↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

39/48

第36話 ロディー(後編)



 屋敷に戻ると、玄関の広間で夫人が待っていた。


「あら」


 夫人の目が、私の手の中の桃に止まる。

 まるくなった目が、ぱっと輝いた。


「まあ、おいしそうな桃。夕食に出しましょうね」


「はい」


 私は、なんだかうれしくて、二つの桃をそっと差し出した。

 手放したあとも、手のひらには、あの甘い匂いが残っている。


 夫人は桃を受け取ると、思い出したように言った。


「ああ、そうそう。今日はね、お湯をわかしているの。二人とも、一緒に入ってちょうだいな」


「「え?」」


 私とシェリーの声が、また重なった。


 思わず、顔を見合わせる。


「で、でも。その、私は……」


 言葉が、うまく出てこない。


「そ、そうですよ、お母様」


 シェリーまで、めずらしく声を上ずらせている。


「さすがに、一緒は……」


「何を言っているの」


 夫人は、おっとりと笑った。


「二人とも、立派な女の子じゃないの。それに、お湯をわかすのも、タダじゃないのよ。仲良く、一緒に入ってちょうだいな」


 私とシェリーは、結局、引きずられるようにして、お風呂へ向かった。


 白い湯気が、ゆらゆらと立ちのぼっている。

 花のような、いい匂いのする油が、ほのかに香っていた。

 スミス家の、ささやかな、ぜいたくだ。


 でも。

 私の中にいるロディエットの心は、もう限界だった。


 ——正気か。いや、正気じゃない。


 私は十六年間、王族として、きびしい品位《ひんい》の中で生きてきた。

 魔石の力で体を整え、他人の肌に、むやみに触れることもなく。

 触れられることも、なかった。


 それなのに今。

 十八になった親戚の――年頃の女の子と、同じお湯に入ろうとしている。


 法を学ぶ者として。

 頭の奥で、警報が、けたたましく鳴り響いていた。


 服を脱ぐあいだも、私は必死に、天井の木目を見つめ続けていた。

 そこから、視線を動かせなかった。


「……リディーって、本当に女の子なんだよね」


 シェリーが、服に手をかけたまま、迷うようにつぶやく。


 その声に、責める色も、からかう色もなかった。

 頭では分かっていても、心が追いつかない。

 そんな戸惑いだけが、にじんでいた。


「さ、先に入ってるね!」


 私はほとんど逃げるように言って、先にお風呂へ、身をすべり込ませた。


 お風呂の床の冷たさが、足の裏に伝わった、その瞬間。


 私が命じるより早く、体が勝手に、びくりと縮こまった。


 両腕が、ひとりでに、胸の前で交わる。

 腰が、私の意志とは関係なく、内股の歩き方を選んでいく。


 ——これは、私の動きじゃない。


 借り物のこの体が、恥ずかしさのままに、勝手に動いていく。

 自分の体なのに、まるで他人みたいだった。

 私は、ただ、戸惑うしかなかった。


 少し遅れて、シェリーが入ってくる気配がした。

 湯船のふちに腰かけたその姿が、湯気の向こうに、ぼんやりとにじむ。


「……っ」


 私は慌てて、目を伏せた。


 熱い湯気が、顔をなでているはずなのに。

 首筋を、冷たい汗が、つうっと伝った。


 どこを見ればいいのか、分からない。

 少しでも顔を上げれば、剣で鍛えた幼《おさな》なじみの姿が、目に入ってしまう。


 それは、王子としての私の品位が、音を立てて崩れることを意味していた。


「背中、洗うよ」


 ぎりぎりの緊張の中で、やっと絞り出した声は、自分でも分かるほど、かすれていた。


 それは、私にとって、たった一つの逃げ道だった。

 背中を流すなら、相手の方を、見なくて済む。


「え。あ、うん」


 シェリーが、こくりとうなずいて、背を向ける。


 私は布に、香りのいい油を含ませて、その広い背中に、そっと触れた。


 ——その瞬間。指先に、何かが伝わってきた。


 それは、思っていたような、なめらかな肌の感触ではなかった。


 引きしまった肩。

 背中や腕に、何本も走る、硬く盛り上がった、古い傷あと。


 それは、彼女が私を――ロディエットを守る盾として、剣を振るって生きてきた、長い年月のあかしだった。


 ——この子は。こんなにも。


 その傷の手触りが、私の頭の中にあった、くだらない戸惑いを、一瞬で、冷たい後ろめたさへと変えた。


 恥ずかしさで、うろたえている場合じゃない。

 この子は。スミス家の人たちは。

 これだけのものを、たった一人の体で、受け止めてきたんだ。


 私は奥歯をかみしめて、女の子の柔らかな指で、その傷あとを、一つずつ、ていねいに流していった。


 それから、二人は入れ替わった。


 今度はシェリーが、私の背中を流してくれた。

 長い黒髪を、指でとかしながら、ていねいに洗ってくれる。

 剣を握る手とは思えないほど、優しい手つきだった。


「……本当に、女の子なんだね」


 ふいに、シェリーがぽつりと言った。

 背中をなぞる指が、一瞬、止まる。


「なんか、変な気持ち」


「……ごめんね」


 私が小さくそう返すと。


 シェリーは、はっと息をのんだ。

 慌てたように、お湯で私の背中を流す。


「ち、違うの。リディーだって、大変だったのに……ごめんなさい。悪気は、なかったの」


「ううん」


 私は首を振った。


「大丈夫。気にしないで」


 やがて、二人は並んで、お湯に身を沈めた。


 お湯の中。

 さっきのことがあってから、シェリーは黙り込んでしまった。


 湯気の向こうで、自分の両手を、じっと見つめている。

 開いて、握って、また開く。

 何かを確かめるような、頼りない仕草だった。


「シェリー」


 私は、静かに声をかけた。


「今日は、ありがとう」


「……うん」


 返事は、短かった。


「シェリー。どうしたの」


 しばらく、お湯の揺れる音だけが、辺りに満ちた。


 やがて、シェリーが、ぽつりと口を開いた。


「いつもはね」


 シェリーの声は、湯気に溶けてしまいそうなほど、小さかった。


「お母様も一緒に、お風呂に入っていたの。……でも、今日は入らなかった」


 私は、何も言わずに、続きを待った。


「お母様の手。最近、しわが増えていたの」


 シェリーの指が、お湯の表面をなぞる。


「それなのに。私たちが帰ってきてから、お父様もお母様も、ずっと、私たちを癒してくれた。アルテミシアさんの足まで、つないで。……それで、一気に老けてしまったの」


 私の胸が、ずきりと痛んだ。


「私が」


 私は、うつむいた。


「私が、助けに行きたいって言ったから……」


「ううん」


 シェリーは、すぐに首を横に振った。


「リディーが悪いわけじゃない。私だって、あの時は、あれしかないって思ってた」


「でも……」


「でもね」


 シェリーの声が、少しずつ、震え始めた。


「アルテミシアさんの、つながれた足を見たとき。……思っちゃったの」


「人って、こんなに簡単に、欠けてしまうんだって」


 湯気の向こうで、シェリーの肩が、小さく揺れた。


「お父様も、お母様も。永遠に、そこにいてくれると思ってた。ロディーだって、ずっとロディーのままだと思ってたのに。


 みんなも、市民の人たちみたいに、あっけなく死んじゃうのかなって。

 そう思ったら……」


 そこで、声がくずれた。


 シェリーが、お湯の中で泣いていた。


 私の前で、初めて見せる涙だった。


 いつも誰かを守る側にいた子が。

 守られていた頃の、ただの子供の顔に、戻っていく。

 そんな瞬間だった。


 私は、軽々しい慰めを、口にしなかった。


 「大丈夫」とは、言わなかった。

 「私が、なんとかする」とも、言わなかった。


 それは、嘘になるから。


 人が欠ける。人が死ぬ。

 それを止める力なんて、今の私には、ない。

 風の王座で、いやというほど、思い知ったばかりだった。


 だから。

 軽い言葉で、この涙にふたをすることだけは、したくなかった。


 代わりに、私は。


 お湯の中で、シェリーの手を、そっと取った。

 そして、泣きじゃくるその背中に腕を回して、静かに抱きしめた。


 シェリーの濡れた肩が、私の腕の中で、何度も、小さく震えていた。


 お風呂から上がると、二人は私の部屋へ戻った。


 私は、椅子に座らせたシェリーの、濡れた白銀《はくぎん》の髪を、布でていねいに拭いていった。

 それから、櫛《くし》を手に取って、ゆっくりと、その髪に通していく。


 いつもは守られている私が、シェリーの世話を焼いている。

 立場が、逆になっていた。


 シェリーは、黙って、されるがままになっていた。

 泣いた後の、静かな横顔で。

 櫛が髪をすべる、その規則正しい感触に、身を預けている。


 やがて、シェリーが、ぽつりと言った。


「ロディエットも」


 櫛を持つ私の手が、止まった。


「こうやって、わたしの髪をとかしてくれたこと、あったな」


 シェリーは、懐かしそうに目を細めた。


「小さい頃。急な雨が降って、二人ともびしょ濡れになって。

 あの時、ロディエットが、わたしの髪を、こんなふうに、不器用にとかしてくれて……。櫛じゃなくて、指で、ね」


 ——指で。


 私は、その光景を思い浮かべようとした。


 雨の匂い。濡れた前髪。

 もつれた、幼いシェリーの髪。


 だけど。


 ——何も、出てこない。


 そこにあるはずの記憶が、すっぽりと、抜け落ちていた。


 私は、もう一度、思い出そうとした。

 急な雨。びしょ濡れの二人。指でといた髪。

 シェリーが、こんなにも懐かしそうに話す、その日。

 私が、ロディエットだった、その日。


 それなのに……手のひらで、空気をつかもうとするみたいに。

 何の手応えも、なかった。


「……え」


 声が漏れそうになって、私は慌てて、のみ込んだ。


 背筋に、冷たいものが伝った。


 ——どうして。


 思い出せない。

 覚えていて、当たり前のはずなのに。

 シェリーとの、大切な思い出のはずなのに。


 櫛を持つ私の指が、かすかに震えた。


 この震えを、シェリーに気づかれてはいけない。

 私は奥歯をかみしめて、止まっていた手を、また、ゆっくりと動かし始めた。


 何事も、なかったように。


 シェリーは、目を閉じたまま、まだあの日の話を続けている。

 懐かしさにひたるその横顔は、私の胸の中で広がっていく、正体の分からない不安に、少しも気づいていなかった。


「……そう、だったね」


 私は、やっとのことで、そう相槌を打った。


 それが嘘なのか、本当なのかも、自分でも、分からなかった。


「リディアちゃん、シェリーちゃん。お夕食ができましたよ」


 階段の下から、夫人ののんびりとした声が響いた。


 その明るい声に、私の胸の不安が、いったん押しやられる。


 二人は顔を見合わせて、食堂へ降りていった。


 食卓には、温かい湯気の立つ料理が並んでいた。


 そして、その真ん中に。


 切り分けられた、あの桃が、お皿に盛られている。

 淡い紅色の果肉が、灯りを受けて、しっとりと光っていた。


 私の目は、その一皿に、釘づけになった。


「さあ、どうぞ。一番よく熟れたところを切ったのよ」


 夫人が、そう勧めてくれる。


 私はフォークで、一切れをそっと持ち上げた。

 果肉の表面を、透明なしずくが、つうっと伝う。


 口へ、運ぶ。


 その、瞬間。


 甘い果汁が、口の中いっぱいに、はじけた。


 とろりとした果肉が、舌の上で溶けていく。

 むせ返るほど甘い香りが、鼻の奥へ抜けていく。

 すっきりとした甘さの底に、ほんの少しの酸味が、隠れていた。


 私の目が、まんまるに見開かれた。


 それから――その全身から、すうっと力が抜けていく。


 肩が落ちて、まぶたが、とろりと下がる。

 口元が、だらしなく、ゆるんだ。


「……ん――……っ」


 声にならない、ため息みたいな吐息が、漏れた。


「ふふっ」


 向かいで、シェリーが、こらえきれずに噴き出した。


「リディー、すごい顔」


「だって……」


 私は、ほとんどとろけそうな顔のまま、もう一切れに手を伸ばす。


「だって、こんなにおいしいものが、この世にあるなんて……」


「もう。子供みたいよ」


 夫人も、口元を扇で隠しながら、楽しそうに笑っている。


 その、ありふれた笑い声に満ちた食卓を。

 私は、桃を一切れ、ほおばりながら、しみじみと見渡した。


 ——これだ。


 市場で感じた、あの手触り。

 私が守りたいものの、本当の姿。

 それはきっと、この、なんでもない一皿の中にある。


 夕食のあいだだけは。

 私の胸の不安も、私の中に流れ込んできた、たくさんの人生の重さも。

 その甘さの中に、すっかり溶けて、消えていた。


 食事が終わる頃には、二人とも、すっかり満たされていた。


 お風呂のぬくもりと、桃の甘さと、流しきった涙と。

 それが、ゆるやかな眠気を、二人の上に降らせていく。


 私の部屋へ戻って、二人はしばらく、とりとめのない話をした。


 明日は何をしよう。

 アルテミシアは、いつ起きるだろう。

 ベガは、まだ起きているだろうか。

 そんな、他愛のない話だ。


 戦いのことも、老いのことも、不安のことも。

 今夜だけは、そっと、脇に置いて。


 やがて、二人とも、まぶたが重くなってきた。


「……そろそろ、部屋に戻るね」


 シェリーが、眠そうな声でつぶやいた。


 だけど、その体は、まだ私の寝台のはしに、座ったままだった。

 立ち上がる力も惜しいくらいに、眠いらしい。


 私は、枕元の灯りを、そっと落とした。


 部屋が、闇に沈む。


 窓から差し込む、淡い月の光だけが、二人の姿を、ぼんやりと照らしていた。


 その、二人きりの暗闇で。

 ふっと、気が、ゆるんだ。


「……おやすみ、ロディー」


 半分、眠りに落ちながら。

 シェリーの口から、その名前が、こぼれ落ちた。


 人前では「リディー」と呼ぶと、決めたはずの名前。

 その奥に、ずっとしまわれていた、本当の呼び名。


「あ……」


 言ってから、シェリーは、はっと息をのんだ。


 だけど、もう、半分は夢の中だった。

 慌てて言い直す力も、残っていないらしい。


 私は、暗闇の中で、その名前を受け取った。


 責めなかった。


 胸の奥が、じんと温かくなる。

 ロディエットを、ロディエットとして覚えていてくれる人が。

 リディアになった私の隣に、まだ、確かにいる。


 ——覚えて、いてくれる。


 その温かさの裏で。

 ふと、お風呂でのあの不安が、よみがえった。


 私が忘れてしまった、雨の日の思い出を。

 シェリーは、こんなにも大切に、覚えている。


 それなら、せめて。

 この名前だけは。

 シェリーが呼んでくれる、この「ロディー」だけは。

 手放したくない、と思った。


「うん」


 私は、小さく答えた。


「おやすみ、シェリー」


 寝台のはしで、シェリーの寝息が、やがて、規則正しいものに変わっていった。


 私は、暗い天井を、しばらく見上げていた。


 桃の甘い匂いの名残が、まだ、どこかに漂っている気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。