの中に隠れていた。
その横、少し離れた場所に、シェリーがいた。
長剣はまだ鞘の中。腰の左に下げたままだ。
私は、石畳のふちで足を止めた。
シェリーの方を見ようとして……結局、見られなかった。
目のはしに、シェリーの白銀のまつげが、ちらりと映る。
何を言えばいいのか、分からなかった。
——こういう時、私はどうすればいい。
私は王城で、たくさんの本を読んだ。
けれど、こんな時の振る舞い方は、どの本にも書いていなかった。
父と、母と、書類の山。評議の場に並ぶ貴族たち。
私が知っている人の輪は、それで全部だった。
同じ年ごろの少女と、どう向き合えばいいのか。
……私には、見当もつかなかった。
「よろしくお願いします」
やっと、それだけを口にした。
ベガ様に向かって、頭を下げる。
その時、私の右のうしろで、空気が動いた。
シェリーが、半歩、私のとなりに並んでいた。
そして、私と同じように、深く頭を下げた。
私は、体がかたくなった。
「今日は」
ベガ様の、かすれた声が落ちてきた。
「リディアの訓練を中心に行う」
私は顔を上げた。となりで、シェリーも顔を上げる。
「シェリーは身体強化を入れたまま、型を十まで。一刻のうちに終えること」
「はい!」
シェリーの返事は、よく通った。
六年前。
「ロディエット様は、わたしがお守りいたします」
あの時、十二歳だったシェリーの、まっすぐな声。
その張りが、十八になった今の声にも、まだ残っていた。
シェリーは、私の方を見なかった。
くるりと、踵を返す。
鎧の留め金が、小さく金属の音を立てた。
シェリーは、訓練場の北のすみへ、まっすぐ歩いていった。
北のすみで、シェリーは立ち止まった。
鞘の留め金を指で外し、ゆっくりと長剣を抜く。
両手で柄をにぎり、剣の先を、まっすぐ上に立てた。
本で読んだ、いちばん初歩の構え。
……けれど、シェリーはその姿のまま、数秒、動かなかった。
やがて、剣の先が、ゆっくりと前に傾きはじめた。
私は、思わず目をまたたかせた。
——遅い。
普通の剣士の動きとは、まるで違う。
いや、普通の人間の動きですら、なかった。
身体強化というのは、自分の魔力を体に流して、爆発するような力を出す技のはずだ。
一瞬を、何倍にも速くする。
なのに今、シェリーがやっているのは、その逆だった。
ひとつの動きを、何倍もの長さに引きのばしている。
「爆発する力を出すための身体強化を」
となりで、ベガ様の声がした。
「あえて、ゆっくりとやる。
そうすると、魔力を体のすみずみへ細かく分け、なめらかに流す。
その技術の全部が、一度に必要になる」
剣の先が、私の目の前で、ようやく水平の高さに届いた。
庭を渡る風は、まだ冷たい。
すみの松の、つんとした匂いが、鼻に届く。
その中で、シェリーの白い額には、もうはっきりと汗の粒が浮いていた。
私の胸の奥が、すっと沈んだ。
「さて」
ベガ様が、ローブの内側から杖を引き出した。
先の紫の魔石は、まだ光っていない。
その杖の先を、ベガ様は私の方へ、軽く向けた。
「昨日、私の解析の魔術を避けた。
その理由を、聞かせてもらおうか」
ベガ様の目には、別の温度があった。
応接の場で深紅の魔石に夢中になっていた時とは、違う。
こちらを、見定めようとする目だ。
私は口を開いた。
……そして、一度、閉じた。
——どこまで、話すべきか。
応接の場で、男爵は私を「家族として」引き受ける、と言ってくれた。
家族と言ってくれた人の前で、何もできずに黙っている。
それは、もう、私にはできなかった。
でも、全部を話していいかは、別の話だ。
——紋章のことだけ。
紋章が見える、ということだけにしよう。
人の指から流れこんでくる、その人の一生の記憶のこと。
応接の場のあとで見た、若いベガ様の夢のこと。
それは、まだ自分の中にしまっておく。
そう決めた。
「紋章が、見えたのです」
私は、それだけを言った。
ベガ様の片方の眉の根が、わずかに動いた。
「紋章というものは」
ベガ様の声は、低かった。
「目で見えるものでは、ない」
その声に、初めて、はっきりとした拒みの色があった。
「紋章は、術者の頭の中で組み上がるものだ。
そこから魔術が、手のひらの外に立ち上がる。
目に見えるものではない。
せいぜい、空気の濃さがほんの少し変わるのを、肌で測る。
それが、熟達した者の感じ方の限界だ。
魔力になる前の紋章が見えるなど、聞いたことがない」
「私には、見えるのです」
私は、目を伏せずに言った。
「昨日、応接の場で、ベガ様が組まれた紋章も、見えました」
ベガ様の口の中で、乾いた音がした。
その時、訓練場のはしで、何かが動いた。
私の視線が、ふと、そちらへ流れる。
低い石の囲いの上を、白いものが、音もなく歩いていた。
しなやかな、四つ足。
——猫だ。
長い尾の先だけが、歩みに合わせて、左右にゆれている。
歩きながら、猫はちらりと私を見た。
青みがかった、薄い灰色の瞳。
光の中で、澄んでいた。
私の目と、猫の目が合う。
合った、と思った時には、もう猫は前を向いていた。
そして、塀の向こうへ、軽く跳んで消えた。
ベガ様も、そちらへ視線を流していた。
猫が跳んだあとの、空気のゆれの残りを、まだ目で追っている。
「ふむ」
ベガ様は、短くつぶやいた。
「では」
ベガ様は、ようやく私に視線を戻した。
……それでも、目のはしは、まだ塀の方を気にしている。
「昨日、私が最初に組み立てた紋章を、書いて、みせよ」
ベガ様は、ローブの懐から、薄い手帳と細い軸のペンを取り出した。
私はペンを受け取った。
樫の軸の感触が、指の腹に届く。
ペン先を、白い手帳の上におろした。
まず、円。
それから、五角形。
五角形の点から内へ、五本の細い線。
線の交わるところに、小さな印を、ひとつずつ。
その印を結ぶ、もう一段の外の輪。
私の指は、迷わなかった。
書き終えて、私はペンを止めた。
「最初に、この紋章が、私の体のまわりで組み上がろうとしました。
何が起こるのか、その時は分からず……半歩、横へずれました」
私は、次の頁にペンをおろした。
新しい白い頁に、もうひとつ、別の紋章を書く。
最初のものとは、明らかに毛色がちがう形だった。
本で見た、人を縛る紋章とも、調べる紋章とも、根本がちがう。
中心の核から外へ放つ線の置き方に、私の知る基本の形が、ほとんど見えない。
組み立ての順番も、奇妙だった。
線を引きながら、私は、その紋章をなぞった。
ベガ様が組んだ瞬間に、頭の中で見えた、そのままに。
「次に、この紋章が、足元から立ち上がってきました。
今度は、避けられませんでした。
体が、地面に縫いつけられたように、動かなくなって……」
私は、また最初の頁を開いた。
「体が動かなくなったあと、この最初の紋章が、もう一度、私の胸に向かって、薄く扇のように広がりました。
私の中の何かを、ゆっくりと覗きこまれている。
そんな感覚が、ありました」
ベガ様は、長い間、その二つの紋章を目で追っていた。
書き写された線の一本ずつを、頭の中の元の紋章と、照らし合わせていく。
最初の紋章を見る間は、ベガ様の目は、まだ平静だった。
けれど、二つ目の頁を見た瞬間。
ベガ様の背中が、止まった。
手帳を持つ指の関節が、紙のふちを強くはさんだ。
ベガ様は唇を開いた。
……けれど、すぐには声を出さなかった。
「……これは」
やっと出た声は、かすれの中に、別の温度を含んでいた。
「これは、私が組んだ紋章だ」
ベガ様は、紙の上の線を、指の腹で軽くなぞった。
「私が、自分の手で組み上げた、私だけの紋章だ。
本にも書き残していない。
誰にも、見せたことがない」
その声から、拒みの色は、もう消えていた。
代わりに、もっと深い場所から立ちのぼる、別の熱があった。
「魔石を媒介に、紋章の発動と同時に魔力を放つ。 私が十数年かけて組み上げた、高速発動式だ」
ベガ様の目の奥で、何かが、急に動きはじめた。
「昨日の応接の場で、お前さんを逃さぬよう、この術で縛った。
お前さんは、これを、見たのか」
私は、黙ってうなずいた。
ベガ様の指が、手帳のふちから離れた。
その指が、白髪まじりの髪の中に深く入り、かき分けるように、頭の横を強く押さえた。
「待て。
待ってくれ」
ベガ様の声が、急に速くなった。
「組み立て中の紋章が見える、と言ったか。
組み立て中の、だ。
ということは、術者が頭の中で組んでいる、その段階で、もう——」
ベガ様は杖を地面に立て、それを支えにして、もう片方の手で額を押さえた。
「では、ほかの魔術師の組む紋章も、お前さんには見えるということか。
相手の魔法が、形になる前に分かる。
逆に——」
ベガ様の目が、ぱっと上を向いた。
「知らない紋章を組む者に出会った時、お前さんは、それを読み解ける、ということか。
組み立ての順、線の置き方、節の数。
それを目で追えるなら——
その紋章が、何の力を持つのか、組み立ての途中で見抜ける」
私は、答えに迷った。
それは、自分でもまだ、確かめていないことだった。
でも、ベガ様の問いが、私の中に、もう一段、深い問いを掘った。
森の魔術師の紋章を読んだ時。
確かに私は、その力の予感を、組み立ての途中で受け取っていた。
風が集まる。
火が広がる。
形になる前から、頭の中に、「これから起こること」の輪郭が、映っていた。
私は、小さくうなずいた。
「組み立ての途中で、形だけなら……たぶん」
「たぶん、ではない」
ベガ様の声が、私の言葉をさえぎった。
「組み立て中の紋章が見えるなら、その力の予感も、同時に来ているはずだ。
本にも載っていない、古代の紋章——
王立大学の解析部が、百年かけても解けぬ、あの石板の文様にすら、手がかりを得られるかもしれぬ」
ベガ様は、そこで急に口を閉じた。
閉じた口の奥で、深く息を吸う。
それから、ゆっくりと吐いた。
その息の中に、私は初めて見た。
ベガ様の体の、根っこの部分が、震えている。
「すまぬ」
ベガ様は、やっと、それだけを言った。
「老いた頭が、一足飛びに、駆けすぎた」
ベガ様は、杖をにぎり直した。
……けれど、そのにぎりの中で、指は震えていた。
「もう一つ、聞いてよいか」
ベガ様の声は、さっきより少し低くなった。
それでも、目の奥の熱は、引いていない。
「古代の魔石—— 術者の詠唱にも、杖にも頼らず、紋章だけが石の中に焼きつけられた古い石板や碑文。
あれを、お前さんが手に取れば——
あの中の紋章も、お前さんには、見えるか」
私は、答えなかった。
ベガ様は、私の沈黙を、否定とは取らなかった。
「ふむ」
ベガ様は、もう一度、髪の中に指を入れた。
今度はさっきより強く、指は頭の表面をなでた。
「……そうか。
そうかもしれぬのか」
ベガ様は、もう私を見ていなかった。
ベガ様の口の中で、ぶつぶつと、独り言が始まった。
古代解析部の名。
本の題名。
どこかの研究者の名。
聞いたこともない地名。
それらが、ベガ様の口の中で、矢継ぎ早に積み上がっていく。
私は、その止まらない言葉の流れの前で、しばらく動けなかった。
訓練場の北のすみ。
シェリーの剣の先が、ようやく二つ目の型の途中に届こうとしていた。
冷たい風の中で、額の汗の粒は、もう頬のふちまで届きそうだった。
私のとなりで、ベガ様の独り言は、まだ止まらなかった。




