第39話 料理
じっとしていられなくて、私は台所へ向かった。
ちょうど夫人が、夕食の支度を始めるところだった。
「あら、リディアちゃん。もう起きて大丈夫なの?」
「はい。——あの、お願いがあるんです」
私は頭を下げた。
「アルテミシアさんに、何か温かいものを作ってあげたくて。手伝っていただけませんか」
夫人は目を丸くした。それから、うれしそうに、ふっと笑う。
「いいわねえ。じゃあシェリーちゃんも呼んで、三人で作りましょう」
簡素な木綿の仕事着に着替えて、私たちは台所に立った。
土間には、茹でた芋の匂いが白い湯気と一緒に広がっていた。ほくほくと甘くて、土の匂いがほんの少し残っている。貧しいけれど、胸の奥をほっとさせる匂いだった。
手を動かしているうちに、胸に残っていた悲鳴の名残も、白礎樹のことも、その湯気の中に少しずつほどけていく気がした。
「今日は、芋団子を作りましょうね」
夫人が、木の鉢の前で袖をまくった。
「干し肉の汁をかければ、それだけでごちそうになるのよ。お肉が少なくても、匂いと塩気で満足できるから」
「はい」
私は真剣にうなずいた。
シェリーも、同じようにうなずく。けれど、その顔はどう見ても、戦場に出る騎士のものだった。
夫人は、茹でた芋を布の上に並べた。
「まず皮をむきます。熱いから気をつけてね」
シェリーが、芋をひとつ手に取った。
「お母様。皮も噛み切れます」
夫人の手が止まる。
私も、芋を見つめた。
「……確かに、食べられますね」
小さく呟く。
「それに、皮を捨てるのは、少しもったいない気もします」
シェリーが、力強くうなずいた。
「ほら。リディーもそう仰っています」
夫人は怒らなかった。ふっと笑っただけだ。
「食べられるものと、おいしい料理は、違うのよ」
私たちの視線が、夫人に集まる。
夫人は、芋の皮を薄くむきながら言った。
「飢えている時は、皮も食べます。もちろん、捨てません。——でもね、誰かに食べてもらう料理にするなら。口に残る固いところや、えぐみのあるところは、取ってあげるの」
皮が、するりと薄くむけた。
「料理はね、腹を満たすだけじゃないのよ。食べる人に、今日は安心していいんだと思わせて、幸せにするものなの」
——食べる人を、幸せにする。
その言葉が、私の胸にすとんと落ちた。
いま私がアルテミシアさんにしてあげたいのは、まさにそれだった。腹を満たすだけなら、療養の粥でも足りる。そうじゃない。あの人に、ほんの少しでも安心してほしいのだ。
「……手間を、かけるんですね」
「ええ。だから、少しでもね」
シェリーが、芋を見た。
「なるほど。敵の鎧を剥ぐようなものですね」
「たぶん違うわね」
夫人が、すぐに言った。
私は、少しだけ笑ってしまった。
皮をむいた芋は木の鉢に入れられ、夫人が木べらでつぶしていく。湯気の中から、甘くて重たい香りが立ちのぼった。
「次はつぶします。端から少しずつね」
「お任せくださいませ」
シェリーが、木べらを構えた。
そして、なぜか鉢の真ん中だけを、力いっぱい押した。
ぐにゅり、と真ん中の芋が沈む。
押された芋は逃げ場を失って、まわりの芋を押しのけ、鉢の縁からぽんぽんと飛び出した。
「あっ」
でも、シェリーの反応は速かった。
身体強化で腕をひらめかせ、飛んだ芋をすべて空中でつかみ取る。
「危なかった……!」
その瞬間、握りすぎた芋が指の間からつぶれて、熱いままどろりと溢れ出していた。
「……逃げました」
「逃げてはいません」
夫人が、静かに言った。
私は口元を押さえた。笑ってはいけないと思うほど、肩が震えてしまう。
つぶした芋に、夫人は黒麦粉を少しずつ振った。
「粉は、雪のように散らすの。芋の上に、まんべんなくね。そうすると、よくなじむから」
「まんべんなく、ですね」
シェリーが、粉の皿を受け取った。
そして、鉢の中央の一か所に、山のように粉を落とした。
白っぽい粉の小山が、芋の上にどっしりとそびえ立つ。
夫人は、しばらくそれを見た。
「……シェリー」
「はい」
「山ではなく、雪にしてほしかったの」
「雪」
シェリーが、粉の山を見つめる。
「では、今から崩せば雪になります」
「ならないわ」
私は、とうとう小さく吹き出した。張り詰めていたものが、その笑いと一緒に、ふっとゆるむ。
夫人が粉を散らし直して、芋をまとめていく。
私はその手元を見ながら、そっと生地に触れた。
まだ熱が残っている。柔らかくて、指先に粘りつく。けれど、強く握らず、手のひらで包むようにすると、きれいに丸くまとまった。
「リディアちゃん、上手ね」
「……なぜか、こうすればいい気がして」
私は、小さく答えた。
手のひらで転がして、平たく押す。厚すぎると中まで火が通らないし、薄すぎると割れてしまう。
これはアルテミシアさんの分。これはシェリーの。これは男爵と夫人の。
一つひとつ、食べる人の顔を思い浮かべながら丸めていく。たったそれだけのことなのに、不思議と胸の奥が温かくなった。
鉄板が炉にかけられる。
「火は中くらいでね。強すぎると、外だけ焦げて、中が冷たいままになるの」
夫人が言った。
シェリーが、炉を見る。
「ですが、火が強ければ、時間の短縮になります」
「ならないのよ」
「戦いなら、早く攻めた方が勝てることもあります」
「芋団子は城ではありません」
鉄板に芋団子を並べると、じゅう、と小さな音がした。
やがて表面がきつね色に焼けて、甘くて香ばしい匂いが立ち始める。芋の甘さに、焦げた粉の香りが混じった。台所の空気が、少しずつごちそうの匂いに変わっていく。
別の鍋では、細く刻んだ干し肉と玉ねぎが煮えていた。
湯気には、干し肉の塩気と脂の匂い、玉ねぎの甘い匂いが混じっている。肉は少ないのに、汁は驚くほど豊かに感じられた。
夫人は焼き上がった芋団子を皿に並べ、その上から熱い干し肉の汁を回しかけた。
じゅわ、と汁が染みる。焼けた面が少しやわらかくなって、香ばしさと肉の匂いが、ひとつになった。
それから夫人は、もうひと皿を別に用意した。
焼いた芋団子を汁にたっぷり浸してくずし、やわらかく煮た青菜を添える。歯の弱った人でも食べられそうな、胃にやさしい一皿だった。
「アルテミシアさんは、大怪我から目を覚ましたばかり。いきなり脂っこいものは、胃に障るからね」
夫人は、その盆を私の手に、そっと持たせた。
「さあ。これを届けてあげなさい」
私はその盆を、両手でそっと運んだ。
アルテミシアさんの部屋の扉を、肘でこつこつと叩く。
「アルテミシアさん。——お待たせしました」
寝台のアルテミシアさんは、湯気の立つ盆を見て、わずかに目を見開いた。
「……ほう。本当に、作ってきたんか」
「みんなで作ったんです。胃にやさしいように、やわらかくしてあります」
私は、寝台の脇に盆を置いた。
アルテミシアさんは木の匙で、汁に浸った芋団子をすくい、口に運んだ。ゆっくりと噛みしめる。
いつも険しいその目もとが、ほんの少しだけ、やわらいだ。
「……美味い」
ぽつりと言った。
「療養の飯とは、えらい違いだわ」
「よかった」
私は、ほっと息を吐いた。
アルテミシアさんは、もう一口すくいながら、ぼそりと付け加えた。
「あんたみたいなのが上に立つ国なら……まあ、腹は冷えんかもしれんわ」
それは、この口の悪いシスターから引き出せる、いちばんの褒め言葉のように、私には思えた。
その晩の食卓もまた、特別においしかった。
男爵もベガさんも、貧しい料理を心からおいしそうに平らげる。肉は少なく、粉もわずか。芋も、形の悪いものばかりだった。それでも、湯気の向こうの食卓は、確かに温かかった。
私は、皿の上の芋団子を、しみじみと見つめた。
ふと、地下のあの白い大樹が、頭をよぎる。
あの木は、土地をただ「生かして」いた。ただ、それだけを。
——けれど、これは。
皮をむいて、えぐみを取って、汁をかけた。たったそれだけの一皿が、さっき、アルテミシアさんの険しい目もとを、わずかにやわらげたのだ。
夫人の言葉が、胸の奥で、静かに芽を出していく。
私はそれ以上、言葉にはしなかった。ただ、この温かさを、しばらく噛みしめていた。
「リディアちゃん。おかわりは?」
「——あ。いただきます」
私は、もう一つ芋団子を頬張った。
その甘さの中で、胸にのしかかっていたものは、まだ消えてはいなかった。それでも、確かに、ひとまわり軽くなっていた。
白礎樹のことも、ヨゼフのことも、アルテミシアさんのことも。すぐには、何ひとつ答えは出ない。
それでも今は、この温かい一皿を分け合える食卓が、ここにあること。
それだけで、もう少し、歩いていける気がした。




