第37話 白礎樹《はくそじゅ》
私は、スミス男爵と夫人に連れられて、書斎の奥へと進んだ。
男爵が、本棚の一冊を奥へ押し込む。
すると、低い音がした。
棚の一部が、壁ごと横へずれていく。
その裏に、暗い階段が口を開けていた。
下へと、まっすぐ続いている。
「どこへ、行くのでしょうか」
私が尋ねると、男爵はランプを手に、先を歩きながら答えた。
「リディア殿には、ぜひ知っておいてほしいのです。——ここは、領地を任された貴族だけが知る、秘密の場所でしてね」
階段を、ずいぶん降りた。
地下の冷たい空気が、肌にまとわりついてくる。
降りきった先に、少し広い場所があった。
その奥に、一枚の扉が立っている。
金属でできた、大きな扉だ。
継ぎ目には、青黒い錆が浮いている。
人ひとりの力では、とても開きそうにない。
——身体強化が使えなければ、入れないのだろうか。
そう思った。
けれど、その考えはすぐに外れた。
男爵は、懐から大きな鍵を取り出した。
それを鍵穴に差し込み、回す。
重い手応えとともに、内側で、鍵の開く音がした。
それから男爵は、扉にはめ込まれた魔石に、手のひらを当てた。
そして、低い声で唱える。
「——礎を護り、土地を生かしたまえ」
ゴゴゴゴゴ……。
腹の底に響くような音とともに、大きな扉が、ゆっくりと内側へ開いていく。
男爵と夫人が、中へ入っていった。
私も、その後に続く。
少し進むと、視界がひらけた。
円柱のような、大きな空間だった。
その中央に——一本の、白い大樹が立っていた。
天井の暗がりへと、枝を広げている。
幹も葉も、雪のように白い。
床には、その木を囲むように、複雑な紋章が、いくつも刻まれていた。
そして、不思議なことに。
この地下深くに、明かりは一つもない。
それなのに、あたりはほのかに明るかった。
壁や柱が、淡く光を放っている。
けれど、その光は、少しもまぶしくなかった。
私は、あたりをぐるりと見回した。
壁に沿って、柱が同じ間隔で並んでいる。
その一本に近づいて——私は、息をのんだ。
柱は、人の形をしていた。
腕を組み、うつむいて立つ、人の姿。
それが石のように固まり、淡く光っている。
数えてみれば、ざっと百体ほどはありそうだった。
——人の、形をしている。
その一つひとつの臍に、魔石が一粒ずつ埋め込まれていた。
私の目は、ひとりでに、その規則正しさをなぞっていく。
同じ間隔で並び、同じ場所に石を抱いている。
たまたま石になった人が、こんなにきちんと並ぶはずがない。
誰かが、あるいは何かが、こうなるように、ここへ置いたのだ。
——なぜ、人の形でなければならないのか。
——なぜ、石は臍に。
いくつもの疑問が、枝のように分かれていく。
けれど、そのどれもが、答えにたどり着く前に、ぷつりと途切れた。
首のうしろの毛が、ぞくりと逆立った。
男爵も夫人も、この人柱については、何も説明しない。
今は、問うべき時ではない。
私は、喉まで出かかった疑問を、いったん胸の奥へ押し戻した。
けれど、押し戻したそれは、胸の底で、小さく、うずき続けていた。
「リディアちゃん。こっちへ、来てちょうだいな」
夫人が、一本の人柱の前で手招きした。
その人柱の、臍のあたりに、魔石が一つ埋め込まれている。
「ここの魔石に、手を当ててちょうだい」
私は、言われるまま、その魔石にそっと手のひらを当てた。
ひやりと冷たいものが、手のひらに触れる。
——何も、起きない。
そう思った、その時だった。
指先の奥から、冷たく、ねばつくものが、つうっと手首へ昇ってきた。
ひどく、古い感じがした。
声にならない声のかけらが、いくつも、もつれ合いながら、私の指先をかすめていく。
誰のものとも知れない、底のない疲れ。
そして——言葉にできない、くやしさのような気配。
頭の奥で、低い音が、ひとつ鳴った。
前にも何度か聞いた、あの嫌な音だった。
私は、とっさに手を引きかけた。
けれど、引かなかった。
冷たいものは、もう引いていた。
手のひらには、ただ、魔石のほのかな冷たさだけが残っている。
——今のは。
問う相手は、ここにはいなかった。
「これで、リディア殿も、この部屋に入れるよう、登録できました」
男爵がうなずいた。
「扉の鍵を開け、その魔石に手を当てれば、いつでも、ここへ入れます」
「ありがとうございます。——でも」
私は、中央の白い大樹を見上げた。
「この部屋は、何なのでしょうか」
「お見せしましょう」
男爵は静かに言った。
「リディア殿は、紋章の外にいてください」
男爵と夫人は、大樹の根元へ歩み寄り、その前に、ひざをついた。
そして、祈るように、頭を下げる。
二人は懐から魔石を取り出すと、床の紋章の上に、そっと置いた。
「——礎を護り、土地を生かしたまえ」
夫人の唱える声に合わせて、床の紋章が、ほのかに光り始めた。
光は紋章の線を伝い、中央の大樹へと流れ込んでいく。
その瞬間。
私の視界の端から、目もくらむような光の線が、いくつも立ち上がった。
——これは。
放たれた魔力が、求めてもいないのに、私の中へ流れ込んでくる。
それと絡み合うように、床に刻まれた紋章のすべてが、一枚の設計図となって、頭の中へ焼きついていった。
どの本にも載っていない、古くて、とてつもなく大きな、魔法の仕組み。
線の一本一本が、いつ、どこから、どれだけの魔力を吸い上げ、どこへ送るのか。
その流れの形までが、組み上がっていく順番のまま、私の頭の中で、はっきりとした形になっていく。
頭の奥で、また、低い音が鳴った。
視界の端が、わずかに、薄れていく。
立っているだけなのに、足の裏が、床から浮き上がりそうな気がした。
私は奥歯をかみしめ、込み上げるめまいを、喉の奥でこらえた。
それと同時に、白い大樹もまた、内側から光り出した。
そして——カッ、と。
大樹が、一瞬、輝いた。
私は思わず目を細める。
光が収まった後、大樹は、それまでよりも、いっそう澄んだ白色に変わったように見えた。
男爵と夫人が、ゆっくりと立ち上がり、こちらへ戻ってくる。
その足取りは、来た時よりも、少し重そうだった。
「説明しましょう」
男爵は、大樹を見上げた。
「この木は——白礎樹、といいます」
その声には、神殿で祈るような、厳かな響きがあった。
「白礎樹は、領土の礎です。
これに魔力を与えることで、領内の土が豊かになる。芋が実り、麦が育つ。
——逆に言えば、この木が魔力を失えば、土地はやせ、作物は実らなくなる」
私の頭の中で、いくつもの記憶が、つながっていった。
本で読み、人々から聞いてきた、あの仕組み。
その正体が——今、目の前に立っていた。
「そして」
男爵は白い幹へ歩み寄ると、その表面に、そっと手のひらを重ねた。
幹に触れた手の甲には、しみと、細かなしわが、いくつも走っていた。
指先が、わずかに震えている。
ついさっき、この木へ自分の魔力を注いだばかりの手だった。
「万が一、この白礎樹が枯れた時には」
男爵の声が、低く沈んだ。
「神がお怒りになり、天変地異が起きる——そう、言い伝えられています」
老いて、しみの浮いた手のひら。
そのすぐ向こうに、雪のように白く、なめらかな、若い木の肌。
私の視線は、その境目から、離れなかった。
私は、言葉を失った。
土地に魔力を与える。
そのことは、知っていた。
けれど、それが——この一本の木を通して行われているとは。
初めて知る、事実だった。
「現在は」
男爵は続けた。
「領民が差し出してくれた魔力と、私たち夫婦の魔力。
その両方を合わせて、ようやく足りている量です」
「土地の広さによって、必要な量は変わります。
我が領では、魔力を差し出す日は、一年に四度」
男爵は、そう締めくくった。
神秘的な空間だった。
白く光る大樹。
それを取り囲む、百の人柱。
床に刻まれた、紋章の渦。
そのすべてが、この土地の命を、静かに支えている。
——けれど。
私の胸の奥が、足元から、重く、ふさがれていった。
ここへ来る前まで、私はこう考えていた。
平民の寿命を削る、魔力の差し出し。
それを少しずつでも減らしていけば、人々の暮らしは楽になる、と。
だが——この白礎樹を見て、その考えが、どれほど甘かったかを思い知った。
差し出す魔力を減らせば、白礎樹に注ぐ分が足りなくなる。
木が弱れば、土地がやせる。
土地がやせれば、作物が実らない。
作物が実らなければ——人々は、寿命を削られる前に、飢えて死ぬ。
豊かな土地に住む。
その代償が、自分の寿命。
この問いは、私が思っていたよりも、ずっと根が深かった。
出口は、どこにも見えなかった。
「リディア殿」
黙り込んだ私の肩に、夫人がそっと手を置いた。
「ここで見たことは、すぐに答えが出るような、軽いものではありません。
——だから、今日は、もう考えるのはおやめなさい」
夫人の手のひらは、温かかった。
けれど、その手の甲には、つい先日まではなかったはずの、新しいしわが、確かに刻まれていた。
今も、この人は、自分の寿命を、あの木に注いだのだ。
私は、何も言えないまま、ただ、白く光る大樹を見上げていた。
その根が、地のどこまで伸びているのか。
私には、まだ、見当もつかなかった。




