第43話 渦の声
客間の窓の外は、もう夜だった。
机の上には、古い資料が、いくつも積み上がっている。羊の皮でできた紙は、乾いて、少しすっぱいような匂いがした。ランプの熱にあぶられて、その匂いが、部屋にただよっている。
私は、黄ばんだ紙の一枚に、目を落としていた。
「白礎樹へ差し出す魔力を、減らせませんか」
私は、ペン先で、資料の一行をなぞった。
白礎樹というのは、この土地の地下にある、白くて大きな木だ。この木が枯れると、土地も死んでしまう。だから人は、木にずっと魔力を与え続けなければならない。
「減らした分は……土地そのものを良くして、おぎなえないでしょうか。やせた土を、肥えた土に変える方法。新しい肥料。そういうもので、木の負担を、少しでも」
向かいの椅子で、ベガさんは、しばらく黙っていた。
しわだらけの指が、別の資料の束を引き寄せる。乾いた紙が、かさり、と鳴った。
「……過去に、一度ある」
ベガさんの、かすれた声が、低く落ちた。
「白礎樹へ差し出す魔力が、三年のあいだ、減らされた時期だ。記録には、こう書いてある。土地はやせ、病気が流行った、と」
私の指が、止まった。
「だが」
ベガさんは、白い眉を寄せた。
「実際に、どれだけ減らしたのかは、どこにも書かれておらん。少しだけ減らしたのか。半分にしたのか。それが分からん限り、どこまでなら安全か、誰にも決められん」
ベガさんは、めずらしく、椅子の背に、ぐっと体を預けた。そのまま、天井を見上げる。
「試すしかない。だが、試す相手は、人だ。線を引きまちがえれば、土地がやせ、人が死ぬ。減らしすぎても、減らさなすぎても、いかん」
天井を見たまま、ベガさんは、長い息を吐いた。
「難しい、判断だな」
私も、手元の命数帳に、目を落とした。
命数帳。それは、この土地に生きる人たちの名前と、その人が差し出した魔力の数を、書きつけたものだ。何百人もの名前が並び、その横に、数が刻まれている。その一つ一つが、生きて、けずられて、死んでいった人の、記録だった。
魔力を減らしすぎれば、土地が死ぬ。減らさなければ、人が死ぬ。
どちらを選んでも、弱い者から倒れていく。
――力が、必要だ。
ふいに、頭の奥に、するどい痛みが走った。
それは、私の考えではなかった。
もっと深いところ。底のほうから、突き上げてくる、別の誰かの声だった。
――力がなければ、奪われるだけだ……!
視界のはしが、ゆれる。見たこともない、かわいた土の道が、一瞬、ランプの灯りに重なった。
「――マリア」
私の唇が、勝手に動いた。
「なんで、村に……帰ったんだ……」
頬を、熱いものが伝っていく。涙だった。
自分の意思とは関係なく、誰かの悲しみと後悔が、私の目から、ひとりでにこぼれ落ちていた。
「リディア?」
ベガさんが、背もたれから身を起こした。
その声で、私は、我に返った。
頬に手をやると、指先がぬれた。
「……っ」
あわてて、袖で涙をぬぐう。心臓が、いやな速さで打っていた。
――今のは、何? なぜ今、その名前が出た。自分は、なぜ泣いている。
分からない。何も分からないのに、胸の奥には、まだ、見も知らぬ誰かの泣き声の余韻だけが、重く、残っていた。
――また、ヨゼフだ。
寝るたびに、勝手に流れ込んでくる、あの盗賊の頭の記憶。それが今度は、起きているあいだに、あふれた。
「す、すみません」
私は、頭を振った。
「疲れた、だけです。少し、根を詰めすぎました」
ベガさんは、何も言わなかった。
ただ、その半分閉じた目が、いつになく、じっと、私を見ている。
「リディア」
長い沈黙のあとだった。
「一つ、聞きたいことがある」
「……なんでしょうか」
ベガさんは、組んだ指の上に、あごを乗せた。
「君の中に……他人が、入ってきていると。そう感じたことは、あるか」
私の背筋を、冷たいものが、すっと流れ落ちた。
返す言葉が、出てこない。
膝の上で、私の手が、知らないうちに、握りしめられていた。
「以前」
ベガさんは、静かに続けた。
「君の中を流れる魔力を、調べたことがある。覚えておるか」
「……はい」
「あのとき、君の中には、違う質の魔力が、渦を巻いておった」
ベガさんの声が、低くなる。
「君自身の魔力が、まだ、ずっと多い。だが、その底に、明らかに別のものが混じっておった。そして……気のせいでなければ。それは、このスミス邸に来たときよりも、ずっと多い」
私は、答えられなかった。
――図星だった。
目を閉じて、意識がゆっくりと沈んでいくと。暗闇の中から、自分のものではない声が、自分のものではない景色が、にじみ出してくる。
最初は、遠い夢のようだった。
けれど、いまは違う。目を覚ましたあとも、その誰かの気持ちが、胸のすみにこびりついて、離れない。
昔のロディエットなら、抱くはずのなかった感情が、ふいに芽生えることがある。
誰かを、力でねじ伏せたい、という衝動。守るためではない。ただ、奪われたくないという、むき出しの恐れ。
――そういうものが、自分の中で、勝手に息をしている。
毎日、心のすみで、私は怯えていた。
――いつか、私が、私でなくなるのだろうか。
そして、その問いのすぐ裏側には。もう一つ、足元がくずれるような問いが、待っていた。
――そもそも、私とは、なんだろう。
死んだ司祭の娘の身体。その中に入った、ロディエットの意識。そこへさらに、見知らぬ誰かの記憶と感情。
どこまでが自分で、どこからが他人なのか。
私は、膝の上で、一度、ぎゅっと手を握った。
それから、ゆっくりと、息を吐いた。
ここで、この人に打ち明けなければ。この不安に、いつか押し潰される。そんな気がしていた。
「……ベガさんは、もう、気付いておられると思います」
私は、顔を上げた。
「私には、他人の魔力を吸いこんで、読み解く力があります」
ベガさんの白い眉が、ぴくりと動いた。
私の頭にも、あの日の訓練場の光景が、よみがえった。
魔力を持つ者から、むりやりにでも魔力を吸い上げる石を、吸魔石という。ベガさんは、その石を、私の額に当てた。
ところが、石は、私から何も吸えなかった。逆に、石を握ったベガさんのほうから、魔力が、すうっと吸い出されていったのだ。
「……あぁ」
ベガさんは、低くうなった。
「そんな気は、しておった。では、その力で。他人の魔力が、君の中に入ってくるのか」
「はい」
私は、頷いた。迷いは、まだあった。けれど、ここまで言って、引き返せはしない。
「入ってきた魔力には……記憶が、宿っています」
私は、声を落とした。
「相手の魔力を吸うと。その人の記憶のかけらを、私も、なぞるように体験してしまうんです。見たはずのない景色を見て、感じたはずのない気持ちを、感じる」
「何だと……?」
ベガさんが、身を乗り出した。
「さっき、私が、急に泣いたのは」
私は、目を伏せた。
「ヨゼフの……あの、盗賊の頭の記憶です。彼の後悔が、勝手に流れ込んできて。私の体が、それに引きずられたんです」
ベガさんは、言葉を失っていた。あごひげを撫でていた手も、止まっている。
私は、ヨゼフの記憶のかけらを、語った。
しばらく聞くうちに、ベガさんの目が、ゆっくりと見開かれていく。まだ信じきれない、という顔から、血の気が、すっと引いた。
「……本当なのか?」
かすれた声だった。
「このことは、他に誰にも話していません」
私は、首を横に振った。
「知りたくて、知ったのではないんです。ただ、勝手に流れ込んできて。寝たときや、意識がぼんやりしたときに……ひとりでに、思い出されてしまう」
ベガさんは、しばらく、何も言えずにいた。
それから、ようやく、口を開く。
「……体に。不調は、ないのか」
「はい」
私は、頷いた。
「大きな怪我や、熱はありません。ただ……頭の中だけが、少しずつ、にぎやかになっていくんです」
ベガさんは、また、あごひげを撫で始めた。
「にわかには……信じられん」
半分、自分に言い聞かせるようだった。
「いや。さっきの、ヨゼフの話。あれは、嘘をついている顔ではなかった。だが」
ベガさんは、眉間に、深いしわを刻んだ。
「魔力に、記憶が宿るだと? そんな話は、聞いたことが……」
考え込むベガさんを、私は、しばらく見ていた。
そして、ふと。
「……ベガさんは」
おずおずと、口を開いた。
「猫に、なりたいんですか?」
「は?」
ベガさんの思考が、止まった。
顔を上げる。その目が、まんまるに見開かれていた。いつも落ち着いている、この老いた魔法使いの、こんなに慌てた顔を、私は、初めて見た。
「な、なぜ、そう思う?」
「あの、訓練場で」
私は、申し訳なさそうに続けた。
「ベガさんから魔力が流れてきたとき。その直前に、ベガさんが見ていた、一匹の猫の姿が……一緒に、流れ込んできて。撫でたい。いっそ自分も、あんなふうに丸くなって、ひなたで眠りたい、撫でられたい。そういう、とても強い気持ちが」
「……そこまでだ」
ベガさんが、声を張り上げた。
私は、びくりとして、口を閉じた。
「……忘れてくれ」
ベガさんは、片手で顔をおおった。
「すみません」
私は、心から、申し訳なさそうに言った。
「私も、忘れたいんです。でも、吸った魔力が、どうしても抜けてくれなくて……」
「くっ」
ベガさんの耳の先が、赤く染まっていく。
ベガさんは、しばらく、顔をおおったまま動かなかった。
やがて、深く長い息を吐くと、おおっていた手を、ゆっくりと下ろした。その顔は、まだ少し赤かったが、目の色だけは、もう、いつもの落ち着いたものに戻っていた。
「……リディア」
「はい」
「君のその力。そして、君の中で増え続けているという、その渦。どういう仕組みで起きているのか。どうすれば、君が、君のままでいられるのか」
ベガさんは、まっすぐ、私を見た。
「この老いぼれの知恵の、ありったけを使って。必ず、解き明かすと誓おう」
私は、息を呑んだ。
ずっと、一人で抱えてきたものだった。寝るたびに増えていく声に、一人で怯えてきた。
それを、いま、初めて。
一人ではない、と、そう思えた。
「……ありがとうございます」
声が、わずかに震えた。
「本当に……困って、いたので」
「うむ」
ベガさんは、頷いた。それから、ぐったりと、また背もたれに寄りかかる。
「今日は、もう休みなさい。根を詰めすぎだ。……それに、私も、少々、疲れた」
「はい」
私は、立ち上がった。
「おやすみなさい、ベガさん」
ベガさんは、頭を抱えたまま、ひらりと、右手だけを上げてみせた。
その仕草が、どこか、ふてくされた猫のように見えて。私は、口元に小さな笑みがこぼれそうになるのを、あわててこらえた。いまは、絶対に笑ってはいけない気がした。
廊下に出ると、夜の空気が、ひんやりと頬を撫でた。
胸の奥は、まだ、ヨゼフの悲しみの余韻で重い。頭の中の渦も、消えたわけではない。
それでも。
その渦のことを知っている人が、この屋敷に、もう一人いる。
――たった、それだけのことが。
私の足取りを、来たときよりも、ほんの少しだけ、軽くしていた。




