第41話 帰る場所
「戻す、というのは」
アルテミシアの声が、部屋の空気を、ひとまわり重くした。
「誰を、戻す気だね」
責めるような響きは、なかった。ただ、低いところに置かれたまま、動かない。そういう問いだった。
私は、戸口の椅子に浅く腰かけたアルテミシアを見た。いつもは下がり気味の目尻が、今は冷たく細められている。
膝の上の手は、組まれていない。片方の親指が、もう片方の手の甲を、一度だけ、そっと撫でた。
——この人は、答えを、もう半分は分かっている。
そう感じた。分かった上で、私の口から言わせようとしている。
私は、命数帳の表紙に、もう一度、手を置いた。
この土地に生きる人の、残された寿命を書きつけた帳面だ。指の先に、革の、少しざらついた感触が届く。
「逃げた人たちのことです」
短く、そう答えた。
「製粉小屋の裏に住む、あの母親の手紙を、覚えていますか」
紙の束から一枚を、指先でそっと引き寄せる。古い紙の、乾いた匂いがした。
「夫は家を出ていった、と書いてありました。奉仕を、免除してもらえない家には、戻らない、と」
奉仕というのは、平民が暮らす代わりに、自分の魔力を差し出す務めのことだ。差し出しすぎれば、体は早く老いていく。だから皆、その免除を欲しがる。
紙の上の、整った文字を、私は目で辿った。字の書けない母親に代わって、兵士が写した手紙だった。
「ああして出ていった人が、この領には、何人もいます。隣の領へ移った人。山に入った人。もう、どこにいるのか分からない人」
私は、顔を上げた。
「人が減っていくのは、死ぬからだけではありません。逃げていくから、でもあるんです。生まれる数を増やすより先に、まず、出ていく穴を、塞がないといけません」
「それを」
アルテミシアが、低く遮った。
「呼び戻す、と。……首に、縄でもかけるつもりかね」
部屋の隅で、シェリーの肩が、小さく強張った。剣の柄に添えた手が、半歩、動きかける。
私は、その問いから、目を逸らさなかった。
首を、横に振る。
「いいえ。縄は、かけません」
私は、机に並べた五つの言葉の、三つ目を、指で押さえた。
戻す。
「『取り戻す』のではないんです。『戻れる』ようにする、ということです」
指を紙に置いたまま、続けた。
「人が逃げたのは、ここにいれば魔力を削られて、死ぬからでした。逃げた先で、楽に暮らしているわけではありません。ただ、ここよりはましだった。それだけです」
私は、一度、息を継いだ。
「だから、追いかけて連れ戻すのは、間違いです。連れ戻しても、ここが命を削る場所のままなら、その人はまた逃げる。……逃げる力さえ無くして、ここで死ぬだけです」
私は、ベガの方を見た。
「林の話と、同じです」
ベガの白い眉が、少し上がった。
「木の生えなくなった山に、無理やり苗を運んで植えても、根は付きません。土が痩せているからです。……でも、土を肥やしてやれば。苗は、運ばなくても、風に乗って、勝手に芽を出します」
ベガは、白い顎髭の奥で、低く唸った。
「種は、追いかけて撒くものではない、か」
「はい。戻る場所を、戻りたい場所に、変える。それが、三つ目の柱です」
私は、言葉を選んだ。
「誰を戻すか、ではありません。何を直せば、人が自分から戻ってくるか。……問いの向きが、逆なんです」
ベガは、しばらく、数でも数えるように目を伏せた。それから、ぼそりと言った。
「噂は、足が速い。村が一つ生き返れば、隣の領へ逃げた者の耳に、半年で届く。……理屈は、通るな」
その理屈の通り道に、アルテミシアの低い声が、静かに割って入った。
「戻れるように、する」
机の上の、三つ目の言葉を、まっすぐ見据えている。
「ええ話だわ。立派な話だて」
声が、一段、低くなった。
「……戻る場所が、まだ在る奴には、な」
私の指が、紙の上で、止まった。
「世の中には」
アルテミシアは、続けた。
「戻る場所が、もう無い奴も、おるんだわ。焼けてまった村。流されてまった、先」
そこで、ほんの一拍、間があいた。
「……売られてまった、先」
最後の一言を置いたとき、アルテミシアの琥珀色の目は、私ではなく、窓の外の、庭の土へ向けられていた。
「そういう奴は」
声は、淡々としていた。淡々と、しすぎていた。
「あんたの、その五つの柱の。……どこに、立てばええの」
部屋が、静まった。
ベガが、目を伏せた。男爵は、何も言わなかった。婦人ロサリンデの、袖を肘掛け《ひじかけ》に預けた手が、ほんのわずかに、握り直された。
シェリーは、アルテミシアを見ていた。何か言いかけて、けれど言葉を見つけられずに、唇を結んだ。
私は、すぐには、答えられなかった。
——戻る場所が、無い者。
その一言が、胸の底へ、重く沈んでいく。
私は、半年かけて、王城の机の上で、法律の骨組みを組んだ。逃げる者を減らし、戻る者を増やす。数字の上では、それで人の数は、支え直せるはずだった。
だけど、その数字の中に。
戻る場所そのものを焼かれた者。奪われた者。……最初から、持っていなかった者。その席は、どこにも、書かれていなかった。
逃げた者は、いつか戻れる。戻る場所が、あるからだ。
戻る場所の無い者は、逃げることすら、できない。逃げた先で、どこにも根を下ろせないまま、ただ、流れていく。
私は、自分の作った骨組みを、初めて、外側から見た気がした。
その視線の先で、窓の外を見つめたままの、アルテミシアの横顔が、目に入った。
——売られてまった、先。
あの一言を、この人は、どこで覚えたのだろう。
ふと、そう思いかけて、やめた。今は、それを問う場ではない。問うては、いけない気がした。
ただ、あの淡々とした声の底に沈んでいたものの重さだけは、確かに、私の胸にも届いていた。
私は、ペンを取った。
三つ目の言葉の、すぐ下の余白に、新しい一行を刻む。それは、法律の文章ではなかった。答えの出ていない、ひとつの問いだった。
『戻る場所の無い者を、どこに迎えるか』
書き終えて、私は、顔を上げた。
「今の私には、答えがありません」
正直に、そう言った。
「逃げた人が戻れる道は、引けます。けれど、戻る場所そのものを失った人を、どこに迎え入れるのか。……それは、まだ、一行も書けていません」
私は、手帳を指で示した。
「だから、消さずに、ここに残します。穴のまま、残しておきます」
私は、続けた。
「埋められないまま法律を通せば、その人たちは、また、誰の目にも映らなくなる。いないことに、されてしまうから」
私は、アルテミシアを見た。
「教えてくださって、ありがとうございます。私の目には、その穴が、見えていませんでした」
アルテミシアは、しばらく、何も言わなかった。
窓の外の庭に、雨上がりの光が落ちている。濡れた土から立ちのぼる匂いが、開いた窓から、薄く流れ込んでいた。
やがて、アルテミシアは、壁に立てかけた松葉杖の片方に、軽く手を添えた。立ち上がるためではなかった。ただ、何かに触れていたかったのかもしれない。
「……ふん」
低い声だった。
「書いとけ。ちゃんと、書いとけよ」
それから、一拍。
「それと」
アルテミシアの目が、わずかに、細くなった。
「迎え入れる、っちゅうなら。その中には、盗賊に落ちた奴も、混じっとる」
私は、息を止めた。
「物を盗られた奴が、おる。身内を殺された奴も、おる。そいつらの隣に、盗った側を、しれっと座らせるんか」
アルテミシアの声は、静かだった。
「迎え入れる側の都合だけで、話を進めるな。盗られた奴の、腹の中も、忘れるなよ」
それきり、アルテミシアは、また窓の外へ、目を戻した。
その横顔を、私は見ていた。怒っているのでも、許しているのでもない。ただ、自分の中の、どこか深いところを見ているような、そういう目だった。
机の上で、五つの言葉が、雨上がりの光に、薄く濡れて見えた。
守る。延ばす。戻す。増やす。数える。
その三つ目の柱の下に、今、答えの無い一行が、確かに刻まれている。
骨組みは、また一つ、穴を増やした。
——それでいい。
私は、そう思った。
穴の在り処が分かるということは。誰かが、その穴に落ちる前に、気付ける、ということだった。
私は、ペンを置いた。窓の外で、雨に洗われた庭の緑が、朝の光をはじいて、静かに光っていた。




