第26話 生き残れ
「お答えします」
声が、思ったより落ち着いていた。
「要求を飲むことはできません」
私は男爵の目をまっすぐ見た。
「この領地には、馬車一台分の魔石も食料も、もう残っていない。それが現実です。ならば取れる道は二つだけ。戦力を取り戻すこと。そして脅威を排除すること」
そのために、私が囮になる。
たった今、そう決めた。
「黒髪のシスターを引き渡せと、盗賊たちは名指しで求めています。ならばその私を餌にして、注意を引きつけている間に、ベガさんとシェリーさんで一気に叩く。これが——」
「論外でございます」
男爵の声が、私の言葉を断ち切った。
低い声だった。
でもその底に、これまで聞いたことのない固さがあった。
静かな、揺るがない拒絶。
机の上で組まれた両手の指の関節が、わずかに白くなっている。
「リディア様を囮にお出しするなど、断じて論外でございます」
男爵は私から目を逸らさなかった。
「リディア様は、国家再建の核でいらっしゃいます」
その一語に、声が重くなった。
「所信表明の原稿を作られ、半年をかけて国の仕組みを組み直す道筋を、その頭に収めておられる。ルクセリアのこれから四十年を変えられる、ただお一人の御方でございます」
男爵は机の上の便箋を、静かに伏せた。
「盗賊一団と引き換えにしてよい御方では、ございませぬ」
その言葉の重みを、私は正面から受け止めた。
それでも、首を横に振る。
「ではお尋ねします」
「私だけが身を隠す。その選択が、本当にできるのでしょうか」
男爵の眉がわずかに動いた。
「盗賊が追っているのは私です。そして私を匿ったことで、この領地はすでに巻き込まれています」
私は伏せられた便箋に、一瞬視線を落とした。
「私が奥の部屋で息を潜めている間に、領民が一人ずつ殺されていく。その時、私は無関係だと言えますか」
もう一度、男爵の目を見た。
「それに——」
声を、少し低くした。
「私はまだ、一人では国を取り戻せない」
「男爵の後ろ盾も、この領地も、私には必要です。実地修練の場としていただいたこの土地が、私の足場です。ならばこの領地を守ることは、私自身の利益でもあります」
男爵はしばらく、私を見ていた。
それから、静かに答えた。
「だからこそ、生き延びていただかねばなりませぬ」
その声に、初めて苦しみに似たものが滲んだ。
「ご自身の足場を守るために、そのお身体を失われて、どうなさいます」
「土地は立て直せましょう。領民も、時をかければ増えましょう。なれどリディア様は、ただお一人」
「私は」
私は口を開いた。
「逃げて生き残った王族に、なりたくない」
男爵の目が、わずかに細まった。
「この旅の中で、盗賊と直に相対しました。術師の組んだ紋章をこの目で読み、その手から逃れました。死がすぐ隣にある場に、私はもう立ったことがあります」
私は腰の脇に立てかけた王家の杖の握りに、指を添えた。
父の形見の、五粒の魔石の感触が指の腹に届く。
「危険を知らずに申しているわけではありません」
私は一度、言葉を止めた。
——「勝てます」とは言えない。
その一語だけは、固く自分に禁じた。
囮となって盗賊団の懐に飛び込む。それがどれほどの死地か。もう、軽んじられるほど愚かではなかった。
「勝てるとは申しません」
静かに続けた。
「これが死地だと分かった上で、それでも私はこれを選んでいます」
男爵は最後まで聞いた。
それから、低く首を横に振った。
「戦えるかどうかの話では、ございませぬ」
男爵は私を見据えた。
「リディア様は、死んではならぬ側の御方でございます」
胸の奥で、何かが熱くなった。
「では、戦場にも立たぬ者に、誰が従うのですか」
男爵の眉が動いた。
「領民に命を賭けろと言いながら、自分だけ奥に隠れている。そんな領主を、誰が信じるのでしょう」
声は震えなかった。
「私は評議の場で、貴族たちに平民の寿命を突きつけました。あなた方は平民の命を削って生きていると。ならば私自身が、いざという時に自分の命を惜しむわけには、いきません」
「英雄の死は、美談になります」
男爵の声が、低く返した。その苦みが、もう一段深くなる。
「歌になり、語り草になり、後の世まで語り継がれましょう。命を惜しまなかった、気高き姫の話として」
男爵は机の上で、両手を組み直した。
「なれど、その美談の後で——領民は飢えます」
ランタンの光が、男爵の顔の皺の影を壁に長く伸ばした。
「リディア様が亡くなり、所信表明で示した改革が頓挫すれば、四十年でこの国の平民はいなくなります。美談は、腹を満たしませぬ」
私は目を伏せた。
男爵の言葉は正しかった。
それは半年かけて学んだ、政の、最も冷たい一面だった。
「仰る通りです」
静かに認めた。
「私一人の命と、この領地を天秤にかければ、私が生き残る方が正しい。その計算に、誤りはありません」
私は顔を上げた。
「ですが男爵。その天秤には、まだ載っていない錘が一つあります」
声を、あえて平らに保った。そうしなければ、別のものが滲む。
「私はあの方を、見捨てるわけにはいきません。情ではなく——計算の上で、です」
その目に、迷いは消えていた。
「あの方は、すでに盗賊の手にあります。その背後に誰がいるか分からない以上、身柄がさらに別の者へ渡れば、私が生きているという最大の秘密が漏れます」
私は男爵の目を見据えた。
「見捨てることは、安全な選択ではありません。一度退いた暗殺者を、もう一度この国に呼び込む引き金を、みすみす渡すことです」
私は男爵の机に一歩近づいた。
「その上で、具体的な道筋を整理させてください」
声に、芯が戻った。
私は指を一本ずつ折りながら、論点を並べた。
「ひとつ。要求を飲んでも、この領地が襲われる可能性は極めて高い。
ふたつ。偽物の黒髪のシスターを立てても、森で兄弟を殺した顔を彼らは見ています。見破られる危険がある。
みっつ。明日の正午まで、時間がありません。
そして、よっつ」
男爵の目を見た。
「アルテミシアという、極めて大きな戦力を取り戻す必要がある。
今後のためにも、あの方の力は欠かせません」
一息ついた。
「これらすべてを踏まえた上で——敵の注意を私が集める。それが、最も現実的な道です」
男爵は長い間、黙っていた。
壁の上の影が、伸び縮みを繰り返した。
ベガさんは両腕を組んだまま、何も言わなかった。
半歩後ろのシェリーも、息を詰めていた。
やがて男爵は、深く長い息を吐いた。
その息の中に、長い年月を机に向かって生きてきた者の重みが混じっていた。
「……お許しした、わけではございませぬ」
声が掠れていた。
「断じて、お許ししたわけではございませぬ。これだけは、お心に留めおきくださいませ」
男爵は伏せた便箋の上に、皺の刻まれた手を置いた。
「ただ、他に道が——ないだけです」
部屋が静まった。
男爵はしばらく、自分の手を見つめていた。
それからゆっくりと顔を上げ、私をまっすぐ見た。
その目には、もう拒絶はなかった。
最初に応接の場で「実地修練の場として」と問われた、あの時の目。
土の上で共に机を組み直した、あの時の目。
その目が、今もう一段深いところで、私の中の何かを見ていた。
「リディア様は、良き領主におなりになります」
胸の奥が、その一語にわずかに震えた。
男爵はそこで一拍置いた。
続いた言葉は、これまでのどの言葉よりも重かった。
「生き延びていただけたなら……でございますが」
ランタンの炎が、長くゆっくりと揺れた。
その灯りの下で、私は男爵に向かって、深く頭を下げた。




