第45話 礎祭《いしずえまつり》の灯り
三年が、過ぎた。
秋の風が、畑を渡っていく。
刈り入れのすんだ畑は、どこまでも金色だった。
乾いた藁と、熟れた果物のにおい。
それが風に乗って、広場のほうから流れてくる。
広場の真ん中には、高いやぐらが組まれていた。
四隅から張った縄に、色とりどりの旗が結ばれ、風にぱたぱたと鳴っている。
やぐらを囲むように、露店が並ぶ。
肉を焼く脂のにおいと、鍋で煮た果物の甘いにおいが、混じり合って漂っていた。
礎祭の、三度目の秋だった。
私は、広場を見渡せる、小高い丘のふちに立っていた。
三年前。
はじめての礎祭を開いた日のことを、ふと、思い返す。
あのとき、人々は、どこか遠慮がちに広場へ集まってきた。
慣れない祭りに、どう振る舞えばいいのか分からない。
そんな顔で、たがいの様子をうかがいながら、輪の外に立っていた。
いまは、違う。
広場の真ん中には、円をえがくように、いくつもの石が置かれていた。
吸魔石。
人の魔力を吸って、ためておくための石だ。
よく磨かれた緋色の表面が、陽を受けて、ぬらりと光っている。
その石を縫うように、踊りの輪が回っていた。
笛と太鼓に合わせて、人々が足を踏み鳴らす。
頬を赤くした娘たちが、手を取り合って、くるくると回る。
その隣では、白髪のおばあさんが、孫らしい小さな子の手を引いて、ゆっくりと輪に加わっていた。
腰の曲がりかけたおじいさんは、目を閉じて、ひとり、拍子を取っている。
体つきのいい男たちは、汗を飛ばして、競うように地を蹴った。
誰が一番高く跳ぶか。それだけに、すべてを賭けているような顔だった。
その合間を、子供たちが、笑い声を上げて駆け抜けていく。
転んでも、すぐ起き上がって、また走る。
踊りながら、人々は、ごく自然に、緋色の石のそばを通る。
通りすがりに、手のひらを、そっと当てる。
ほんの一瞬。
誰がどれだけ触れたのか、はたからは、まるで分からない。
当てた人も、当てなかった人も、同じ笑顔で、同じ輪の中を回り続けている。
――あの夜、婦人が言った通りに。
誰が魔力をさし出したかも、さし出さなかったかも、分からない。
だから、誰も責められない。
見栄を張る必要も、うしろめたく思う必要も、ない。
ただ踊って、気が向いたら、手を当てる。
――それだけのことに、なっていた。
輪の外がわに、人の流れへ目を配って立つ女がいた。
アルテミシアだった。
激しく踊っていた中年の男が、ふと、足をもつれさせる。
額に、玉のような汗。息も、上がっていた。
アルテミシアは、すっと歩み寄ると、その肩を、ぽんと軽く叩いた。
「今年は、ここまでだて」
男の耳元で、何か言っている。
「でら汗かいて、よう動いた。……あっちで、たんと食べて、帰りゃあ」
男は、名残おしそうに輪を振り返りながらも、素直にうなずいて、露店のほうへ歩いていった。
――三年前、机の上で交わした言葉が。
いま、こうして、人の形になって、動いている。
私は、広場のにぎわいを、もう一度、見渡した。
魔力をさし出す日は、年に四度ある。
そのうち、いちばん多く集まるのは、いまでは、この秋の祭りの一日になっていた。
残りの季節、人々は、自分の暮らしと仕事のために、その体を使う。
おかげで、領には、元気が戻っていた。
魔力を削られるばかりだった頃には、誰も、新しいことを始めようとはしなかった。
明日、自分がどれだけ生きていられるか、分からなかったからだ。
けれど、いまは違う。
果物を干して、遠くの町へ売る者が現れた。
長く保つ食べ物を工夫して作る者も出てきた。
空き家になっていた工房に、また、槌の音が戻っている。
魔石のたくわえが尽きるまで、五年。
そう見積もっていたあの計算は、三年が過ぎたいまも、底をついていない。
削られる一方だったたくわえの、その減りが、いまはほとんど止まっていた。
立ち直りは、私が思っていたよりも、ずっと早かった。
――三つの時計のうち、二つは。止まったか、ゆるんだ。
魔石が尽きるまでの五年という、法に残された時計は、この祭りが止めてくれた。
お金の時計は、領民の商いが、ゆるめてくれた。
「――皆の衆!」
やぐらの上から、よく通る声が響いた。
スミス男爵だった。
笛と太鼓が止む。
踊りの輪が、ゆっくりとほどけていく。
広場じゅうの顔が、やぐらの上を見上げた。
男爵は、皆の前で、ゆっくりと右の袖をまくり上げた。
陽の光の下に、その手の甲が、さらされる。
――皺が、また、増えている。
私は、丘の上から、その手を見つめた。
三年前。
はじめての礎祭で、男爵がこの場で袖をまくったとき。
領民たちは、領主の手に、息を呑んだ。
二十歳の若々しい顔の下に、老人のような、皺だらけの手がついていたからだ。
いまの男爵の手は、あのときより、さらに深く、皺を刻んでいた。
祭りで補えた分は、まず、領民のさし出す量を減らすために使った。
だから、男爵夫妻の分まで減らす余裕は、まだない。
だが、もう、誰も息を呑まなかった。
領主が老いていくことを、領民は知っている。
なぜ老いるのか、その本当のわけは、知らないまま。
それでも、領主が自分たちと同じ側に立って、同じように身を削っていること。
それだけは、毎年まくられるその袖が、語り続けていた。
男爵が、吸魔石に手のひらを当てる。
目を閉じる。
石が、淡く、緋色の光を強めた。
手を離したとき、その肩は、わずかに下がっていた。
やぐらの段を降りる足取りは、三年前より、目に見えて重い。
それを支えるように。
やぐらの上に、婦人が進み出た。
「あなた、ずるいわ」
ロサリンデの声は、いつものんびりした調子のままだった。
「わたくしも、注ぎますからね」
婦人が、石に手を当てる。
レースの袖からのぞく手の甲もまた、三年分の皺を、静かに刻んでいた。
二人が並んで石に手を当てる姿を、私は、丘の上から見ていた。
――けれど、この二人の時計だけは。
止められなかった。
注げば注ぐほど、その針は、速く進む。
三年で、確かに、進んでしまった。
それは、私の法でも、この祭りでも、どうしてもゆるめることのできない、ただ一つの時計だった。
「リディア。こんなところに、おったんかね」
声に振り返ると、アルテミシアが丘を上ってくるところだった。
その足取りに、もう、迷いはない。
膝から下に、薄く色の抜けた一本の線が走っている。
三年前に繋ぎ直された右の足は、いまでは、彼女の体の一部として、しっかりと地を踏んでいた。
「帳面の番は、いいんですか」
「産婆のばあさんに、代わってもろたがね」
アルテミシアは、私の隣に立った。
「あんたも、いつまでも丘の上で、辛気くさい顔しとらんと。降りてきて、飯でも食いゃあ」
その口ぶりから、かつての刺は、もう抜けていた。
突き放すような言葉の選び方は、相変わらずだった。
けれど、その奥にあった――確かめるだけ確かめたら、もう二度と見ない、というあの冷たい目は。
いつのまにか、消えていた。
「……はい」
私は、うなずいた。
広場の隅に、机と椅子を寄せた一画があった。
スミス家の者たちが、毎年、ここで食事を取る。
今年も、男爵と婦人、シェリー、ベガ、そしてアルテミシアが、すでに腰を下ろしていた。
「リディアちゃん、おかえりなさい」
婦人が、皿を差し出した。
つい今しがた、やぐらの上で魔力を注いだばかりとは思えない、晴れやかな顔だった。
皿には、焼いた肉と、焦げ目のついた芋、それに煮つめた果物が盛られている。
「いただきます」
私は、椅子に腰を下ろした。
肉を口に運ぶ。
脂の甘みと、塩の利いた焦げ目の香ばしさが、口の中いっぱいに広がった。
――三年前。
林檎を初めて口にした、あの夜から。
ずいぶんと、遠くまで来た。
あのとき、獣のようにむさぼった自分を、私は恥じた。
けれど、いまは、ただ美味しいと思う。
美味しいと思えること。
――それが、どれだけのことか。
いまは、知っている。
「ベガは、また肉を残しとるがね」
アルテミシアが、ベガの皿を顎で指した。
「身が薄うなる一方だで。もっと、食べやぁ」
「……年寄りには、量が過ぎるのだ」
ベガが、かすれた声で言い返す。
「言い訳しとると、婦人に叱られるで」
「あら、ベガさん。そんな貧弱な肉質のままではいけません。もっと召し上がって、筋肉をつけないと。シェリーちゃんの師匠は、務まりませんよ」
婦人が、すかさず肉を一切れ、ベガの皿に乗せた。
ベガが、困ったように白い眉を下げる。
その様子に、皆の間から、小さな笑いが起きた。
私も、笑った。
――これだ。
いつか、市場で桃を買った、あの日。
シェリーと並んで感じた、あの手ざわり。
守りたかったものの、本当の姿。
それは――こんな、なんでもないことの中に、ある。
「そういえば」
婦人が、思い出したように言った。
「アルテミシアさん。さっき、教会から、お手紙が届いていたわよ」
懐から取り出された一通の封書が、アルテミシアの手に渡る。
「神父さまから?」
アルテミシアが、封を切った。
中の便箋を開き、目を走らせる。
私は、それを横から、見るともなく見ていた。
アルテミシアの目が、文字を追って、ゆっくりと動いていく。
「……息災にしとる、と」
アルテミシアが、ぽつりと言った。
「教会も、変わりにゃあと。スミス領で、リディアの力になってやってくれ、と。……三年前と、同じことが書いてあるがね」
その声に、わずかな苦笑が混じった。
「相変わらず、心配性な爺さまだて」
私は、便箋に並ぶ文字を、遠目に見た。
神父の字だった。
ただ――三年前、教会で別れたときに見た字より、その線は、わずかに震えている気がした。
アルテミシアの指が、便箋の上の、ある一語で止まっていた。
「リディア」と書かれた、その文字の上で。
私は、それに気づいた。
けれど、何も言わなかった。
神父が便箋に書く「リディア」が、誰を指しているのか。
いまの、私なのか。
それとも、九年前に病で逝った、神父の本当の娘なのか。
アルテミシアは、しばらく、その文字を、指でなぞっていた。
それから、何も言わずに、便箋を丁寧に畳んだ。
「……返事を、書かなかんね」
そう言って、懐にしまった。
日が、傾き始めていた。
広場の踊りの輪は、いつしか幾重にもなっている。
灯された篝火が、人々の影を、長く地に伸ばしていた。
食事を終えた私は、車座から少し離れて、やぐらの裏手の、静かな場所に移っていた。
祭りの喧騒が、遠くで、やわらかく響いている。
「ロディー」
シェリーが、隣に腰を下ろした。
手には、杯が二つ。
その片方を、私に差し出す。
中身は、果物を搾った、甘い汁だった。
「おつかれさま」
「ありがとう」
私は、杯を受け取った。
二人は、しばらく、無言で、遠くの篝火を眺めていた。
「……ねえ。見てよ、あれ」
シェリーが、踊りの輪を、顎で示した。
夕陽と篝火の中で、影絵のように、人々が回っている。
子供の歓声。
老人の笑い声。
娘たちの、弾むような足取り。
「三年前は、あんなふうに笑う人、いなかった」
シェリーの声は、静かだった。
「みんな、いつ死ぬか、それだけを考えて暮らしてた。……それが、いまは笑ってる。新しい店を出すだの、来年は何を作るだの。そんな話を、してる」
シェリーが、私のほうを見た。
その淡い青の瞳が、篝火をうつして揺れている。
「これ、ぜんぶ。あんたが変えたんだよ、ロディー」
「……私だけじゃ、ないよ」
「うん。知ってる」
シェリーは、笑った。
「でも、始めたのは、ロディーだよ。……ありがとう。だから、私だけは言わせて。ありがとう、ロディー」
私は、なんて返せばいいのか、分からなかった。
ただ、胸の奥が、じんわりと熱くなる。
――私は、この人たちに、ちゃんと報いることが、できているだろうか。
「ねえ、ロディー」
シェリーが、不意に、いたずらっぽく笑った。
「覚えてる? あんたが、この屋敷に初めて来た日のこと」
「うん」
私は、うなずいた。
「わたし、あのとき」
シェリーが、杯の中の汁を、軽く揺らした。
「あんたの頬を、思いっきり引っぱたいちゃったね」
「……そう、だったかな」
私は、小さく首をひねった。
「忘れちゃったの? ひどいなあ」
シェリーが、頬をふくらませた。
冗談めかした、軽い口調だった。
「あんなに思いっきり叩いちゃって……。私のほうは、ずっと気に病んでたんだよ。一人で勝手に悩んで、あの時の手の痛みまで、いまだに覚えてる」
「ごめんね」
「謝るのは、こっちだってば。でも……あなたが、あのロディだって分かって、私は本当に、心の底から安心したんだよ」
私は、笑った。
シェリーが、つられて、可笑しそうに肩を揺らす。
二人は、顔を見合わせて、笑った。
それきり、その話は、夕風に流れていった。
二人は、また、無言で篝火を眺めた。
祭りの灯りが、夜のとばりの中で、ゆっくりと揺れていた。
その夜。
祭りの喧騒が遠ざかり、屋敷が寝静まった頃。
私は、自室の机に向かっていた。
灯りを一つだけ点して、引き出しから、一冊の帳面を取り出す。
三年前から、つけ始めた日記だった。
スミス領民命法を、書き上げた、あの夜。
ふと、その日にあったことを――誰が、何を言ったかを、一つずつ書き留めておきたくなった。
それから、気が向いた夜には、こうしてペンを執るようになった。
私は、今日のページを開いた。
そして、書いていく。
金色の畑を渡る、秋の風。
緋色の石のまわりで回り続けた、踊りの輪。
汗を飛ばして跳ぶ男たちと、それを笑う子供たち。
婦人の皿の上の、焼けた肉の甘さ。
ベガの皿に増えていく、肉の山。
シェリーと並んで眺めた、遠い篝火。
――幸せな、一日だった。
今日のことは、忘れたくない。
そう思える、一日。
書きながら、私は、そう思った。
ペンを置く。
窓の外を見やると、遠くで、礎祭の最後の篝火が、まだ小さく揺れていた。
三年前と、同じ灯りだった。
明日も、この灯りは続いていく。
来年も、再来年も。
――きっと、ずっと。
私は、日記を、そっと閉じた。
灯りを消す。
窓から差し込む祭りの遠い灯りだけが、机の上の日記の表紙を、ぼんやりと照らしていた。
その灯りに見守られるように、私は、静かに目を閉じた。
祭りの終わり。
スミス男爵領に、一通の封筒が届いた。
『近いうちに、そちらの屋敷を訪ねる。それにふさわしい支度を整えて、迎えるように』
ジェンドリック公爵。
(第一部・了)




