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第34話 裁くためではなく

 私はベッドから、そっと足を下ろした。


 床に足の裏がついた瞬間、頭の奥がずきりと痛んだ。


 こめかみを押さえる。

 視界の端が、ほんの一瞬だけ白くにじんだ。


 誰かの人生を、まるごと流し込まれたあとには、いつもこの痛みが残る。

 宿場《しゅくば》の村で、初めて知った痛みだった。


 ——ヨゼフ。


 その名前を思いうかべるだけで、あの男の最期の無念が、胸の底からせり上がってくる。


 首すじに当てられた刃《やいば》の冷たさ。

 髪をつかまれた感触。

 まだ、指の先に生々しく残っていた。


 奪われない国を作るのだと、彼は言った。

 そのむき出しの怒りの根は、いまも私の中から、消えてくれない。



 ——あの村で、逃げなければ。


 私はつい、そう考えそうになる。


 マリアと二人で、村を飛び出すことさえなければ。

 ヨゼフは盗賊になんてならず、もっとまともな人生を歩めたのではないか。

 彼が刃を振るうことがなければ、傷つく人も、ずっと少なかったのではないか。


 ——いや。


 私はそこで、首を横に振った。


 違う。

 罪の根っこを、子供だった二人の選択にたどり着かせてはいけない。


 マリアが村に戻らなければ、母が枯れる。

 逃げなければ、自分が枯れる。

 どちらを選んでも、誰かが命をすり減らす。


 そんな、どこにも逃げ場のない苦しさを、最初に作ったのは誰だ。


 ——この国の、仕組みだ。


 寝間着の膝の上で、私の拳は固く握られていた。



 寝間着のままだった。


 私はガウンをはおって、客間の扉を押し開けた。


 あれから、みんながどうなったのか。

 それが、ずっと気がかりだった。


 眠っているあいだに、何日かが過ぎたらしい。

 体の重さで、なんとなくそう分かった。


 昼の時間なら、スミス男爵は書斎《しょさい》にいるはずだ。

 私はそう見当をつけて、書斎へ足を向けた。


 扉をノックしようと、手を上げる。


 その時だった。


 もっと奥の部屋から、声が漏れ聞こえてきた。



 私は、奥へ歩いた。


 それは、シェリーの声だった。


「もう止めて! お父様、お母様!」


 悲鳴のような叫びだった。

 喉を裂くようなその響きが、扉ごしに伝わってくる。


 私は、声のする扉の前に立った。


 開けていいものか。

 握りに手をかけたまま、迷う。


 その迷いの途中で、内側から扉が開いた。



 開けたのは、ベガだった。


 肩には、厚く包帯が巻かれている。

 片足も、少しかばっていた。

 それでも、その背すじはもう、しっかりと伸びていた。


「ふむ。目を覚ましたか、リディア」


 ベガの声には、いつものかすれた落ち着きが戻っていた。


「ちょうどよい。中へ入りなさい」


 私はベガの肩ごしに、部屋の中を見渡した。


 部屋の中央に置かれた寝台に、アルテミシアが横たわっていた。



 その寝台のわきに、スミス男爵が立っていた。


 男爵は、横たわるアルテミシアの上に、片手をかざしている。

 指の先から、淡い光の粒が、降るように彼女の体へ落ちていく。


 その隣で、夫人が男爵の背に、そっと手を添えていた。

 夫人のもう片方の手の中で、琥珀色《こはくいろ》の石が、淡く光っている。


 そしてもう一方の側に、シェリーが立っていた。

 泣き出す寸前の顔で、それでも父と母を、睨むように見つめている。


「リディア様」


 男爵が顔を上げた。


「お体は、もうよろしいのですか」


「あ、はい。お陰様で、もう大丈夫です」


「さようでございますか。なにしろ、三日は眠っておられましたのでな」



 男爵の顔を見て、私は息を呑んだ。


 ——皺《しわ》が、増えている。


 風の王座へ向かう前にも、男爵は年相応に老いて見えた。

 けれど、いまその顔に刻まれた皺は、目に見えて深く、数を増していた。


 アルテミシアにかざした手は、もっとひどい。

 甲の皮膚は乾いてたるみ、薄茶色のシミが、いくつも浮いている。


 夫人の方を見る。


 夫人もまた、同じように老けていた。

 レースの袖からのぞく手首が、出発の前よりも、ずっと細く頼りなく見えた。


 男爵が、アルテミシアからそっと手を外した。


 そしてその手を、私から見えない位置へ、さりげなく引いた。


 でも、引かれる瞬間に、私は見てしまった。


 男爵の手のひらの中に、一粒の魔石《ませき》が握られていた。

 光を失い、ひびの入った魔石だった。


 夫人の手の中の、琥珀色の石も。

 いまはもう、その輝きを、ほとんど失いかけている。


 ——あぁ。


 私の中で、すべてが繋がった。



「アルテミシアさんは、山場を越えました」


 男爵が、静かに言った。


「もう、大丈夫でございましょう」


 夫人が、小さく息を吐いた。

 張り詰めていたものが、ほどけたような吐息だった。


「お父様、お母様」


 シェリーが、一歩前へ出た。


「大丈夫ですか。お体に、負担を掛けすぎです」


 その声は、震えていた。


「シェリー」


 男爵は娘の方を見て、口の端だけでわずかに笑った。


「案ずるな」



 私は、寝台のアルテミシアに目を落とした。


 麻のシュミーズを着せられて、静かに眠っている。

 乱れていた呼吸は、いまは深く、穏やかだった。


 私の視線は、自然と、その右足へ向いた。


 ——足が。


 そこに、膝から下があった。


 切り落とされたはずの、右足。

 その膝のつなぎ目には、もう傷がない。

 ただ、薄く色の抜けた一本の線だけが、皮膚の上に淡く残っていた。


「……足が、あります」


 私の声が、かすれた。



「切り落とされたお足を、戦場から持ち帰って」


 シェリーが、低い声で言った。


「お父様とお母様が、もう一度、つなぎ直したの」


「私はこれでも、治癒《ちゆ》魔法の名手でございましてな」


 男爵が、空いた手で、白くなったあごひげを、なでた。


「これくらいは、お任せください」


 軽い口ぶりだった。

 でもその声の底には、隠しきれない疲れが沈んでいた。


「良かった……。ありがとうございます」


 私は頭を下げた。


 頭を下げながら、胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。



 ——男爵と夫人が、一気に老けてしまったのは。


 私には、もう分かっていた。


 この世界で、傷を癒すということ。

 それは、誰かの魔力を——誰かの寿命を、注ぎ込むということだ。


 男爵と夫人は、自分たちの命を削って、アルテミシアの足をつないだ。


 他人から魔力を吸い上げて、若さを保つ貴族。

 その中で、この夫婦だけは、逆のことをしている。


 自分の寿命を、見ず知らずのシスターのために、差し出している。


「でも、もう、無理はしないでください!」


 シェリーの声が、ついにほどけた。


「お父様も、お母様も、もう、お体に変化が出ています。これ以上は——もう、止めてください……」



「シェリー」


 男爵は、娘の肩に、皺だらけの手を置いた。


「私らは、お前たちに賭けておるのだ」


 その目は穏やかで、揺るがなかった。


「リディア様の描かれる国に。シェリー、お前の振るう剣に。——ならば私らにも、命を賭けさせてくれ。老い先の、残り少ない分くらいはな」


「でも、もう……」


 シェリーは、それ以上、言葉を継げなかった。


 見ていられない、というように、ふいと目を逸らす。


 その横顔を、私はかける言葉も見つからないまま、見つめた。



「さて」


 男爵が、軽く手を打った。


「少々、お話ししたきことがございます。書斎まで、お運びいただけますかな」


 全員が、部屋の出入口へ向かった。


 私が扉を抜ける時。

 後ろの方で、シェリーの呟きが、かすかに聞こえた。


「……私が、弱いせいで」


 私は、振り返らなかった。


 ただ、その一言が、胸の奥に小さな棘《とげ》のように刺さった。


 シェリーが背負っているものの重さを、私は知っていた。



 書斎は、古い紙とインクの匂いに満ちていた。


 壁の一面が、天井まで届く書架で埋まっている。

 窓から差す昼の光が、机の上の羊皮紙《ようひし》を白く照らしていた。


 椅子に腰を落ち着けると、男爵は、私たちが眠っているあいだの話を、ぽつぽつと語り始めた。


 戦場から戻った時、一行は傷だらけで、屋敷は大騒ぎになったこと。

 その後も、散り散りになった盗賊が、何度か屋敷の近くに現れたこと。


「兵が応戦してな。それと——ロサリンデが、追い払いました」


「え」


 私は、思わず聞き返した。


「夫人が、撃退《げきたい》したのですか」



「えぇ」


 夫人が、扇を口元に当てて、おっとり微笑んだ。


「私もね、身体強化《しんたいきょうか》が使えるのよ。これでも、シェリーには負けないつもり」


 その隣で、シェリーが深いため息をついた。


「私も、魔力が回復してから、防衛に加わったわ。……でも、頭のいない、散り散りの残党だったから。お母様がレンガを投げるだけで、ほとんど片付いてしまって」


「れ……レンガ?」


「おほほ」


 夫人は、いたずらっぽく肩をすくめた。


「剣だけが、すべてじゃないのよ」


 生き生きとした、楽しげな顔だった。


 ——でも。


 その頬にも、口の端にも。

 風の王座へ向かう前には、なかったはずの皺が、確かに刻まれていた。



 私は、その皺からそっと目を逸らした。


「残党については」


 男爵の声が、少し低くなった。


「王国騎士団《きしだん》が、殲滅《せんめつ》に当たる予定でございます」


 殲滅。


 その一語が、私の頭に、冷たく落ちた。


 ——皆殺しにする、ということ。


 そして同時に、ある光景が、頭をよぎった。


 森のアジトに、まだ残されているはずの——さらわれた、子供たち。


「ですが」


 私は、身を乗り出した。


「子供たちが、まだ……」


 男爵は、ゆっくりと首を振った。


 そして私の目を、じっと覗き込んだ。


「リディア様なら、あの子供たちを、お救いになれましょうか」



 私は、考えた。


 盗賊にさらわれ、盗賊にされてしまった、子供たち。


「あの子たちに、罪が無いとは申しません」


「ほぉ」


「子供とはいえ、犯した罪に、相応の責めを負うのは当然です。それは、私も曲げません。——ですが、強盗としての極刑《きょっけい》は、誤りです」


 極刑。

 ——命をもって償わせる、いちばん重い罰だ。


「本当に、そうでございましょうか」


 男爵の声は、静かだった。

 けれどその問いは、刃のように鋭かった。


「盗賊となった者は、極刑に処す。それが、この王国の法でございます」


 ——男爵は、私を試している。


 それが、分かった。


「存じております」


 私は、絞り出すように言った。


「ですが、法典《ほうてん》の第三章には、こう記されています」


 法典。

 ——法律を、一つにまとめた書物のことだ。


「十五歳に満たぬ者については、その責任を負う力の未熟さを考慮し、極刑を科してはならない、と」



「あの子たちの多くは、まだ年端《としは》もいかぬ子供です」


 私は、一つずつ、言葉を置いていった。


「そして、さらわれ、無理やり罪を行わされた——その可能性が、高いのです」


「それを、証明はできますまい」


「いえ」


 私は、男爵の目を、まっすぐに見返した。


「証明は、私がするものではありません」


 私は一度、深く息を吸った。


「ヨゼフ自身が、子供をさらい、盗賊に仕立てていると、私に語っていました。——ですから私は、騎士団に求めたいのです。ただちに強盗として処刑するのではなく、一人ひとりを取り調べていただきたい、と」



「誰が、さらわれ、強いられた子供で」


 私の声に、少しずつ、熱がこもっていく。


「誰が、自らの意志で刃《やいば》を握り、いまも牙《きば》をむく者なのか。それを、騎士団の手で、選り分けていただきたいのです」


「自ら望んだ者、はむかい続ける者は、その罪に応じて裁かれるべきです。それは、私も曲げません」


 私は、男爵の目から、目を逸らさなかった。


「ですが——さらわれ、強いられただけの幼い子供を、強盗の極刑で、ひとまとめに葬《ほうむ》る。それは、法の誤りです」


 私は一度、言葉を止めた。


 男爵の目を見たまま、最後の言葉を口にする。


「私は——法によって、人を裁きたいのではありません」


 息を、一つ。


「法によって、人を救いたいのです」



 書斎が、静まり返った。


 窓の外で、風が木の葉を、一度なでていく音がした。


 やがて。


 スミス男爵の口の端が、ゆっくりと持ち上がった。


 それは、試験官が答案に丸をつける時のような。

 どこか満足げな笑みだった。


「——承知いたしました」


 男爵は、椅子の背に、ゆっくりと身を預けた。


「最も大きな被害を受けた、我が領地からの申し立てにございます。それを添えて、王立騎士団に、取り調べを求めましょう」


「被害の最も大きい領地が、そう願い出れば。王国とて、子供たちをまとめて葬る前に、調べに動かざるを得ますまい」


「ありがとうございます」


 私は、深く頭を下げた。



 頭を下げた、その拍子に。


 ふっと、視界が傾いた。


 体が、横へ流れる。

 すかさずシェリーが横から回り込んで、私の肩を支えた。


「リディー、無理しないで」


「……ありがとう。大丈夫」


 でも、傾いだ意識の隙間から、また別の記憶が滑り込んできた。


 私が竜巻を消した、あの時。

 解いた紋章《もんしょう》を通して、流れ込んできた——あの炎竜《えんりゅう》の魔術師の、人生だった。



 盗賊にさらわれた、幼い日。


 逃げ出そうとするたびに、ガルムに追い回される。

 あの、ぬめる牙。

 低い、うなり声。


 物を盗んでこなければ、食事は与えられない。

 飢えと、恐怖。


 そんな日々の底で、その子は魔法に目覚めた。


 操れるようになって、ようやく腹を満たせるようになった。

 けれど——眠ろうとすると、ガルムに追われた夜がよみがえって、目を閉じることができない。


 そして。


 ——ヨゼフには、逆らえなかった。


 逆らえば、どうなるか。

 その子は、嫌というほど知っていたから。



 私の目に、薄く涙がにじんだ。


 これは、私の涙じゃない。

 あの子の、流せなかった涙だ。


 ——救わなければ。


 法によって裁かれるべきは、あの子たちじゃない。

 あの子たちを、こんな目に遭わせた——すべての根のほうだ。


 私はシェリーの肩を借りて、ゆっくりと身を起こした。


 そしてもう一度、スミス男爵に向かって、深く頭を下げた。


「——どうか、よろしくお願いします」



 書斎を出て、私は寝室へ戻った。


 窓辺に立ち、外を見る。


 スミス領の町並みが、昼の光の下に、静かに広がっていた。


 活気のある匂いの、すぐ裏側で。

 いまもどこかで、誰かが枯れていく。


 その町を、私は長いこと見つめていた。


 頭の痛みは、まだわずかに残っていた。


 けれどその痛みの奥で。

 私の中に積もったいくつもの人生が、重く、けれど確かに、私の背中を、前へと押していた。


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