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第44話 戻れない場所


 その日、部屋にいたのは、私とアルテミシアの、二人だけだった。


 窓の外は、静かだった。


「……で。『戻す』は、どうなっとるんだ」


 アルテミシアの低い声が、その静けさに、落ちた。


 私は、手元の本を、ゆっくりと開いた。


 古い革の表紙。この領地に昔から伝わる、決まりごとを書き集めた一冊だ。


「今のこの領地では」


 ページの一行を、指でなぞる。


「悪いことをした人を罰するには、二つの道しかありません」


 顔を上げずに、続ける。


「領主様がじきじきに罰をお決めになるか。……それとも、やられたのと同じことを、やり返すか」


「ああ」


 アルテミシアがうなずいた。


「骨を折られたら、骨を折り返す。それが、いちばん分かりやすいわ。それなら、誰も文句は言わんだろ」


 私は、本に目を落としたまま、しばらく黙っていた。


「……折られた人からすれば。折り返せば、確かに、気は済むのかもしれません」


「済むだろ」


「でも」


 私は、顔を上げた。


「その人に、どんな事情があったのか。わざと、ではなかったかもしれない」


 言葉を、選ぶ。


「同じ骨折でも。お酒に酔って殴った人と、荷車の事故で傷つけてしまった人を。同じ罰にするのですか」


 アルテミシアの眉が、わずかに動いた。


「そ、それは……」


 その言葉が、途切れた。


「だから、私は」


 私は、静かに続けた。


「折ってしまった人を罰するより、先に。そもそも、誰も骨を折らずに済む場所を、作りたいんです」


 一度、息をつく。


「一度やってしまった人には、二度とやらないように、教えて、導く。……そういう領地に、したい」


 アルテミシアの目が、すっと冷えた。


「……環境を変えるだの。教育するだの」


 声が、低くなる。


「骨を折られて。もう、まともに働けんようになった奴の。……その目の前で。あんた、同じことが言えるかね」


 部屋の空気が、ぴんと張りつめた。


 それは、ただの反論ではなかった。


 アルテミシアの目の奥に、暗い光があった。


 教育とか、やり直しとか。そんな言葉では、決して埋められないもの。それを、自分の身で知っている人の、目だった。


 ――逃げては、いけない。


 私は、その目から、逃げなかった。


 まっすぐ、見返す。


「きれいごとだけでは、終わらせません」


 私の声は、静かだった。けれど、芯は通っていたと思う。


「骨を折った人には。折られた人へ、償《つぐな》わせます」


 言葉を、続ける。


「財産を売ってでも。生きるのに、どうしても必要な分だけを残して。……奪った分を、一生かけて、返させます」


 一度、言葉を切る。


「教育で、次の罪を防ぐ。償いで、今ある傷をつぐなわせる。……罪を犯した人を、楽にはさせません」


 アルテミシアは、しばらく何も言わなかった。


 その指が、膝の上で、ゆっくりと組み直される。


「……金が、払えにゃあ、となったら」


 ぽつり、とこぼれた。


「一生、働かせて、払わせるっちゅうことか」


「はい」


「……そりゃ」


 アルテミシアは、視線を床へ落とした。


「そりゃ、厳しいな」


 その声には、もう、さっきまでの刺すような響きはなかった。


「殴り返して、すっきりして終わり。……そっちのほうが、よっぽど楽だて」


 殴り返せば、その人は一度だけ痛い思いをして、それで終わる。


 でも、私のやり方は、終わらない。


 逃げた先でも。その償いは、死ぬまで、その人につきまとう。自分のしたことの重さを、一生かけて、背負い続ける。


 けれど、その人の暮らしと、家族への責任まで、奪うことはしない。


 アルテミシアが、ふっと息を吐いた。苦いものを噛んだような顔だった。


「……骨を折られるほうが。まだ、楽かもしれんて」



 アルテミシアは、しばらく黙っていた。


 それから、ふと、目を上げた。


「……ほんでも、だ」


 その声に、また別の硬さが戻っていた。


「骨なら、折り返せる。金も、家も、取り立てられる。償いってのは……まだ、戻せるものが残っとるから、できる話だ」


 私の指が、本の上で止まった。


「けど」


 アルテミシアの目が、まっすぐ私を射た。


「殺された奴は。……どうやって、戻すんだ」


 部屋が、静まり返った。


 私は、すぐには答えられなかった。


「『戻す』の柱は」


 ようやく、口を開く。声は、低かった。


「逃げた人を、呼び戻す。罪を犯した人でも、償いを果たせば、もう一度、人の輪の中へ戻れるようにする。……そういう柱です」


 一度、間を置く。


「けれど」


 私は、本を、静かに閉じた。


「世の中には。どうやっても、戻せないものが、あります」


 声が、続く。


「奪われた、命。殺された人は、二度と帰ってきません。どれだけ財産を積んでも。どれだけ働いても。死んだ人は、生き返らない」


 息を、継ぐ。


「償いでは、つぐないきれない罪が、あるんです」


「……それに」


 声が、わずかに低くなった。


「人を一人殺せば。その人がこれから先、一生をかけて、この土地に注ぐはずだった力も、まるごと失われます」


 言葉を、探す。


「失われるのは、一つの命だけではない。その人が支えるはずだった、この土地の明日そのものです」


 私は、もう一度、息を継いだ。


「それだけでは、ありません」


 顔を、上げる。


「みんなを守るはずの、この国の仕組みそのものを、力ずくでひっくり返そうとする人。人を、力で奪い去る人。あるいは、だまして連れ去って……物のように、売り渡す人」


 声が、低くなる。


「そして」


 一度、言葉が、止まる。


「まだ、自分の身を守るすべも持たない、子供に。取り返しのつかない傷を、負わせる人」


 私は、目を伏せた。


「子供は、まだ若い木のようなものです。根を傷つければ、二度と、大きくは育たない」


 声が、沈む。


「その子が生きるはずだった年月も。注ぐはずだった力も。……すべて、奪われます」


 一度、言葉を切る。


「そういう人たちは。自分から、人の輪の外へ。……二度と戻れない場所へ、踏み出してしまった人たちです」


「……それを、どうする」


「死をもって、償わせます」


 私は、はっきりと、言った。


 言ってから、その重さを噛みしめるように、しばらく目を閉じた。


「ただし……命で償わせる罪は、この五つだけ。法に、はっきりと書き記します」


 一つずつ、口にする。


「人を殺した者。国を、力でひっくり返そうとした者。人を、奪い去った者。人を、さらって売り渡した者。……そして、子供に、重い傷を負わせた者」


「……待ちゃあ」


 アルテミシアが、口を挟んだ。その目が、すっと細くなる。


「殺した者、と一口に言うがね。……転んだ、はずみに、人を死なせた奴も。襲われて、夢中で振り払ったら、相手が死んどった奴も。みんなまとめて、首を落とすんか」


 私は、首を横に振った。


「いいえ」


 迷いのない声だった。


「わざと……自分の手で、はっきりと命を奪った者だけです。事故は、入れません。身を守るための、やむを得ない反撃も。さらわれた我が子を、取り戻しに行った親も。……この五つには、入れない」


 アルテミシアの眉が、わずかに動いた。


「さらわれて、盗賊にされた子供たちを、強盗の死罪から外すのと、同じです」


 私は、続けた。


「わざとやった者と、やらされた者。事故と、たくらみ。……そこを分けずに、言葉の広さだけで人を裁けば。法は、すぐに、人を殺す道具に変わります」


 私は、机の上の紙へ、目を落とした。


「だから、この五つの罪は。一つずつ、どこまでが罪で、どこからが罪でないのか。……その境目を、これから、何日もかけて、削り出さなければなりません」


 顔を、上げる。


「今の言葉は、まだ、粗いんです。広すぎる」


 一度、間を置く。


「それ以外では、決して、命は取らない」


「……ふん」


 アルテミシアは、低く鼻を鳴らした。


「粗いと、自分で分かっとるだけ。……まだ、ましかね」



 私は、しばらく、紙を見つめていた。


 それから、ふと、ペンを置いた。


「……いえ」


 低い声が出た。


「罪の名を、五つに決めただけでは。……まだ、足りません」


「何がだ」


「誰が、その人を裁くのか、です」


 私は、顔を上げた。


「罪を犯した。……そう決めるのは、誰なのか。領主様の、お気持ち一つで決めるのなら。結局、今までと、何も変わりません」


 新しい紙を、一枚、引き寄せた。


「だから、裁く場所を作ります。……裁判所を」


 言葉を、重ねる。


「罪を犯したかどうかを、調べて、確かめて、決める。そのためだけの場所を、法に書き記します」


 ペンを、握り直す。


「たとえ領主様であっても。その場所を通さずには、たった一人も、罪には問えない」


 ペン先が、紙に、新しい一行を刻んだ。


 ――裁判所を、置く。


 私は、その一行を、しばらく見つめた。


 そして、ふっと、自分の顔が曇るのが、分かった。


「……けれど」


 声が、低くなる。


「その場所で。どうやって、罪を確かめるのか。誰の言葉を、証拠《しょうこ》とするのか」


 言葉が、続く。


「罪を疑われた人には、どうやって、言い分を聞くのか。……そして。もし、間違えて、罪のない人を裁いてしまったとき。それを、どうやって、やり直すのか」


 私は、その一行の下の、白い余白を、指で示した。


「――その手続きこそ。まだ、たった一行も、書けていません」


 ペンを、置く。


「いちばん大事なところが。いちばん、空っぽなんです」



「今は」


 私の声に、初めて、隠しきれない熱が、にじんだと思う。


「領主様の、お気持ち一つで。人の生き死にが、決まります。機嫌が悪ければ、軽い罪でも、首が飛ぶ」


 息を、継ぐ。


「……それを、やめさせたいんです。誰の命を取るかは、その日の気分ではなく。法と、裁きの場だけが、決める」


 声に、力がこもる。


「たとえ、領主様であっても。書かれた罪のほかでは、たった一人も、殺せない」


 アルテミシアは、何も言わなかった。


「人を、さらって、売り渡した者」。


 その一言を、私が口にしたとき。


 アルテミシアの、膝の上の手が。ほんの一瞬、固く、握り込まれた。


 爪が、手のひらに食い込むほどに。指の節が、白くなっていた。


 私は、それを、見ていた。


 ――でも。


 ――今、そこに触れれば。この人は、二度と、口を開かない。


 なぜだか、そう分かってしまった。


 だから、私は。目を、そらした。


 長い、沈黙が、流れた。


 やがて、アルテミシアが、低く、息を吐いた。


「……あんたに」


 かすれた声だった。


「人を殺せ、と。命じることが、できるんか。……誰よりも、人を死なせたくない、あんたに」


「できます」


 私は、即座に、答えた。


「やりたくは、ありません。きっと、一度命じるたびに、私はその晩、眠れなくなる」


 でも、と、続ける。


「……その重さに耐えられない者が、法を預かっては、いけないと思うんです」


 声は、静かだった。


「軽い気持ちで、人を殺せる者にも。重すぎて、誰一人、罰せられない者にも。……この領地は、預けられない」


 アルテミシアは、長いこと、私を見ていた。


 その目から、いつのまにか、刺すような光が、消えていた。


「……ふん」


 ぽつりと、言った。


「その五つから、勝手に増やすな。都合よく、減らすな。……それから。その『空っぽ』のところも、ちゃんと書いとけよ」


 それは、たぶん。この人なりの、いちばん重い、うなずきだった。



 アルテミシアが、また、窓の外へ目を戻す。


 その横顔を、私は、見ていた。


 いつか、この人が、言っていた。


「盗賊に落ちた者に、物を盗られた奴がおる。身内を殺された奴も、おる。……盗られた奴の、腹の中も、忘れるな」


 その言葉を、私は、忘れてはいなかった。


 戻せるものは、償わせて、戻す。


 けれど、戻せないものを奪った者からは、目を逸らさない。


 償いも、死罪も。突き詰めれば、同じ、一つのことのためにある。


 傷つけられた側を、決して、置き去りにしない。なかったことには、しない。……ただ、それだけのために。


 アルテミシアの肩からは、いつのまにか、最初のこわばりが、抜けていた。



 *



 二か月が、過ぎた。


 市場の、人が行き交うメイン通り。宿屋の壁。村という村の、掲示板。


 そのどこにも、真新しい一枚の布告《ふこく》が、掲げられていた。


 ――スミス領民命法《りょうみんめいほう》。


 墨も鮮やかなその紙には、五つの柱が、並んで記されていた。


 守る。延ばす。戻す。増やす。数える。


 私は、その掲示板の前にできた人だかりの、いちばん端に立っていた。


 自分の作ったものが、どう受け取られるのか。……この目で、確かめたかった。


 だから、ただの村の子供のふりをして、人々の声に、耳を澄ませた。


「来月から、実施だと?」


 荷を背負った男が、首をかしげる。


「お産のやり方まで、お上が決めるってのかい」


 その隣で、年かさの女の人が、指で文字を追っていた。


「『守る』ってのは、子供を死なせない、ってことらしいねぇ。けど、こう細かく決められちゃ、産婆さんも気の毒だ。今までのやり方を、急に変えろってんだから」


「『延ばす』は、こっちだよ」


 若い男が、別の一行を指さした。


「大人の寿命を、延ばす。……差し出す魔力の量が、減るんだと」


「ほんとかい」


 別の声が、低く混じった。日に焼けた、お百姓さんだった。


「……お上が、ただで楽をさせてくれるもんかね。減らした分、どっかで、別のものを取られるんじゃねえか」


 その一言に、ほころびかけた何人かの顔が、また、硬くなった。


 私は、唇を、噛んだ。


「……『戻す』って、なんだこりゃ」


 職人風の男が、眉を寄せている。


「外へ出てった奴を、戻すってか。……盗賊とかも、戻ってくるのか。おい、そりゃ、怖いぞ」


 ざわ、と、不安が、人だかりを走り抜けた。


「いや、待て待て」


 別の男が、布告の下のほうを指した。


「ここに、書いてある。そういう危ない奴を見張るための、お役所が。『監督署《かんとくしょ》』ってのが、新しくできるんだと。それと、罪を裁く場所も、別にできるらしい」


「役所が、できりゃあ、なんだってんだ」


 職人は、引かなかった。


「俺の隣に、昔、家を焼いた奴が、越してくるかもしれねえんだぞ。役所が見張ってる、なんて紙きれ一枚で、おちおち眠れるかよ」


 返す言葉を、誰も、持たなかった。


 その不安は、鎮まらないまま、人の間に、居座った。


 ――そうだ。その通りだ。


 私は、心の中で、うなずいていた。


 紙きれ一枚では。人の恐怖は、消えない。


「……あたしゃ、こっちが気になるねぇ」


 赤ん坊をおぶった、若い母親が、『増やす』の一行を、のぞき込んだ。


「子を産め、ってことかい。子を一人産むごとに、魔力を差し出す量が、二割減るんだと。……けど」


 その目が、おぶった我が子に、落ちた。


「産むのは、結局、こっちの身体だよ。減らしてやるから産め、ってのは。……なんだか、逆さまな気もするねぇ」


「『数える』、か」


 最後の柱を読んで、村長らしき老人が、ううむ、と、うなった。


 その顔は、ほかの誰よりも、晴れなかった。


「生まれた子も。差し出した魔力も。……何もかも、いちいち書き留めにゃ、いかんのか」


 老人の指が、布告の端を、軽くなでた。


「……これまでは、わしの胸ひとつで、かげんしとった。誰を、どれだけ通すか。それを、紙に書けと。書いた紙は、お上が、調べると」


 その声には、隠しきれない、渋さがあった。


 長いあいだ、村のことを、取り仕切ってきた人。その人にとって、すべてを数で残すということは。自分の手の内が、上からのぞかれる、ということでもあった。


 人々の声は。喜びと、戸惑いと、そして、消えない不安とが、入り混じって。


 掲示板の前で、いつまでも、止むことがなかった。


 その頭の上を。


 晴れた空から吹き下ろした風が、布告の紙の端を、ぱたぱたと、揺らしていく。


 私は、その音を、聞いていた。


 新しい風が、吹いている。


 まだ、誰も。この風が、どこへ向かうのかを、知らない。


 ――この風を、起こした、私自身でさえも。


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