第25話 荒野の兄弟団
シェリーと、目が合った。
握っていた手に、少しだけ力がこもる。それから、ゆっくりとほどけた。
「大至急で」――さっきのメイドの声が、まだ部屋の中に残っている気がした。
私は寝台から、急いで立ち上がる。夜着の裾が、足首のあたりでひらりと揺れた。
――着替えている時間はない。
壁の掛けにあった上着を、片手でつかむ。桜色がかった灰色の、薄い羽織りだ。
それを夜着の上から、肩にかける。前の紐を結ぶ時間も惜しくて、片手で胸元を押さえただけ。
「行こう」
シェリーが先に、扉へ向かった。腰の剣が、その動きに合わせて低く揺れる。
二人で、夕暮れの廊下を急いだ。
窓の外では、夕日がもう地平線のきわまで沈んでいる。廊下のあちこちで、メイドがランタンに火を入れ始めていた。
橙色の小さな炎が、ガラスの覆いの中で揺れる。その光が、私たちの足の影を、長く伸ばしていた。
朝に見た、斜めにさす明るい光は、もうない。代わりに夜の気配が、廊下の奥から、ゆっくりと満ちてくる。
突き当たりの手前。男爵の執務室の、重い木の扉の前で、私は足を止めた。
胸元の羽織りを、もう一度だけ整える。息を、ゆっくりひとつ吐いた。
扉を、軽く叩く。
「失礼、致します」
部屋の中には、ランタンの灯りがいくつか灯っていた。窓の外は、もう夜の色だ。
机の向こうに、スミス男爵が座っている。そのそばに夫人が立ち、壁ぎわにはベガが、腕を組んで立っていた。
三人とも、難しい顔をしている。
男爵の眉のあいだには、深いしわが寄っていた。夫人の手の扇は、閉じたまま固く握られている。ベガの腕の組み方にも、いつものゆったりした感じがない。
部屋のすみには、メイドが一人、控えていた。
私が一歩、部屋に入る。すると夫人が、こちらを見た。
「あらら」
その声が、張りつめた部屋の空気を、少しだけやわらげる。
「リディア」
夫人は、私の肩の羽織りからのぞく、夜着の白い襟に目を留めた。
「女性が日の暮れてから、殿方のお部屋に夜着でいらしては、いけませんよ」
私の頬が、かっと熱くなる。
「すみません」
私は胸元を、もう一度そっと押さえた。
「緊急、ということでしたので……」
「次からは気をつけてちょうだいね」
夫人の声には、叱る鋭さよりも、母の響きの方が強かった。
「すぐにお着替えできるお召し物も、お部屋に置いておきますからね」
「ありがとうございます」
私は頭を、軽く下げた。
――こんな張りつめた場でも、夫人は私の身なりを気にかけてくれる。
その気づかいが、ほんの一瞬だけ、私の肩の力をほどいてくれた。
私は、机の前まで進んだ。
「急で申し訳ない」
男爵が口を開く。低くて、深い落ち着きのある声。初めて会った応接の場でも、同じ声だった。
「リディアは気を失った、と聞いていたが――もう、大丈夫か」
「はい、大丈夫です」
私はうなずいた。
「シェリーに、ずっと見ていてもらいました」
半歩うしろで、シェリーがすっと背筋を伸ばす。
半日のあいだ、寝台のそばに座り続けてくれた人の、静かな背筋だった。
男爵はそれを見て、少しだけ笑った。目尻のしわが、ランタンの灯りの中で深くなる。
でもその笑みは、すぐに消えた。
男爵が、すみに控えるメイドを見る。
「下がってよい」
メイドは深く頭を下げ、両手を前で揃えて、静かに部屋を出ていった。
扉が、ことり、と閉じる。
男爵は、机の上の一枚の手紙に目を落とした。
四人の視線が、その紙の上に集まる。
「まず、何が起きたのかを説明する」
男爵は紙を見たまま言った。
「我が領地に巣食う盗賊団――『荒野の兄弟団』から、手紙が来た」
そこで、男爵は一度、言葉を切る。
部屋のランタンの炎が、その沈黙の中で、ひとつ、ゆらりと揺れた。
男爵が、低い声で文面を読み始める。
『俺らの兄弟が、シスター二人に殺された。
そのシスターが、スミス領に入ったのを見た。
一人のシスターは、こっちで預かっている。まだ生きている。
無事に返してほしければ、もう一人の黒髪のシスターを連れて来い。
それと、魔石と食料を、馬車一台分。
場所は「風の王座」。
明日、太陽がいちばん高くなる時までに来なければ、まずシスターの指を一本切り落とす。
そのあとは一日ごとに、腕、足と、順番に送ってやる。
それでも来なければ、領民を一人ずつ殺す。
一人、一人、ゆっくりとな。』
男爵は、最後の一行を、わざと平らな声で読み終えた。
抑揚をなくしたその声が、かえって文の冷たさを、部屋の床まで沈めていく。
――一人、一人、ゆっくりと。
その光景が頭に浮かぶより先に、首のうしろの毛が、ぞわりと逆立った。
指の先が、すっと冷たくなる。
ただの脅し文句ではなかった。
彼らが本当にやるつもりでいることの、予告だった。
――シスター二人。黒髪のシスター。
それは、私とアルテミシアさんのことだ。
森の中。街道わきの茂みから、盗賊たちが飛び出してきた。
あの時、アルテミシアさんは修道服の裾をひるがえして、三人をほんの一瞬で地面に沈めた。
その仲間が、この『荒野の兄弟団』だった。
――アルテミシアさんが、捕まった。
その事実が、頭の中で、うまく像を結ばない。
――あんなに、強いのに。
森で見た、あの身のこなし。冷たい言葉と、温かい仕草。井戸のそばで、修道服を揉み洗いしていた背中。
「同じ町の中だ。お務めの合間に、顔は出すで」
そう訛りをこぼした、あの声。
あのアルテミシアさんが、盗賊なんかに捕まるなんて。
「シスターって」
シェリーが口を開いた。
「リディーと一緒にいた人、だよね。すごく強い感じがしたけど……」
語尾が、少しだけ揺れる。
「うむ」
ベガが、腕を組んだまま低く答えた。
「あの身のこなしは、実戦で鍛えたものだ。その人が捕まっている、というなら――これは、危険だな」
ベガの、白髪まじりの眉が、ぐっと寄った。
「宿の方も調べてもらった」
男爵が続ける。
「白鳩亭のあの方の部屋には、荷物がそのまま残っていたそうだ」
目の前が、暗くなった。
ランタンのオレンジ色の灯りが、視界のはしから引いていく。
机の上の手紙の白さが、急に遠くに感じた。
荷物を残したまま、部屋から消えた。
――自分から出ていったんじゃない。連れ去られた、ってことだ。
私は、机のへりに片手を添えた。
そうしないと、足元が傾きそうだった。
「相手がどれくらいの数か」
ベガが低く言う。
「何を隠しているのかも、まだ何も分かっておらん。それなのに、こちらから危ない動きはできぬ」
「金で済むなら、そうする」
男爵が、机の上で両手を組み直した。
「だが何しろ、もう魔石も食料も無い」
その一言に、この領地の十年の重みが沈んでいた。
売れるものは、もう売った。
領民の畑を保つために、魔石をつないできた。
馬車一台分の魔石と食料なんて、今のスミス領のどこを探しても、ありはしない。
「それでも……」
声が、出てしまった。
抑えるつもりが、抑えきれなかった。
「アルテミシアさんを、見捨てることだけは、できません」
声が、少し上ずる。
男爵は、目を逸らさなかった。
私の上ずった声を、その静かな目で、まっすぐ受け止めている。
「リディア」
男爵の声が、低く部屋に通った。
応接の場でシェリーを止めた、あの凄みが、今度は私に向いている。
「政治家として、判断しなさい」
私の息が、止まった。
「貴族の誇りなどでは、ない。領民と領土のこれからも考えて、その上で判断しなさい」
男爵の目は、揺れない。
「感情で動いては、いけない」
部屋が、静まりかえった。
ランタンの灯りが作る影が、壁の上でゆっくり揺れている。
炎の揺れに合わせて、男爵の顔のしわの影も、ベガの腕の影も、伸びたり縮んだりした。
私は、考える。
――感情で動いては、いけない。
アルテミシアさんを助けたい。その思いは、今、確かに私の中で燃えている。
でも男爵は、その思いをまず脇に置け、と言っている。
領主として。次の領主を育てる者として。そして、私を政治家として引き受けた者として。
半歩うしろで、シェリーが私を見ていた。
喉の奥で、何かをこらえるような、小さな音が鳴る。
机のそばのベガも、腕を組んだまま、私をじっと見ている。
その三つの視線の真ん中で、私はゆっくりと、男爵をまっすぐ見返した。




