第22話 白猫
第22話 白猫
「あの……」
私は、思いきってベガの独り言をさえぎった。
ベガはさっきから、ひとりでぶつぶつと、何かを呟き続けていた。
「私の、訓練は……」
ベガが、はっと顔を上げた。ひげをなでていた指が、ぴたりと止まる。
「ああ、すまぬ」
ベガは、しわの寄った手で、自分の額を軽く押さえた。
「年寄りの独り言の癖は、こういう時に出てしまうものでな」
ベガは手帳をふところにしまった。
そして、私から数歩はなれた場所に立つ。胸元の紫の魔石が、ローブの中でかすかに揺れた。
「では、リディア。腰のお形見を、お握りなされ」
私の指が、腰に下げた革袋の上で止まる。
中には、王家のスティックが入っていた。父の形見の、あの一本だ。
「魔法は、魔石を媒介にせねば、手のひらの外までは届かぬ。お前さんの内側にあるものを、外まで運んでくれるのは、その握りの魔石ぞ」
私は革袋の口をほどき、王家のスティックを取り出した。
握りには、五つの魔石が並んでいる。藍、白、紫、赤、緑。その上を、日の光がすべっていった。
手のひらの中で、木の握りが、ひんやりとなじむ。
父が一生にぎり続けた、すり減った跡。そこに、私の指がそっと重なった。
「では……」
ベガが、両手をローブの中で軽く広げた。
「私に向かって、火の魔法を撃ってみよ。私の身体には、いつも守りが組んである。怪我などはせぬ。手加減はいらぬ。思いきりやってみなされ」
胸の奥が、きゅっと固くなった。
――火の、魔法。
文書庫で、何度も読んだ、最初の紋章だ。
その頁を、指でなぞったこともある。
でも、自分の手で組み立てたことは、一度も、なかった。
王子だった頃の私は、魔力をほとんど持っていなかった。
それは王城の誰もが、見て見ぬふりをしてきた、ロディエットの「弱さ」だった。
「分かりました」
それでも、私はうなずいた。
ベガの言葉を信じるなら――今の私の身体の中には、何かがある、ということだ。
私は目を閉じた。
頭の中で、入門書の最初の図を組み立てる。
小さな円。円の中の三角形。三角形の頂点から外へのびる、三本の細い線。
その紋章を、ベガの足元の地面に、うすく置いた。
握りのスティックを通して、自分の内側の――まだ感じたこともない何かを、その紋章へ流す。そう、念じる。
胸の奥から何かが、魔石を抜けて、紋章へ流れていく。
……はずだった。
「待て!」
ベガの声が、地面に強く落ちた。
私は目を開ける。
ベガの白い眉が、ぐっと寄っていた。
「リディア。お前さんの魔力は、今、まったく動いておらぬ」
胸の奥が、すとんと落ちた。
ベガの足元には、何も起きていない。握りの五つの魔石も、何ひとつ返してこない。
目の奥に、じわりと熱がにじみそうになる。
王子だった頃と、何も変わっていないのか。
そう思った瞬間、父の形見が、急に重くなった。
「いや、待て」
ベガは、私の目の縁の熱を、すぐに見抜いたらしい。
ローブのふところから、新しいものを取り出した。
握りこぶしの半分ほどの、魔石だった。表面は、みがき上げた琥珀色をしている。胸元の紫の魔石とも、握りの五つとも、明らかにちがう種類のものだった。
ベガが、私の方へ近づく。
「動かぬのではないかもしれぬ。お前さんの中に流れているものが、外へ出る道を、まだ知らぬだけかもしれぬ。その道筋を、外から引いてやれば……」
ベガはその琥珀色の魔石を、私の額のまん中に、そっと当てた。
石のひんやりとした感触が、額の薄い皮膚に届く。
「このまま、魔法を撃つつもりで、もう一度やってみよ」
私はもう一度、目を閉じた。
頭の中に、同じ火の紋章を組み立て直す。
そこへ流す。そう念じた――その瞬間。
額のまん中の魔石から、何かが勢いよく流れこんできた。
それは、私の内側の動きではなかった。
外から、額の皮膚の下を抜けて、こちらへ入ってくる。
細い銀の糸のような流れが、額の奥から首筋を伝い、胸のまん中を抜けて、腹の底まで、一気に降りていった。
その流れの速さが、明らかにおかしい。
私の内側で、まだ眠っていた何かが――その勢いに引っぱられて、深いところから、ぐっと引きずり出された。
「な、なんと」
ベガの声が、すぐ目の前で上がった。
その声は、もう、しわがれた老人の声では、なかった。
ベガの指が、慌てて額の魔石からはなれる。
石は指の間からこぼれ、地面にぽとりと落ちた。琥珀色の表面が、土の上を転がって、止まる。
ベガは、自分の指を、ローブの胸元でこすった。
「これは、魔力を吸い取る魔石なのだ」
ベガが、息を整える。
「外から引いてやるつもりだった。だが――逆に、こちらが、すごい勢いで吸われた」
ベガの指は、震えていた。
「にゃー」
私の口から、その音が出た。
……え。
今の、何。
ベガの動きが、止まる。
「ん?」
ベガが、ローブの胸元から視線を上げた。
私の両足は、まだベガの正面に立っている。
なのに、目の高さが、さっきより低い。
私は、上目づかいに、ベガの白いあごひげを見上げていた。
……どうして。
手のひらの中で、スティックが、いつの間にか、ななめに傾いている。
「にゃー」
また、私の口から、その音が出た。
止めたいのに、止まらない。
まぶたの縁が、なめらかに、もう一段、細くなる。
これは、私の意志じゃない。
「これは……何事ぞ」
ベガの声から、長年かけて身につけた落ち着きが、はがれ落ちた。
ベガが、思わず半歩、後ろへ下がろうとする。
でも――その前に、私の方が、半歩、前へ出ていた。
ちがう。私が、出たんじゃない。
体が、勝手に。
ぺたり、と。
私の手のひらが、ベガのローブの胸元、銀の鎖のあたりに添えられる。
そして、私の頭が、ベガのローブの合わせの中へ、ふっと潜りこんだ。
やめて。
頭の中では、そう叫んでいる。
なのに、首も、手も、言うことを聞かない。
頭の横を、二度。
それから額のまん中を、ベガの胸元の縫い目に、ぐりぐりと押しつける。
――擦りつけている。
私が。この体で。
ベガの両手は、ローブの両脇で、ぴたりと止まったままだった。
「お……おやめなされ」
ベガの口から、ようやく半分だけ、声がもれた。
でも、私の体は、聞いていなかった。
布地に、額を押しつけ続ける。
止まらない。
止められない。
握りのスティックが、その動きに合わせて、手の中でぶらりと揺れた。
*
その時。
北のすみで、シェリーの剣が止まった気配がした。
次の瞬間、かちゃん、と乾いた音がした。
剣が、土の上に落ちる音だった。
あそこで剣を振っていたのは、シェリーだ。
――見られた。
頭の片隅で、そう思った。こんな姿を。
恥ずかしさが、胸の奥で、ぐらりと揺れる。
でも、その時にはもう。
ふっと、頭の力が抜けた。
ベガの胸元に押しつけていた額が、急に重くなる。
膝の関節が、まず緩んだ。
腰のあたりが、すっと、下に沈む。
手の中のスティックが、指の間からこぼれて、ベガの足元の土に、からりと落ちた。
「リディア!」
ベガの声が、遠くで聞こえた。
肩を、内側から受け止められる感覚。
視界の端が、すうっと、暗くなっていく。
頬の片方が、まだ熱い。
呼吸が、浅く、薄く。
「シェリー!」
ベガが、誰かを呼んでいる。
その時にはもう、地面を駆けてくる足音が、こちらへ近づいていた。
シェリーだ。
土の上の鋼の光を、置き去りにして。
――そこで、私の意識は、途切れた。




