第38話 フラッシュバック
地下から戻ってきたとき、私の足取りは重かった。
あの白い木のこと。男爵と婦人が、こっそり自分の命を削って、木に力を与えていたこと。知ってしまったものが、胸の奥に、ずしりと残っていた。
書斎へ続く階段を、上がっていく。
すると、廊下の奥から、慌てた声が聞こえてきた。
「旦那様! 奥様! シスター様が……!」
メイドの声だった。
その一言で、胸の重さが、すっと後ろへ押しやられた。
「アルテミシアさんが?」
私は、思わず声を上げた。
男爵と婦人、そして私は、急いで療養の部屋へ向かった。
廊下の先で、アルテミシアが、メイドに支えられて、壁にもたれていた。肩で、荒く息をしている。
「あらあら、まあ」
真っ先に、婦人が駆け寄った。
「いけませんよ、アルテミシアさん。あなたは、まだ寝ていないと。足が、繋がったばかりなのですから」
「……すみません」
アルテミシアの声は、かすれていた。
「じっと、していられない性分でして」
「アルテミシアさん……!」
遅れて、私も駆け寄った。
目を覚まして、こうして立っている。それだけで、足が自然と速くなる。
――よかった。本当に、よかった。
でも。
壁にもたれたアルテミシアの姿が、目に飛び込んできた。
片足に体を預け、脇に松葉杖をかませている。
その姿を見た、その瞬間だった。
頭の奥で、何かが鳴った。
枝を杖の代わりにして、片足で立つ、低い影。それが、まっすぐこちらへ向かってくる。歩みは、遅い。なのに、一歩ごとに、肌がひりついた。
――殺される。
そう思った瞬間、私の中で眠っていた記憶が、また目を覚ました。
それは、私のものではない記憶。ヨゼフが、最後に見た光景だった。
何度も、夜の寝床でよみがえっては、そのたびに蓋をしてきた光景。
目の前で、兄弟を斬り殺された。残された者を、誰が食わせてやれる。――こんなところで、死ぬわけにはいかない。
そして、開いた口の奥へ、滑り込んでくる、冷たい刃。
もう、受け止めたはずだった。
なのにそれは、私自身の記憶みたいな顔をして、また生々しく溢れ出した。
「――っ、あ……あぁっ!」
喉から、ひきつれた声が漏れた。
片手が、勝手に自分の口元を覆う。ありもしない刃が、喉の奥から口の中へ、滑り込んでくる。その冷たさが、はっきりと走って、舌の根が縮み上がった。
膝から、力が抜ける。
「リディア様!」
「リディアちゃん!」
男爵と婦人の声が、遠くに聞こえた。
視界が、ぐにゃりと歪む。廊下の床が、せり上がってくる。
私は、その場に崩れ落ちた。
意識が、暗い底へ沈む、その寸前。
誰かの腕が、私を抱き起こそうとするのを感じた。
そして――壁にもたれたアルテミシアが、こちらを見て、唇を固く噛みしめているのが、霞む視界の隅に映った。
その表情の意味を、考える間もなく。
私の意識は、ふつりと途切れた。
◇ ◇ ◇
頭に、温かい手のひらの重みがあった。
もう一度、目を開けたとき、寝台の脇にベガさんが立っていた。皺だらけの手が、私の額に、そっと置かれている。その手から、淡い熱が、伝わってきた。
ベガさんは、しばらく黙っていた。
「……もう、大丈夫そうじゃな」
ベガさんは、手を離した。
「ゆっくり、休みなさい」
そう言い残して、静かに部屋を出ていった。
窓の外は、もう夕暮れの色をしていた。どれくらい、気を失っていたのだろう。
枕元の椅子では、シェリーが心配そうに、こちらを覗き込んでいた。
「リディー。気がついた?」
「……シェリー」
私は、ゆっくりと体を起こした。
頭の痛みは、もう引いていた。でも胸の奥には、あの悲鳴の名残が、まだざらりと貼りついている。
「……私、倒れたんだね」
「うん。アルテミシアさんを見て、急に叫んで」
シェリーはそう言ってから、言葉を探すように、少し黙った。
「起きてくれて、よかった」
短い声だった。
私は、思わずシェリーを見る。
シェリーは寝台の脇に座ったまま、膝の上で、両手を握りしめていた。剣を握るときとは、違う。何かをこらえるような、頼りない手だった。
「リディーが倒れたとき、怖かった。でも、それより……リディーが、私の知ってるリディーじゃないみたいに見えたの。すごく、苦しんでるみたいで」
「シェリー……」
シェリーは、ゆっくりと首を横に振った。
「ひとりで、抱え込まないで。せめて、苦しいときくらい、そばにいさせて」
その声は、護衛のものではなかった。
ただ、大切な人が傷ついているのを、見ていられない。そういう、十八歳の少女の声だった。
私は、しばらく黙っていた。
「……ありがとう」
私は、シェリーの手に、そっと自分の手を重ねた。
「……そばにいてくれるなら、嬉しい」
シェリーが、小さく息を呑んだ。
それから、私の手を、そっと握り返してくれた。
「うん。いる。ちゃんと、そばにいる」
私は、しばらく、その手の温もりを感じていた。
でも、胸の奥には、まだ別の重さが残っていた。
――アルテミシアさんに、申し訳ないことをした。
まるで、彼女の姿に怯えたみたいに。あの、唇を噛んだ横顔が、頭から離れなかった。
ヨゼフの記憶のことは、口にするわけにはいかない。話せば、また、余計なことを聞かれてしまう。
だけど、せめて謝ることだけは、しなければならない。
私は、寝台から足を下ろした。
「シェリー。アルテミシアさんの部屋へ、連れて行ってくれる?」
◇ ◇ ◇
アルテミシアは、寝台に身を起こして、窓の外を眺めていた。
私が入っていくと、その視線が、静かにこちらへ向いた。
「……立てるんか」
ぶっきらぼうな、けれど、案じる響きの声だった。
「はい。お騒がせ、しました」
私は、寝台の脇まで進んだ。そして、深く頭を下げた。
「アルテミシアさん。――ごめんなさい」
「何のことや」
「目を覚まされたばかりなのに。私、あんな……アルテミシアさんを見て、悲鳴を上げて、倒れたりして」
「あぁ」
アルテミシアは、ふっと息を吐いた。
「気にせんでええ」
その声は、意外なほど、穏やかだった。
「あんたが、あの戦場で、何を見たか。何を背負ったか。――うちには、見当もつかん。けど、あんたが軽い気持ちで叫んだんやにゃあことくらいは、分かる」
アルテミシアは、自分の右足へ、目を落とした。
「足のひとつくらい、安いもんだて。うちは、自分で切ったんだでな。あんたが、気に病むことやにゃあ」
突き放すようで、どこか温かい言い方だった。そのおかげで、胸のこわばりが、少しだけほどけた。
それでも、私は、まだ頭を上げられなかった。
「……なんで、助けに来た」
アルテミシアが、ぽつりと言った。
「うち一人くらい、自力で逃げられたて」
私は、顔を上げた。
「……でも。心配、だったんです」
「王族の命が、シスター一人の命と、釣り合うわけ、なかろうが」
アルテミシアは、ふいに窓の外へ、目を逸らした。自分の言葉を、自分でなぞるみたいに。
その横顔を、私は、まっすぐ見た。
「アルテミシアさんは、私を、何度も救ってくれました。――そんなあなたを見捨てるような人には、私は、なりたくないんです」
アルテミシアの目が、まるく見開かれた。
その目が、つかの間、揺れる。何か言いかけて、口をつぐみ、それから、視線をわずかに逸らした。
「……盗賊の一人が」
アルテミシアは、低く続けた。
「もう一人のシスターを呼び出すために、うちを人質に使ったと、聞いてな。――焦ったがね。あんたらが、うちのせいで、危ない目に遭うんやにゃあかと」
「すみません。でも……」
「でも、助かった」
アルテミシアは、私の言葉を、そっと遮った。
そして、しばらく口を閉ざした。何かを呑み込むように、喉が、小さく上下する。
「……礼を、言うわ。――ありがとうな」
「え。あ……」
私は、面食らった。
「なんや、その顔は」
アルテミシアが、片眉を上げる。
「礼くらい、ちゃんと言えるて」
「そ、そうですよね……」
ふいに、二人の間に、沈黙が落ちた。
夕暮れの光が、寝台の白い布を、ほのかに染めている。
その静けさが、しばらく、続いた。
ぐぅぅ――。
間の抜けた音が、ひとつ響いた。
アルテミシアの、腹の音だった。
私は、思わず目を向ける。だけどアルテミシアは、恥じる様子も見せず、平然と腹をさすった。
「腹が、減ったわ。――数日も、泥のように寝とったもんでな」
「……でしたら。何か、作らせてください」
私は言った。
「謝るだけでは、気が済みません。それに――お腹も、空いてるんですよね」
アルテミシアは、しばらく私を見ていた。
それから、ふと悪戯っぽく、口の端を上げた。
「ほんなら――何か、うみゃあもん、食わせてくれ。療養の食事は、味気のうて、敵わん」
その言葉に、私はふと、前のことを思い出した。
アルテミシアが分けてくれた、塩気の強い干し肉。表面に、粗い香辛料がまぶされていて、噛むたびに、塩と刺激が、じわりと広がった。決して、上等な食べ物ではなかった。あの時は、慣れない味に、舌が跳ねもした。それでも――空腹を抱えた、あの日の私には、不思議と、温かい味がした。
「前に、アルテミシアさんがくださった、干し肉」
私は、ぽつりと言った。
「あの時の私には、とても、温かい味がしたんです」
「干し肉?」
アルテミシアが、目を瞬かせる。
「あんなもん、ただの保存食だがね」
「でも、私は、嬉しかったんです」
私は、少しだけ笑った。
「だから今度は、私が、何かを作りたいんです。……美味しく作れるかは、分かりませんけど」
「おい」
アルテミシアの眉が、ぴくりと動いた。
「今、不安なことを、言わんかったかね」
「温かいものなら、作れます。たぶん」
「たぶん、て」
アルテミシアは、呆れたように、息を吐いた。
だけど、その口元には、ほんのわずかに、笑みが浮かんでいた。
「まあ、ええわ。腹に入れば、だいたい、何とかなる」
「それは、少し、責任が重いですね」
私も、少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
それは、私なりの、償いだったのかもしれない。
ヨゼフの絶望を、肩代わりすることはできない。アルテミシアの失った足を、私の手で戻すこともできない。
だけど、温かい食事の一皿なら。今の私にも、作れる。
私は、その足で、台所へ向かった。
胸の奥の重さは、まだ消えていない。白礎樹のことも、ヨゼフのことも、何ひとつ、解決していない。
それでも――今、目の前の一人を、ほんの少しでも、安心させること。
その小さなことが、どうしても、したかった。




