第36話 ロディー(後編)
屋敷に戻ると、玄関の広間で夫人が待っていた。
「あら」
夫人の目が、私の手の中の桃に止まる。
まるくなった目が、ぱっと輝いた。
「まあ、おいしそうな桃。夕食に出しましょうね」
「はい」
私は、なんだかうれしくて、二つの桃をそっと差し出した。
手放したあとも、手のひらには、あの甘い匂いが残っている。
夫人は桃を受け取ると、思い出したように言った。
「ああ、そうそう。今日はね、お湯をわかしているの。二人とも、一緒に入ってちょうだいな」
「「え?」」
私とシェリーの声が、また重なった。
思わず、顔を見合わせる。
「で、でも。その、私は……」
言葉が、うまく出てこない。
「そ、そうですよ、お母様」
シェリーまで、めずらしく声を上ずらせている。
「さすがに、一緒は……」
「何を言っているの」
夫人は、おっとりと笑った。
「二人とも、立派な女の子じゃないの。それに、お湯をわかすのも、タダじゃないのよ。仲良く、一緒に入ってちょうだいな」
私とシェリーは、結局、引きずられるようにして、お風呂へ向かった。
白い湯気が、ゆらゆらと立ちのぼっている。
花のような、いい匂いのする油が、ほのかに香っていた。
スミス家の、ささやかな、ぜいたくだ。
でも。
私の中にいるロディエットの心は、もう限界だった。
——正気か。いや、正気じゃない。
私は十六年間、王族として、きびしい品位の中で生きてきた。
魔石の力で体を整え、他人の肌に、むやみに触れることもなく。
触れられることも、なかった。
それなのに今。
十八になった親戚の――年頃の女の子と、同じお湯に入ろうとしている。
法を学ぶ者として。
頭の奥で、警報が、けたたましく鳴り響いていた。
服を脱ぐあいだも、私は必死に、天井の木目を見つめ続けていた。
そこから、視線を動かせなかった。
「……リディーって、本当に女の子なんだよね」
シェリーが、服に手をかけたまま、迷うようにつぶやく。
その声に、責める色も、からかう色もなかった。
頭では分かっていても、心が追いつかない。
そんな戸惑いだけが、にじんでいた。
「さ、先に入ってるね!」
私はほとんど逃げるように言って、先にお風呂へ、身をすべり込ませた。
お風呂の床の冷たさが、足の裏に伝わった、その瞬間。
私が命じるより早く、体が勝手に、びくりと縮こまった。
両腕が、ひとりでに、胸の前で交わる。
腰が、私の意志とは関係なく、内股の歩き方を選んでいく。
——これは、私の動きじゃない。
借り物のこの体が、恥ずかしさのままに、勝手に動いていく。
自分の体なのに、まるで他人みたいだった。
私は、ただ、戸惑うしかなかった。
少し遅れて、シェリーが入ってくる気配がした。
湯船のふちに腰かけたその姿が、湯気の向こうに、ぼんやりとにじむ。
「……っ」
私は慌てて、目を伏せた。
熱い湯気が、顔をなでているはずなのに。
首筋を、冷たい汗が、つうっと伝った。
どこを見ればいいのか、分からない。
少しでも顔を上げれば、剣で鍛えた幼なじみの姿が、目に入ってしまう。
それは、王子としての私の品位が、音を立てて崩れることを意味していた。
「背中、洗うよ」
ぎりぎりの緊張の中で、やっと絞り出した声は、自分でも分かるほど、かすれていた。
それは、私にとって、たった一つの逃げ道だった。
背中を流すなら、相手の方を、見なくて済む。
「え。あ、うん」
シェリーが、こくりとうなずいて、背を向ける。
私は布に、香りのいい油を含ませて、その広い背中に、そっと触れた。
——その瞬間。指先に、何かが伝わってきた。
それは、思っていたような、なめらかな肌の感触ではなかった。
引きしまった肩。
背中や腕に、何本も走る、硬く盛り上がった、古い傷あと。
それは、彼女が私を――ロディエットを守る盾として、剣を振るって生きてきた、長い年月のあかしだった。
——この子は。こんなにも。
その傷の手触りが、私の頭の中にあった、くだらない戸惑いを、一瞬で、冷たい後ろめたさへと変えた。
恥ずかしさで、うろたえている場合じゃない。
この子は。スミス家の人たちは。
これだけのものを、たった一人の体で、受け止めてきたんだ。
私は奥歯をかみしめて、女の子の柔らかな指で、その傷あとを、一つずつ、ていねいに流していった。
それから、二人は入れ替わった。
今度はシェリーが、私の背中を流してくれた。
長い黒髪を、指でとかしながら、ていねいに洗ってくれる。
剣を握る手とは思えないほど、優しい手つきだった。
「……本当に、女の子なんだね」
ふいに、シェリーがぽつりと言った。
背中をなぞる指が、一瞬、止まる。
「なんか、変な気持ち」
「……ごめんね」
私が小さくそう返すと。
シェリーは、はっと息をのんだ。
慌てたように、お湯で私の背中を流す。
「ち、違うの。リディーだって、大変だったのに……ごめんなさい。悪気は、なかったの」
「ううん」
私は首を振った。
「大丈夫。気にしないで」
やがて、二人は並んで、お湯に身を沈めた。
お湯の中。
さっきのことがあってから、シェリーは黙り込んでしまった。
湯気の向こうで、自分の両手を、じっと見つめている。
開いて、握って、また開く。
何かを確かめるような、頼りない仕草だった。
「シェリー」
私は、静かに声をかけた。
「今日は、ありがとう」
「……うん」
返事は、短かった。
「シェリー。どうしたの」
しばらく、お湯の揺れる音だけが、辺りに満ちた。
やがて、シェリーが、ぽつりと口を開いた。
「いつもはね」
シェリーの声は、湯気に溶けてしまいそうなほど、小さかった。
「お母様も一緒に、お風呂に入っていたの。……でも、今日は入らなかった」
私は、何も言わずに、続きを待った。
「お母様の手。最近、しわが増えていたの」
シェリーの指が、お湯の表面をなぞる。
「それなのに。私たちが帰ってきてから、お父様もお母様も、ずっと、私たちを癒してくれた。アルテミシアさんの足まで、つないで。……それで、一気に老けてしまったの」
私の胸が、ずきりと痛んだ。
「私が」
私は、うつむいた。
「私が、助けに行きたいって言ったから……」
「ううん」
シェリーは、すぐに首を横に振った。
「リディーが悪いわけじゃない。私だって、あの時は、あれしかないって思ってた」
「でも……」
「でもね」
シェリーの声が、少しずつ、震え始めた。
「アルテミシアさんの、つながれた足を見たとき。……思っちゃったの」
「人って、こんなに簡単に、欠けてしまうんだって」
湯気の向こうで、シェリーの肩が、小さく揺れた。
「お父様も、お母様も。永遠に、そこにいてくれると思ってた。ロディーだって、ずっとロディーのままだと思ってたのに。
みんなも、市民の人たちみたいに、あっけなく死んじゃうのかなって。
そう思ったら……」
そこで、声がくずれた。
シェリーが、お湯の中で泣いていた。
私の前で、初めて見せる涙だった。
いつも誰かを守る側にいた子が。
守られていた頃の、ただの子供の顔に、戻っていく。
そんな瞬間だった。
私は、軽々しい慰めを、口にしなかった。
「大丈夫」とは、言わなかった。
「私が、なんとかする」とも、言わなかった。
それは、嘘になるから。
人が欠ける。人が死ぬ。
それを止める力なんて、今の私には、ない。
風の王座で、いやというほど、思い知ったばかりだった。
だから。
軽い言葉で、この涙にふたをすることだけは、したくなかった。
代わりに、私は。
お湯の中で、シェリーの手を、そっと取った。
そして、泣きじゃくるその背中に腕を回して、静かに抱きしめた。
シェリーの濡れた肩が、私の腕の中で、何度も、小さく震えていた。
お風呂から上がると、二人は私の部屋へ戻った。
私は、椅子に座らせたシェリーの、濡れた白銀の髪を、布でていねいに拭いていった。
それから、櫛を手に取って、ゆっくりと、その髪に通していく。
いつもは守られている私が、シェリーの世話を焼いている。
立場が、逆になっていた。
シェリーは、黙って、されるがままになっていた。
泣いた後の、静かな横顔で。
櫛が髪をすべる、その規則正しい感触に、身を預けている。
やがて、シェリーが、ぽつりと言った。
「ロディエットも」
櫛を持つ私の手が、止まった。
「こうやって、わたしの髪をとかしてくれたこと、あったな」
シェリーは、懐かしそうに目を細めた。
「小さい頃。急な雨が降って、二人ともびしょ濡れになって。
あの時、ロディエットが、わたしの髪を、こんなふうに、不器用にとかしてくれて……。櫛じゃなくて、指で、ね」
——指で。
私は、その光景を思い浮かべようとした。
雨の匂い。濡れた前髪。
もつれた、幼いシェリーの髪。
だけど。
——何も、出てこない。
そこにあるはずの記憶が、すっぽりと、抜け落ちていた。
私は、もう一度、思い出そうとした。
急な雨。びしょ濡れの二人。指でといた髪。
シェリーが、こんなにも懐かしそうに話す、その日。
私が、ロディエットだった、その日。
それなのに……手のひらで、空気をつかもうとするみたいに。
何の手応えも、なかった。
「……え」
声が漏れそうになって、私は慌てて、のみ込んだ。
背筋に、冷たいものが伝った。
——どうして。
思い出せない。
覚えていて、当たり前のはずなのに。
シェリーとの、大切な思い出のはずなのに。
櫛を持つ私の指が、かすかに震えた。
この震えを、シェリーに気づかれてはいけない。
私は奥歯をかみしめて、止まっていた手を、また、ゆっくりと動かし始めた。
何事も、なかったように。
シェリーは、目を閉じたまま、まだあの日の話を続けている。
懐かしさにひたるその横顔は、私の胸の中で広がっていく、正体の分からない不安に、少しも気づいていなかった。
「……そう、だったね」
私は、やっとのことで、そう相槌を打った。
それが嘘なのか、本当なのかも、自分でも、分からなかった。
「リディアちゃん、シェリーちゃん。お夕食ができましたよ」
階段の下から、夫人ののんびりとした声が響いた。
その明るい声に、私の胸の不安が、いったん押しやられる。
二人は顔を見合わせて、食堂へ降りていった。
食卓には、温かい湯気の立つ料理が並んでいた。
そして、その真ん中に。
切り分けられた、あの桃が、お皿に盛られている。
淡い紅色の果肉が、灯りを受けて、しっとりと光っていた。
私の目は、その一皿に、釘づけになった。
「さあ、どうぞ。一番よく熟れたところを切ったのよ」
夫人が、そう勧めてくれる。
私はフォークで、一切れをそっと持ち上げた。
果肉の表面を、透明なしずくが、つうっと伝う。
口へ、運ぶ。
その、瞬間。
甘い果汁が、口の中いっぱいに、はじけた。
とろりとした果肉が、舌の上で溶けていく。
むせ返るほど甘い香りが、鼻の奥へ抜けていく。
すっきりとした甘さの底に、ほんの少しの酸味が、隠れていた。
私の目が、まんまるに見開かれた。
それから――その全身から、すうっと力が抜けていく。
肩が落ちて、まぶたが、とろりと下がる。
口元が、だらしなく、ゆるんだ。
「……ん――……っ」
声にならない、ため息みたいな吐息が、漏れた。
「ふふっ」
向かいで、シェリーが、こらえきれずに噴き出した。
「リディー、すごい顔」
「だって……」
私は、ほとんどとろけそうな顔のまま、もう一切れに手を伸ばす。
「だって、こんなにおいしいものが、この世にあるなんて……」
「もう。子供みたいよ」
夫人も、口元を扇で隠しながら、楽しそうに笑っている。
その、ありふれた笑い声に満ちた食卓を。
私は、桃を一切れ、ほおばりながら、しみじみと見渡した。
——これだ。
市場で感じた、あの手触り。
私が守りたいものの、本当の姿。
それはきっと、この、なんでもない一皿の中にある。
夕食のあいだだけは。
私の胸の不安も、私の中に流れ込んできた、たくさんの人生の重さも。
その甘さの中に、すっかり溶けて、消えていた。
食事が終わる頃には、二人とも、すっかり満たされていた。
お風呂のぬくもりと、桃の甘さと、流しきった涙と。
それが、ゆるやかな眠気を、二人の上に降らせていく。
私の部屋へ戻って、二人はしばらく、とりとめのない話をした。
明日は何をしよう。
アルテミシアは、いつ起きるだろう。
ベガは、まだ起きているだろうか。
そんな、他愛のない話だ。
戦いのことも、老いのことも、不安のことも。
今夜だけは、そっと、脇に置いて。
やがて、二人とも、まぶたが重くなってきた。
「……そろそろ、部屋に戻るね」
シェリーが、眠そうな声でつぶやいた。
だけど、その体は、まだ私の寝台のはしに、座ったままだった。
立ち上がる力も惜しいくらいに、眠いらしい。
私は、枕元の灯りを、そっと落とした。
部屋が、闇に沈む。
窓から差し込む、淡い月の光だけが、二人の姿を、ぼんやりと照らしていた。
その、二人きりの暗闇で。
ふっと、気が、ゆるんだ。
「……おやすみ、ロディー」
半分、眠りに落ちながら。
シェリーの口から、その名前が、こぼれ落ちた。
人前では「リディー」と呼ぶと、決めたはずの名前。
その奥に、ずっとしまわれていた、本当の呼び名。
「あ……」
言ってから、シェリーは、はっと息をのんだ。
だけど、もう、半分は夢の中だった。
慌てて言い直す力も、残っていないらしい。
私は、暗闇の中で、その名前を受け取った。
責めなかった。
胸の奥が、じんと温かくなる。
ロディエットを、ロディエットとして覚えていてくれる人が。
リディアになった私の隣に、まだ、確かにいる。
——覚えて、いてくれる。
その温かさの裏で。
ふと、お風呂でのあの不安が、よみがえった。
私が忘れてしまった、雨の日の思い出を。
シェリーは、こんなにも大切に、覚えている。
それなら、せめて。
この名前だけは。
シェリーが呼んでくれる、この「ロディー」だけは。
手放したくない、と思った。
「うん」
私は、小さく答えた。
「おやすみ、シェリー」
寝台のはしで、シェリーの寝息が、やがて、規則正しいものに変わっていった。
私は、暗い天井を、しばらく見上げていた。
桃の甘い匂いの名残が、まだ、どこかに漂っている気がした。




