第40話 五つの柱
雨は、夜のうちに上がっていた。
執務室の窓から、朝の光が差してくる。まだ少し、水をふくんだような光だ。
開けた窓から、雨をすった土のにおいが流れこんできた。湿っていて、どこか甘い。
机の真ん中に、古い帳面が一冊、置いてある。
命数帳。この土地で死んだ人の、年齢だけを書き記した帳面だ。
その隣には、私が何日もかけて書いた、法律の骨組みが積んである。
死んだ人を数えた帳面と、これから人を生かすための法律。
並んでいても、この二つは、まったく別の紙だった。
私は、自分の右手に目を落とした。
中指の腹に、洗っても落ちなかったインクのしみが、青黒く残っている。
ろうそくの下で、何度も書いては消し、書き直した跡だ。
ペンを握りすぎて、指の節が、まだ少ししびれていた。
人が、一人ずつ集まってくる。
男爵は、窓を背にして立った。
光を背にしているせいか、その顔のしわが、いつもよりはっきりと見える。
自分がうけとる魔力を、へらし続けている人の顔だった。
その隣の椅子に、婦人のロサリンデさんが腰かけている。
夫の背中を見上げる目を、ときどき、その横顔のしわの上で、そっと止めた。
ベガさんは、かすれた咳をひとつして、机にいちばん近い椅子を選ぶ。
半分閉じた目は、もう帳面の方を向いていた。
シェリーは、壁ぎわで長剣の柄に手をそえている。護衛の立ち位置だ。
でも、その淡い青の瞳だけは、机の上の紙の束に、何度も引きよせられていた。
最後に、扉が開いた。
アルテミシアさんだった。
脇に松葉杖を二本かませて、失った右足をかばいながら、ゆっくりと敷居をまたぐ。
杖の先が床を打つ、かたい音が、二つ、部屋にひびいた。
「シスター様……!」
シェリーが壁からはなれて、思わずそちらへ足を踏みだした。
「まだ、起きあがっては……」
アルテミシアさんは、その動きを、片手で短く止めた。
そして、口を開いた。
「問題ありません」
いつもの訛りを、ていねいにたたんだ、きちんとした言葉だった。
男爵夫妻の前だということを、わきまえた声だ。
「寝ているよりは、ましです。お気になさらないでください」
そのまじめな受け答えに、男爵が、窓辺から静かに声をかけた。
「アルテミシア殿」
低くて、おだやかな声だった。
「この場は、公式なものではありません。私たちはただ、リディア様のお話をうかがいに集まった者です。……どうか、ご自分の話しやすいように、話してください」
アルテミシアさんは、男爵を見た。
それから、少しだけ頭を下げた。
「……ご配慮、痛み入ります」
息を、ひとつ。
肩から、ほんの少し、力がぬけた。
「ほんじゃあ、遠慮せんがね。……寝とるより、ましだでね。これくらい、なんてことにゃあて」
訛りが、戻った。
アルテミシアさんは、戸口にいちばん近い椅子に浅く腰かけて、松葉杖を壁に立てかけた。
それきり、もう何も言わない。ただ、机の上の紙の束を、目だけで見ている。
私は、集まってくれたみんなを、見渡した。
――みんな、来てくれた。
胸の奥で、小さく息をととのえる。
これから私が机の上に置くのは、まだ骨組みだけの、穴だらけの法律だ。
できあがってもいないものを、人前に出す。
王城にいたころの私なら、きっと、耐えられなかっただろう。
すきのない形にきちんと整えてから、はじめて口を開く。
それが、王子としての私のやり方だった。
でも、今はちがう。
整えきる前に、この人たちの目を借りる。
そのために、みんなを呼んだのだ。
「お集まりいただいて、ありがとうございます」
私は口を開いた。声は、思ったよりも落ち着いていた。
「この土地の奉仕のかたちを、根っこから作り直すための……法律の骨組みが、できあがりました」
男爵の眉が、わずかに上がる。視線が、机の上の紙の束へまっすぐ向いた。
「骨組みは、できました。でも、まだ完成ではありません」
私は、机の上の紙の束に、そっと手を置いた。
その紙の重みに指をそえたとき、私の頭の中を、いくつもの顔がよぎっていった。
王が直接おさめる土地の、人のいなくなった村。
そこで、くわを握り直す力さえ、なくしていた二十歳の老人。
五人の孤児を育てながら、自分は奉仕を休ませてもらえず、それでも通い続けていた、木を組む職人のホーク。
腕の骨を折られてもなお、夜ごとに「もう一人産め」と迫られていた、名も知らない母親。
――半年かけて王城で書いた原稿の、どの一行にも。
あの人たちの暮らしの温度は、書きこまれていなかった。
「私は、王子として国を守るために、勉強して、政策を組んで、法律の言葉を整えてきました」
私は続けた。
「でも、この旅で、思い知りました。私は、何も知らなかった。
机の上で数字を並べることはできても……その数字の一つひとつが、誰かの腕の骨や、飢えた子どもなのだということを。
本当の意味では、知らなかったんです」
「ほんとに、なーんも知らんかったがね」
戸口の方から、ぽつりと声が落ちた。
アルテミシアさんだ。あいかわらず、机の上を見たままだった。
「す、すみません」
私が思わず首をすくめると、男爵の口元が、少しだけゆるんだ。
「それで、リディア様」
男爵が、おだやかに尋ねた。
「完成していないものを、わざわざ私たちにお見せになる。それは、なぜでございますかな」
「みなさんに、聞いていただきたいからです」
私は、まっすぐ男爵を見た。
「この骨組みの、どこに穴が空いているのか。私一人では、その穴を埋める経験が、足りません。
だから……みなさんの目を、貸してください」
私は、まず男爵に目を向けた。
地の底にある、あの白い大きな木のこと。
それは、この土地の領主だけが知ることをゆるされた、秘密だった。
私自身、ついこの前それを知って、しばらく言葉を失った。
私の視線の意味を、男爵はすぐに察したようだった。
しばらく、目を閉じる。
それから、深くうなずいた。
「この場の方々であれば……構いません。お話しください」
私は、静かに話しはじめた。
地の底に、この土地を生かし続けている、一本の木があること。
領民が捧げる魔力と、男爵夫妻が注ぐ魔力。
その二つが合わさって、あの木を……ひいては、この土地を、かろうじて支えていること。
核心だけを、短く。余計な飾りは、つけなかった。
シェリーの目が、大きく見開かれた。長剣の柄にそえた手が、知らないうちに固くなる。
ベガさんは、あごひげの奥で、何かを噛みしめるように黙っていた。
婦人のロサリンデさんだけは、表情を変えなかった。
その秘密を、夫とともに長く背負ってきた人の顔だった。
ただ、膝の上で組んだ自分の手元に、静かに目を落としている。
アルテミシアさんの視線が、ちらりと、その手元へ走った。
「奉仕を減らせば、土地が死にます」
私は続けた。
「私はそれを知って、一度、立ちつくしました。
減らすこともできない。続けることも、もうできない。
……出口のない問いに、見えました」
部屋の空気が、少し重くなる。
私は、命数帳の表紙に、もう一度、手を置いた。
「でも」
顔を上げる。
「出口は、あります」
「白礎樹を枯らせば、土地が死ぬ。
みんながそれを知っているから、誰一人、あの木を薪にしようとはしません」
私の声が、静かに部屋へ置かれていく。
「なら……」
一度、言葉を切った。
「どうして、人は枯らしていいのでしょうか」
部屋が、しんと静まった。
ベガさんの組んだ指が、少しだけ動いた。
「私には」
私は続けた。
「領民の一人ひとりが、あの白い大きな木と、同じものに見えるんです。
魔力という実を、毎年つける、一本の木です」
私は、机の上の紙を一枚、指先で軽く押さえた。
「木を根元から切り倒して、薪にしてしまえば。
その冬は、一度だけ、暖かい。
でも、その木は二度と実をつけません。春が来ても、芽を出さない。
……今の奉仕は、それをやっています。木を、切り倒しているんです」
シェリーが、息をのむ気配がした。
「私は、それを変えたい。
切り倒すのではなく、実だけを、毎年いただく。木そのものは、枯らさずに残す」
私は、みんなを見渡した。
「切り倒すことから、実りをいただくことへ。
……これが、この法律の、いちばん深い根になります」
「……あの」
おずおずと手を挙げたのは、シェリーだった。
「言いたいことは、分かる気がするの。でも」
眉をよせて、言葉をさがす。
「奉仕を減らしたら……やっぱり、木に注ぐ魔力も、減ってしまうんじゃないかしら。
土地を支える魔力が、足りなくなるんじゃ……」
「いい質問」
私は、小さく笑った。
笑って、命数帳を開いた。古い紙のにおいが、ふわりと立つ。
この帳面に書いてあるのは、死んだ人の年齢だけだ。
指でページをたどって、ある一行を押さえる。
「五年前に亡くなった、ある男の人です。
十二歳で奉仕に出て、二十三歳で亡くなった。
……この土地の奉仕は、一年に十とします。なら、生きているあいだに捧げた魔力は、十一年ぶんで、百十」
私は、ペン先で別の数を書いた。
「もし、この人が一年に六だけにおさえていたら。
身体を削りきらずに、四十歳まで生きられた計算になります。
十二歳から四十歳まで、二十八年。そのあいだに捧げられたはずの魔力は」
ベガさんの唇が、声にならない数を、小さく数えた。
「……百六十八」
「そう」
私はうなずいた。
「一年にとる量を減らすと、その人が一生のあいだに捧げる魔力は……減るどころか、むしろ、増えるんです」
シェリーが、目をしばたたいた。
開きかけた口が、言葉をさがすように、また閉じる。
帳面の数字から、しばらく目を離せずにいた。
「ただ」
私は、命数帳のページを、そっと閉じた。
「今、言った数は、どれも、確かめたものではありません。
この帳面に残るのは、死んだ年齢だけ。
誰が、どれだけ捧げたのか……それは、どこにも書かれていないんです」
私は、命数帳の隣に積んだ、白い紙の束に手を置いた。
「だから、これから作る仕組みでは、一人ひとりの奉仕を、数で書き留めます。
一年にいくつ捧げたか。あと、どれだけ残っているか。
……それを記す帳面を、命数帳とは別に、新しく作ります」
ベガさんが、低くうなった。
「魔石の奉仕を、数で量る、か」
「はい」
「容易ではないぞ。今のこの土地に、それを測るすべはない」
「分かっています」
私はうなずいた。
「測る方法から、考えます。……数えられないものは、守れませんから」
「ふん」
低くうなったのは、ベガさんだった。
椅子から身を乗り出して、しわだらけの指で、帳面の数字をゆっくりとなぞる。
「林と、同じ理屈だな」
かすれた声だった。
「育つより早く切れば、山は禿げる。育つ範囲で切っているかぎり、薪は尽きん。
……木こりなら、子どもでも知っとる話だ」
「魔力にも、それが成り立ちますか」
私が聞くと、ベガさんはしばらく、あごひげをなでた。
「成り立つ」
低く、言い切った。
「魔力は、身体が作るものだ。身体が自分でおぎなえる量までなら、寿命はほとんど削れん。
その範囲を超えた分から……急に、寿命が削れはじめる」
ベガさんの声が、一段、低くなった。
「特に、いかんのは、育ち盛りだ。
十二やそこらの、まだ身体のできとらん子から採るのが、いちばん、深く削る。
若木を切るのと同じことよ。根が張る前に切れば、二度と、大きくはならん」
私は、ペンを取った。
「では」
紙の上に、ペン先を置く。
「奉仕の始まりを、十二歳から、十五歳に引き上げます」
新しい一行が、刻まれた。
骨組みに、最初の直しが入った瞬間だった。
私は、その一行を、しばらく見つめた。
たった一行。
でも、この一行で、これから生まれてくる何千人もの子どもが、三年だけ長く、ただの子どものままでいられる。
でも、ペンを置こうとして、私の手が止まった。
始まりを三年おくらせれば、その三年ぶんの魔力は、白礎樹に届かない。
一人につき、三年。
それが領地じゅうで積み重なれば、木に注ぐ量は、たしかに、減ってしまう。
「ベガさん」
私は顔を上げた。
「奉仕を十五歳から始めても、この土地がやっていけるのか。
……それは、もう一度、数で確かめないといけません」
ベガさんは、ゆっくりとうなずいた。
「減らした三年を、延びた寿命で、どこまで埋められるか。
……その釣り合いは、まだ、誰も計算しておらん」
「では、それも、宿題です」
私は、紙の端に、小さく印をつけた。
私は、紙の束から一枚を抜いて、机の真ん中に置いた。
そこには、五つの言葉が、順番に並べて書いてあった。
守る。
延ばす。
戻す。
増やす。
数える。
「法律の中身は、この順番に並べます」
私は、一つずつ、指でさししめしていった。
「まず、子どもを死なせない。
次に、大人の寿命を延ばす。
それから、出ていった人を、呼び戻す。
その先で、生まれてくる子を、増やす。
……そして、そのすべてを、さっきの新しい帳面に、数え続ける」
「『増やす』が……四番目、なのね」
シェリーが、ぽつりとつぶやいた。
「ええ」
私はうなずいた。
「生まれてくる子は、目的ではないから。
先に、今生きている人を守って、寿命を延ばして、離れていった人を呼び戻す。
そうやって、土地に人のぬくもりが戻った先に……結果として、子は増えるものだから」
私は、五つの言葉を、もう一度見渡した。
「これは、まだ骨組みです。きっと、いくつも穴があります。
……だから、みなさんの目で、それを探してほしいんです」
短い沈黙が、落ちた。
それを破ったのは、戸口の、低い声だった。
「……三つ目の柱」
アルテミシアさんだった。
その琥珀色の目が、紙の上の、たった一つの言葉を、じっと見すえていた。
「戻す、と書いてあるな」
ゆっくりと、顔を上げる。
その目は、笑っていなかった。
「……誰を、戻すつもりだて」




