第23話 夕暮れ
撫でられている。
頭のてっぺんから、首のうしろへ。
大きな手のひらが、毛なみにそって、ゆっくりすべっていく。
その手が動くたび、喉の奥で何かが勝手に鳴った。
ごろ、ごろ、と。
私の意思とは関係なく、胸の奥が低くふるえていた。
——ああ。
気持ちいい。
もっと撫でてほしい。
この手に、ずっと撫でられていたい。
指先が、耳のうしろのやわらかいくぼみを掻いた。
その瞬間、背骨が内側からとけていくみたいだった。
どこまでが私で、どこからが手のひらなのか。
その境目が、だんだん分からなくなっていく。
あなたの身体は、あたたかい。
布のにおいの奥に、もっと深い、安心するにおいがする。
嗅いでいると、まぶたが重くなる。
眠ってしまいそうなにおいだった。
——ねえ。
今日は、どこにも行かないで。
私を置いていかないで。
ちゃんと、いい子にしているから。
あなたの手が、撫でて、撫でて、また撫でるたび。
背中のうしろ、尻尾の先まで。
じんわりと、うれしさが届いていく。
触りたい。
すりつけたい。
もっと近くにいたい。
——私はもう。
人間でいるよりも。
こうして甘えている、今のほうが——
ずっと、ずっと、しあわせ。
目を覚ますと、寝台の上だった。
最初に見えたのは、天井の木の模様だった。
見おぼえのある、客間の天井。
でも、どうして自分がここにいるのか。
それが頭の中で、うまくつながらない。
私はゆっくり起き上がった。
いつの間にか、うすい桜色がかった灰色の夜着に着替えさせられていた。
乗馬服の硬い襟は、もう首にない。
代わりに、なめらかな布の感触が肩にもどっていた。
掛布のふちを、指でぼんやりとなぞる。
——どうして私は、ここにいるんだろう。
朝、目を覚まして、メイドに着替えを手伝ってもらった。
食堂で、家族と朝食をとった。
そこまでは、覚えている。
その先が、霧の向こうにかすんでいた。
頭の芯に、まだ夢の名残りの熱が、少しだけ残っていた。
大きな手のひら。耳のうしろのくぼみ。喉の奥でないた、あの低いふるえ。
思い出そうとすると、頬の奥がほんのり熱くなる。
私はしばらく、窓のほうをながめた。
窓の外で、空はもう夕方の色をしていた。
朝の高い光は、どこにもない。
レースの白い布をすかして降りてくるのは、赤みをおびた、低くてななめの光だった。
庭の松の影が、窓のふちに長くのびている。
——半日、眠っていたのか。
「大丈夫?」
声が、寝台のわきから聞こえた。
私はそちらを振り向いた。
寝台のそばの椅子に、シェリーが座っていた。
白銀の鎧は、もう着ていない。
簡素な生成りのシャツに、深い色の上着。動きやすい軽装だ。
でも——腰の左には、剣が下げられていた。
軽装になっても、護衛の役目だけは外していなかった。
「あ……うん。大丈夫」
自分でも驚くくらい、声が寝起きでかすれていた。
「……あまり、覚えてないんだ」
シェリーは膝の上で、軽く手を組んだ。
「魔力を、一気に取りこみすぎて混乱したんだろうって。ベガがそう言ってた」
少し目を伏せて、シェリーは続けた。
「あんなに焦ってるベガ、私、初めて見たわよ」
「そう……なんだ」
私は目を伏せた。
それから右手を、ゆっくり顔のほうへ持っていった。
手の甲で、まぶたのふちをくしくしとこする。
眠たさを、はらうつもりの動きだった。
会話は、そこで途切れた。
夕方の赤い光が、窓のレースをすかして、白いシーツの上をゆっくり移っていく。
その光の中で、二人のあいだに、気まずい沈黙が降りていた。
私には、シェリーに聞かなければならないことがあった。
——どうして、あの時、怒ったのか。
応接の場で頬を打たれた、あの一打。
白くふるえていた拳。目のふちでゆれた涙。
「あの演説のせいで」と言いかけて、のみこんだ言葉のつづき。
——どうして、叩かれたのか。
もし、私が何か悪いことをしたのなら。
ちゃんと話し合って、謝りたかった。
政は、暴力だけではない。
評議の場で、千の言葉を浴びながら学んだことの、いちばん根っこにある考えだ。
言葉をつくし、相手の中にある理屈を引き出して、その上で、おたがいが納得できる橋をかける。
それが、政というものだった。
それが分かっているはずなのに。
喉もとまで、言いたいことが出かかっていた。
でも、その一言が、唇の手前で止まっていた。
時間だけが、むなしく過ぎていく。
窓の外で、夕暮れの鳥が、ひと声鳴いた。
それから、もうひと声。
「ごめん」
シェリーが、小さい声で言った。
私はシェリーを見た。
シェリーは、まっすぐに私を見ていた。
「ロディーが正しいことをやってるのは、分かってる」
シェリーの目は、私の目からそれなかった。
うすい青の瞳の中に、夕方の赤い光がにじんでいた。
でもその瞳は、応接の場の時みたいに、私の顔の奥にある「別の顔」を探してはいなかった。
今のシェリーは、私の顔の、まんなかをまっすぐ見ていた。
「あの時、感情のまま叩いてしまって——
本当に、ごめんなさい」
シェリーは椅子から立ち上がった。
そして、深く頭を下げた。
軽装の肩が、夕方の光の中で、まっすぐ前にたおれる。
腰の剣が、その動きに合わせて、わずかにゆれた。
「そんな、頭を下げないで」
私は寝台の上から、慌てて言った。
「私が何か悪いことをしたのなら——
教えてほしい」
掛布のふちを、両手で軽くにぎる。
「この姿になってから——
私は、何も知らなかったんだと、毎日思い知らされてる」
林檎のゆがみ。パンの甘さ。空腹の冷たさ。男爵の頬に、日に日にきざまれていく皺。
書物の上では、ぜんぶ「知っていた」はずのものだった。
でも、知っていた、というのは、こういうことではなかった。
シェリーは頭を上げた。
そして、私の目を見たまま、口を開いたり閉じたりした。
言うべきか、言わざるべきか。
シェリーの中で、何かがせめぎ合っていた。
「ロディーの、演説を聴いて」
シェリーは、やっと口を開いた。
「お父さんが、感動したの」
シェリーの視線が、少しだけ下に伏せられた。
「今までも、領民への魔力奉仕は、減らしてたんだけど」
シェリーの声は、低かった。
「でも、ロディーの演説を聞いてから——
領民の魔力を、まったく受け取らなくなったの」
私の胸の奥が、すっと冷えた。
少しずつ、ではなかった。
身体の様子を見ながら、慎重に、ではなかった。
いきなり、断ち切ったのだ。
「それから」
シェリーは続けた。
「二人とも、一気に老化が進んでいるの」
私の頭に、応接の場で見た男爵の顔が浮かんだ。
首もとの、うすい皺。目じりに残った、笑い皺のあと。
貴族は、平民から魔力を受け取ることで、若い身体を保っている。
その魔力を断てば、断った日から、目に見える速さで老いていく。
新しい法律をまとめながら、私はそれを、何度も読み返したはずだった。
——あれは。
応接の場で、男爵が「最近、何かを変えた」と私が見ぬいた、あの皺。
あの皺の正体は——
私の、演説だったのだ。
「二人は」
シェリーの声が、少しずつふるえ始めた。
「今まで、十分に生きてきたからいいって——
そう、言うの」
膝のわきでにぎられたシェリーの手が、ふるえていた。
「今ね」
シェリーは、ふるえる声のまま続けた。
「領民からの魔力奉仕を減らす制度を、整えながら——
私への、領土の引き継ぎも、進めているの」
私は息をのんだ。
——引き継ぎ。
その一言が、私の胸のまんなかを、つらぬいた。
王城の、評議の間。
玉座にもたれたまま、ゆっくり立ち上がった父の姿。
「本日この場で、王子ロディエットを大法官に任じる」と、感情をのせずに響いた、あの声。
引き継ぎ、とは。
退く者が、次の者へ、すべてを渡し終えること。
そして——退く者が、もう長くはない、ということだった。
父も、そうだった。
そして今、スミス男爵もまた——
娘へ、領土を渡そうとしている。
シェリーの頬を、涙がつたい始めていた。
ひと筋。
それから、もうひと筋。
夕方の赤い光の中で、その涙の筋が、かすかに光った。
私に、責任があるわけではない。
魔力奉仕を断つと決めたのは、男爵自身だった。
領土を娘へ渡すと決めたのも、男爵自身だった。
私はただ、評議の場で、自分が調べたことを述べただけだった。
——でも。
シェリーと両親との別れを、早めてしまったのは。
まちがいなく、私の、あの演説だった。
私は、何も言えなかった。
夕暮れの鳥の声が、また窓の外でひと声、聞こえた。
——こうなることを予想して。
——私は、あの政策を作ったのではないのか。
平民の寿命をうばう奉仕を止めれば。
それを長く受け取ってきた貴族の身体に、その分の老いが、一気に返ってくる。
それは、私が半年かけて書いた草案の、どの行のうらにも、はっきりと書かれていたことだった。
数字の上では。
私は、知っていた。
その数字が指していたものが、今、目の前で涙を流していた。
私の喉の奥が、しめつけられた。
「ごめんなさい」と言いたかった。
言えば、少しは楽になる気がした。
——でも。
ここで謝っては、いけない。
私はそれを、自分の中で強くおさえた。
謝るということは。
あの政策が間違っていた、と認めることだった。
男爵が自分の意思で選んだ、あの誇り高い決断を——
「あなたは間違ったことをした」と、否定することだった。
それだけは、してはならなかった。
私は夕方の光の中で、シェリーの涙を、まっすぐ受け止めた。
受け止めたまま、何も言えなかった。
窓の外で、夕暮れの色が、もう一段、深くなっていた。




