第35話 ロディー(前編)
ヨゼフとの戦いから、何日かが過ぎた。
男爵様の屋敷に戻ってきて、初めての、おだやかな朝だった。
それでも、屋敷の中にはまだ、戦いの気配が残っている。
廊下を歩く使用人の足は、どこか速い。窓の外を見る兵士の目にも、抜けきらない緊張があった。
アルテミシアは、まだ目を覚まさない。
切り落とされた右足は、男爵様ご夫妻が、自分の魔力を限界まで削って、もう一度つなぎ直してくれた。
ひざから下に、色のうすい線が一本だけ通っている。一度は失われた足の、それがしるしだった。
命を分けてもらったその足が、もう一度、彼女のものとして根づくのを待つ。今はただ、それだけだった。
ベガは、いつも通りだった。
あてがわれた部屋にこもって、朝から本と魔石に向き合っている。
しばらくは身体を休めるように、と男爵様に言われていたのに。研究だけは、どうしても止められないらしい。
私は、書庫へ行こうとしていた。
文字に触れていれば、頭の痛みも、胸にたまったものも、少しは紛れる気がした。
その背中に、声がかかった。
「あなた方、少し根を詰めすぎですよ」
夫人だった。
腰に手を当てて、書庫へ続く廊下を、その身ひとつでふさいでいる。
声はやわらかい。けれどその奥には、逆らえない強さがあった。
「命がけの戦いから戻ったばかりなのですから。今は、身体を休めなさい」
それは、戦いから帰った娘を心配する、母親の声だった。
私は、足を止めた。
休む、という言葉が、すぐには身体になじまない。
——何かをしていないと。
ヨゼフの無念や、私の中に流れ込んだいくつもの人生が、胸のすき間からあふれてくる気がして。
「あ」
夫人が、ぽんと手を打った。
「そういえば、今日は海の向こうから行商が来ているそうよ。市場をのぞいてきたら?」
そして、廊下の先へ目をやった。
「シェリーちゃん。リディアちゃんを、連れていってあげなさいな」
呼ばれて、シェリーが廊下の角から顔を出した。
「……分かりました」
シェリーは、こくりとうなずいた。
でも、そのうなずきは、どこか硬い。
私を見る目に、ためらいが残っている。
ご両親の老いた姿が、まだその目の奥にちらついているのだ。
護衛として半歩引いた距離が、今の私たちの間には、はっきりと横たわっていた。
「……行こう。リディー」
呼び慣れたその名前が、今朝はどこか、よそよそしく響いた。
「うん」
私も、それ以上は何も言えなかった。
二人とも、軽い身なりで屋敷を出た。
シェリーは、いつもの白銀のよろいではない。動きやすい、簡素な服。腰の長剣だけが、彼女の役目を静かに語っていた。
私も、シスターの服でも、馬に乗る時の服でもなく、町に溶け込む軽い服を着ていた。
二人で、並んで歩く。
でも、歩幅は揃わなかった。
シェリーは半歩前を行き、ずっと周りに目を配っている。人混みの切れ目。物陰。視線の流れ。
——護衛の、目だ。
会話は、なかった。
スミス領の町は、昼の光の中で、ゆるやかに息づいていた。
石畳の道に、荷車のあと。焼きたてのパンの匂い。野菜を山と積んだ店の前で、値段を競り合う声。
子供が一人、母親のそでを引いて、何かをねだっている。
——これだ。
私は、ふと足を止めた。
これが、私の守ろうとしているものの、手触りだった。
本に書かれた、平均寿命の数字じゃない。羊皮紙に書きつけた、法律の下書きの一行でもない。
この、ごちゃごちゃして、にぎやかで、生きている匂いに満ちた、ただの一日。
風の王座で見た、肉のかたまりに変わっていく命。この市場の、にぎやかな営み。
その両方が、私の中で、確かに地続きになっていた。
「リディー」
シェリーの声で、我に返る。
「……はぐれるよ」
短い、護衛の言葉。
それでも、声のふちが、ほんの少しだけ、ほどけていた。
ヨゼフとの戦いの、すぐ後なのだ。シェリーが警戒するのは、当たり前だった。
盗賊に手を貸していた者は、もう片付いたと、ベガは言っていた。
でも、それで完全に安心、とはいかない。シェリーの肩には、まだ張り詰めたものが残っている。
私は、その横顔をしばらく見ていた。
そして、口を開いた。
「シェリー。今日はね」
シェリーが、ちらりとこちらを見る。
「護衛のシェリーじゃなくて。……ただの、シェリーでいてほしいな」
シェリーは、目を見開いた。
その目の奥で、何かが揺れる。
きっと、ご両親のこと。そして、私の正体のこと。
何かを言いかけて——けれど、その言葉は、出てこなかった。
「……うん。分かった」
それだけ言って、シェリーは目をそらした。
市場を進むうちに、シェリーの様子が、少しずつ変わっていった。
「おう、シェリー嬢ちゃん! 久しぶりだな」
「おじさん、その腰、もう平気なの?」
「がはは。お嬢に心配されちゃ、寝てらんねえや」
果物を並べた店の主人と、シェリーが親しげに言葉を交わしている。
剣を握る令嬢でもない。屋敷の護衛でもない。ただの、十八歳の女の子の顔だった。
私は、それを少し意外な思いで眺めた。
——近いんだな。
この領地では、貴族と領民の距離が、こんなにも近い。
貴族でも、領民でも、同じように話すシェリーに、私はまた一つ、好ましさを覚えた。
市場のにぎわいが、私の胸の重さを、ゆっくりと押し流していく。
呼び込みの声。秤のかたむく音。値を競る掛け合いと、そこではじける笑い声。
その時だった。
何かが、ふいに鼻先をかすめた。
甘い。
熟れた果実の、むせ返るような甘い香り。鼻の奥を、とろりと撫でていく。
こんなに美味しそうな匂いを、私は嗅いだことがなかった。
気づけば、足がその匂いの方へ向いていた。
口元が、ゆるむ。
「これは……何ていう、食べ物ですか?」
行商の男が、にやりと笑った。
日に焼けた、人懐っこい顔だ。
「お、嬢ちゃん。良い目してるね」
男は、丸い果実を一つ手に取って掲げた。
「珍しいよ、これは。桃だよ、桃!」
うっすらと産毛をまとった、淡い紅色の実。陽の光を受けて、やわらかく光っている。
匂いだけで、もう舌の奥がうずいた。
「シェリー」
私は、隣のシェリーのそでを、そっと引いた。
「これを食べないと、一生、悔やむ気がします」
「リディー」
シェリーが、半ばあきれたように息を吐いた。
「この屋敷に来てから、本当に食べ物に目がなくなったよね。……でも、高いよ、これ」
「桃は、珍しいからねえ」
行商の男が、肩をすくめた。
「普段は、こんな所まで運ばないのさ。逃さないほうがいいよ」
「普段じゃないことが、起きたんですか」
私が問うと、男は少し声を落とした。
「本当は、王都まで行くつもりだったんだ。けど、今は王都が、えらい騒ぎでな」
——王都が。
私の胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「王様が乱心なすって、そのまま行方知れずだとよ。おかげで都の手前は、どこもかしこも兵だらけだ。荷を端から調べられて、商人なんざ追い返される始末さ。落ち着くまでは、とても近寄れやしねえ」
——王の、乱心。行方不明。
その言葉の裏に、私は、自分が去った日の、王城の暗がりを見た。
父上の、偽りの死。秘密の通路。
あの夜から、すべてがほころび始めた。それが今、街道をふさぎ、果実一つの行き先まで、静かに狂わせている。
シェリーが、私の腕をそっとつかんだ。財布の中身を心配する手つきだった。
スミス家の暮らしは、決して楽ではないのだ。
私は、桃をもう一度見つめた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「つまりこの桃は、王都へ運ぶはずだった荷ですよね。検問で追い返されて、行き場をなくした品」
行商の男の眉が、ぴくりと動いた。
「ここから王都へは戻れない。かといって来た道を引き返せば、また何日もかかる。その間に、この実は熟れすぎて、売り物にならなくなる」
私は、桃の産毛を、指先でそっと撫でた。
「あなたが今、いちばん恐れているのは、安く売ることじゃない。一つも売れずに、腐らせてしまうこと。……違いますか?」
「……お、嬢ちゃん」
男はしばらく、口を半開きにしていた。
でも、やがて降参とばかりに、頭をかいた。
「くっ……理屈っぽい嬢ちゃんだな。もう、持ってけ! ほら、二つだ!」
「「ありがとうございます」」
二人の声が、重なった。
思わず、顔を見合わせる。
シェリーの口元が、ほんの少しだけ、ゆるんでいた。
桃を二つ、とても安く手に入れて、私たちは屋敷への道を戻った。
私は、ずっと上機嫌だった。
両手で桃を包み、ころころと転がしては、甘い匂いを何度も吸い込む。
その横顔を、シェリーがちらりと見た。
私は、その視線に気づいた。
桃に夢中で、間の抜けた顔をしていただろうか。
……いや、違う。
シェリーの目は、私の食い意地を笑っているんじゃない。
もっと、やわらかい。どこか、遠くを見るような目だった。
今朝、屋敷を出る時にあった、あのよそよそしさ。半歩引いた、護衛の距離。
——それが、いつの間にか、消えている。
シェリーの唇が、わずかに動いた。
二人きりの時に、彼女が私を呼ぶ、あの名前。
それを言いかけて——けれど、声にはならなかった。
ただ、彼女の肩から、張り詰めていたものが、すっと抜けていく。
それだけは、隣にいる私にも、はっきりと分かった。




