第24話 リディー
「……私は」
私はゆっくりと口を開いた。
「政策を、止めない」
夕方の赤い光の中で、シェリーの肩がぴくりと跳ねた。
その輪郭が、一度こわばる。
シェリーの両親の老いを早めたのは、ほかでもない、この政策だ。
その娘を目の前で泣かせておきながら、私は「止めない」と告げている。
言ってから、その一言の冷たさが、自分の喉の奥に残った。
——でも、嘘じゃない。
「領民の寿命を奪ってまで、貴族が長く生きていいはずがない」
私は続けた。
「それは、今でもそう思ってる」
声は、震えなかった。
シェリーは黙って聞いていた。
頬を濡らしたまま、唇を固く結んで。
それでも、目だけは私から逸らさなかった。
「でも」
私は一度、言葉を止めた。
「だからって、苦しむ人がいてもいいなんて、思ってない」
視線を、少し落とす。
掛布の上の、自分の指が見えた。
評議の場で羊皮紙を握りしめた指。
旅の途中で、林檎のゆがみを辿った指。
「私は、ちゃんと見なきゃいけない」
声が、低くなる。
「この政策で、誰が、どう苦しむのか」
「……ロディー」
シェリーの口から、その名がこぼれた。
「逃げたくない」
静かに、私は言った。
もう一度、シェリーの目を見る。
「私はこれからも、たくさんの人に恨まれると思う」
それは、もう分かっていた。
正しい政策というのは、誰も泣かせずにすむ魔法じゃない。
今まで、誰かの犠牲の上に、静かに成り立っていたもの。
それを止めれば、下に隠れていた別の痛みが、噴き出してくる。
スミス男爵家のお二人の老いは、その最初のひとつだった。
これから先、同じ痛みが、ルクセリアのいくつもの貴族の家で噴き出す。
そして、そのすべての矛先が、私に向く。
「それでも、決めたのは私だから」
私は、まっすぐ前を見た。
沈黙が降りた。
夕方の光が窓のレースを透かして、寝台の上を、もう一段赤く染めた。
その光の中で、私はシェリーをまっすぐ見つめた。
「それこそ——」
シェリーの唇が開いた。
「ロディーだよ」
頬を伝うものを拭おうともせず、シェリーは言った。
「でも——でも、耐えられないよ……」
その声は、もう護衛の声でも、令嬢の声でもなかった。
両親を失おうとしている、一人の娘の、剥き出しの声だった。
私は寝台から足を降ろした。
夜着の裾が足首の上で揺れて、床の冷たさが、素足の裏に届く。
私はシェリーのほうへ一歩近づいて、その手を両手で握った。
シェリーの手は、冷たかった。
握った指の節が、まだこわばっている。
「私を恨んでくれて構わない」
私はシェリーの目を見上げた。
「責任は、すべて私にある。
もし、どうしても耐えられないなら——
護衛の任を解いてくださるよう、私から男爵にお願いする」
シェリーは、握られた手をそのままに、しばらく黙っていた。
頬を濡らした水を、手の甲で一度だけ拭う。
何かを、順番に並べ替えているような。
そんな間だった。
「……頭では、分かってるの」
ようやく、シェリーは口を開いた。
「ロディーが正しいって。この政策が、必要だってことも。
第七区の畑の話も、丘の村の老人の話も——
間違ってないって、頭では、ちゃんと分かってる」
シェリーは一度、唇を結んだ。
「でも、気持ちは、まだ追いつかない」
その声に、嘘はなかった。
「お父様とお母様が、目の前で老いていくのを、平気だなんて言えない。
悔しいし、怖い。それは、たぶん、消えない」
シェリーは、私の目をまっすぐ見た。
「だから、無理に『もう大丈夫』なんて言わない。
気持ちは、気持ちのまま、抱えていく」
そう言って、シェリーは握られていた手を、今度は自分から握り返した。
「その上で——決めた」
「お父様の命令だから、守るんじゃない。
私が、自分で決めて、ロディーの横で、この政策を、最後まで見届ける」
シェリーの口の端が、わずかに引き上がった。
「だから——へたれたり、揺れたりしたら、許さないからね」
泣いたあとの目のまま、シェリーは笑った。
六年前、修練場で「ロディエット様は、わたしがお守りいたします」と言った——
あの十二歳の、まっすぐな顔。
それが今、十八の顔の上に、うっすらと戻っていた。
でも、その奥に硬いものが残っているのも、私には見えた。
胸の奥で、強張っていた何かが、ゆるむ。
「シェリー、ありがとう」
握り返された手を、私はもう一度握り直した。
「全身全霊で、この政策を実現する」
「うん」
シェリーは小さく頷いた。
「その、自信に満ちた目は——やっぱり、ロディーだね」
そう言ってから、シェリーはふと、何かに気付いたように言葉を止めた。
「あっ」
「ロディーって、言ってたけど」
シェリーは、少し目を瞬かせた。
「今は——リディア、だっけ?
そっちで呼んだほうが、いい?」
私は思わず苦笑した。
頬の奥に、まだ夢の名残の熱が、わずかに残っていた。
その熱の上に、別の温度の笑いが、重なる。
「好きなほうで呼んでいいよ」
私は答えた。
「でも——
知り合い以外がいる時は、リディアがいいかな」
「分かった!」
シェリーの顔が、ぱっと明るくなった。
頬には、まださっきの濡れた跡が残っている。
「じゃあ、リディーって呼ぶね。
これなら、これから不自然じゃないよね」
「確かに」
私は頷いた。
ロディーでも、リディアでもない。
リディーという新しい音は、二つの名の、ちょうど真ん中に立っていた。
二人の間に、昔の空気が流れた。
木剣を握った十二歳のシェリーを、私が笑いながら追いかけた——あの頃の温度。
長く二人の間をふさいでいた厚い壁が、すべて消えたわけじゃない。
両親の老いという氷は、まだそこにある。
それでも——その壁に、人ひとりが通れるだけの隙間が、ようやく空いた。
夕方の赤い光が窓のレースを透かして、握り合った二人の手の上に降りていた。
その時、シェリーがふと、扉のほうを見た。
扉がノックされた。
二度。
それから、わずかな間を置いて、もう一度。
扉が、ゆっくりと開く。
入ってきたのは、若いメイドだった。
でも、その顔には、いつもの几帳面な落ち着きがなかった。
息が、わずかに上がっている。
廊下を急いで来た者の、息だった。
「シェリー様、リディア様」
メイドは両手を前に揃えながら、早口で告げた。
「大至急——
男爵様が、お呼びでございます」
私とシェリーの目が合った。
握り合った手が、わずかに強くなる。
夕暮れの赤い光は、もう窓の縁の、ほんの一筋にまで退いていた。




