第33話 流れ込む過去(後編)
私の意識は、暗い水の底に沈んでいた。
そして、また始まった。
頭の奥で、低い音が鳴る。
目の端が、ぐにゃりとゆがむ。
指の先が、冷たくなっていく。
宿場の村で、初めて感じた、あの感覚だ。
——誰かの人生が、私の中に流れ込んでくる。
それが誰のものなのか、すぐに分かった。
私の黒髪をつかみ、首すじに刃を当てたまま、最後の一瞬まで私に触れていた男。
ヨゼフ・イングリット。
その男の生きてきた時間が、今、私の中に流れ込んでくる。
*
俺は、マリアに言った。
「マリア。どうして村に帰るんだ」
「母さんが、お前の分まで魔力をささげてるんだろう。このまま帰ったら、母さんだけじゃない。お前まで吸い尽くされて、枯れて死ぬだけだぞ」
マリアは、首を横に振った。
そして、笑った。
「大丈夫だよ」
俺は、その笑い方を知っていた。
マリアが、不安を隠そうとするときの、いつもの笑い方だ。
「ダメだ。お前を帰したくない」
そう言うと、マリアは泣いた。
泣きながら、怒った顔をした。
帰さなかったら、一生恨む、と。
時間が経ったら、また迎えに来てほしい、と。
俺の両親は、ほとんど俺と暮らさないまま、枯れて死んだ。
だから、分からなかった。
どうしてマリアが、自分を犠牲にしてまで、村に帰るのか。
ただ、犠牲になりに行くだけなのに。
一人になった俺は、わずかな食べ物を持って、森に入った。
すぐに、盗賊どもに襲われた。
食べ物は、全部奪われた。
腹が減って、もう動けなくなった俺に、奴らは干し肉を一切れ、放ってよこした。
そして、仲間に入れてくれた。
腹が満ちる。
それだけで、人は生きていける。
俺はその時、初めてそれを知った。
それからは力をつけて、強盗ばかりして暮らした。
奪った物を持ち帰ると、みんなが褒めてくれた。
久しぶりに、腹いっぱい食べられた。
飢えなくていい。
それが、どれだけのことか。
飢えたことのない奴には、分かるまい。
ある日、ふとマリアを思い出して、村を見に行った。
村は、すっかりさびれていた。
盗賊になった俺が堂々と歩いても、もう誰も、見向きもしない。
マリアの家の扉を、俺は押し開けた。
中にいたのは、徴収官だった。
貴族のために、平民から魔力を取り立てる役人だ。
その男が、マリアの額に、石を押し当てていた。
魔力を吸い取る石、吸魔石だ。
マリアは今、魔力をささげさせられている、その最中だった。
マリアの右手が、力なく宙に上がっていた。
同い年とは思えないほど、皺だらけの手だった。
その手が、ゆらゆらと揺れている。
もう吸わないでくれと、必死に訴えているのだと、俺にも分かった。
隣には、母親がいた。
母親もまた、皺だらけだった。
「もう、やめてください」
母親の声は、消え入りそうだった。
それでも、喉の奥から絞り出すように、必死だった。
「娘は、手を上げています。もう限界なんです。どうか、もう……」
徴収官は、その声を聞こうともしなかった。
「お前は、母親の分も奉仕すると言ったはずだ。まだまだ抜けるぞ」
俺は、見ていられなかった。
持っていたグレイブを、振りかぶった。
長い柄の先に、刃のついた武器だ。
その刃で、徴収官に斬りかかった。
刃が届く。
そう思った、その瞬間だった。
物陰にひそんでいた兵士が、横から体当たりしてきた。
俺の体は、たやすく吹き飛ばされた。
「誰だ、お前は。捕えろ」
俺は立ち上がり、また斬りかかった。
だが、刃はあっさりと、いなされた。
兵士の剣が、横ざまに払われる。
俺のグレイブは、手から弾き飛んだ。
二の腕が、ぱっくりと裂けた。
「お前も、魔力をささげさせてやる。死ぬまでな」
徴収官が、冷たく笑った。
その時、マリアの顔が見えた。
背丈も、服も、ほとんど、あの頃のままだった。
だが、中身は、老婆だった。
すっかり、枯れていた。
これまでにも、枯れた人間は、何人も見てきた。
だが、幼なじみの枯れた顔は、別格だった。
胸の奥を、これ以上ないほど、深くえぐられた。
俺は叫んで、逃げ出した。
あんな風には、なりたくない。
死にたくない。
傷を負いながらも、なんとか逃げきった。
アジトに戻って、手当てを受けた。
みんなには、食べ物を奪おうとしたら兵士がいて、逃げてきた、とだけ言った。
マリアのことは、何も言わなかった。
その夜、俺は悔しさのあまり、近くの木を、何度も殴り続けた。
すると、木が折れた。
大人二人分はありそうな太さの木が、根元から、へし折れた。
そう。
俺はその夜、身体強化に目覚めたのだ。
自分の魔力を体に流して、力を何倍にもする技だった。
暗い水の底で、私の胸が、小さく痛んだ。
この力は、いつも誰かの絶望の底から、にじみ出てくる。
それを、私はもう、知っていた。
それからの俺は、別人のように強くなった。
盗賊団の中で、どんどん地位を上げていった。
もう、あの村にも、マリアにも、二度と会いたくなかった。
だが、あの徴収官だけは、許せなかった。
街道で待ち伏せして、殺してやった。
守りの兵士たちも、あっけないほど簡単に、殺せた。
しばらくして、国から兵士がやってきた。
アジトはすべて壊され、仲間は、みんな殺された。
俺は、また一人になった。
それでも、生き延びた。
子供と食べ物を攫い、盗賊団を一から作り直した。
恐ろしい獣がうろつく、森の奥。
そこに、新しいアジトを築いた。
国の兵士に、対抗するためだった。
魔力をあやつるには、感情の昂ぶりと、生まれ持ったセンスが要る。
俺は、自分が目覚めた時のことから、その理屈を学んでいた。
だから、攫ってきた子供たちを、わざと恐怖の底へ追い込んだ。
森の獣をけしかけ、ぎりぎりまで追い詰めた。
そうやって、魔力をあやつる者が、何人も生まれた。
最後まで使えなかった者も、戦力には、なった。
流れ込む記憶の中で、私は息を呑んだ。
枯れていく幼なじみを、見ていられなかった男。
その同じ手が、今は、別の子供たちを追い詰めている。
このまま盗賊団を大きくして、いつか、強い国を作る。
それが、俺の願いだった。
二度と、奪われない国。
二度と、飢えない国。
誰かの寿命を吸い尽くして肥える奴らに、もう二度と、踏みつけられない国。
弱ければ、吸われ、奪われ、枯れて死ぬ。
ならば、強くなるしかない。
強い者だけが生き残る国を作る。
それの、何が間違っている。
そんな中、魔力をあやつる兄弟が、三人も殺された。
一緒にいた、魔力を持たない兵が言った。
シスターが二人、それをやった、と。
そして、スミス男爵領に入った、と。
俺は、偽善が許せない。
世の中を変える力があるのに、何もしない奴が。
そして、兄弟を殺した奴は、絶対に許さない。
それが、荒野の兄弟団の、鉄の掟だった。
スミス男爵領にもぐり込ませた内通者から、報せが入った。
シスターは、弱った者を慰めて回る務めで、領内を歩いているらしい。
俺は命じた。
子供を使って、シスターを捕らえろ、と。
だが、迎えに行かせた部隊からの報告は、予想外のものだった。
部隊は、全員死んでいた。
残されていたのは、吸魔石のついた、シスターの片足だけ。
俺は悟った。
死なないために、自分で足を切り落としたのか、と。
だが、ここはあの森の中だ。
大怪我を負った女が、恐ろしい獣のうろつく森で、生き延びられるはずがない。
もう、どこかの獣の腹の中かもしれない。
念のため、確認の部隊を送り込み、俺は約束の場所へ向かった。
この食べ物と、魔石さえ手に入れれば。
男爵領は、俺のものだ。
だが、約束の場所で待っていたのは、地獄だった。
兄弟が、一人、また一人と、斬り刻まれていく。
守るはずだった者たちが、目の前で、肉の塊に変えられていく。
俺は、最後の賭けに出た。
あの黒髪のシスターの首に刃を当て、盾にした。
そこへ、あの女が現れた。
木の枝を、松葉杖の代わりに突いて、片足のシスターが歩いてくる。
あの女だ。
俺たちの兄弟を殺し、自分で足を切り落としたという、あのシスター。
森で死んだはずだった。
どこかの獣の腹の中だと、そう思っていた。
それが、生きて、ここに立っている。
歩みは、遅い。
なのに、一歩ごとに、肌がひりついた。
今まで斬り合った、どの剣士よりも、研ぎ澄まされた何か。
それが、まっすぐ、俺へ向かってくる。
殺される。
手のひらに、汗が噴き出す。
握っているはずのナイフの感触が、遠のいていく。
「それ以上、近づくんじゃねぇ!」
俺は叫んだ。
盾にしたシスターの首すじから、とっさにナイフを引きはがす。
その切っ先を、女へ向けた。
「こいつが、どうなってもいいのか!」
刃が、人質の首から離れた。
その、一瞬だった。
周りの時間の流れが、すうっと引き伸ばされて、ゆっくりになった。
女が、地を蹴った。
片足の、低く沈んだ影。
引き伸ばされたこの時間の中ですら、その動きを、俺の目は、捉えきれなかった。
開いたままの俺の口へ、一筋の銀色の光が、恐ろしい速さで、滑り込んでくる。
止める術はない。
避ける術も、ない。
俺はただ、それを見ているしか、なかった。
まだだ。
まだ、死ねない。
腹の底から、悔しさが噴き上げてきた。
あの飢えを、まだ終わらせていない。
腹を空かせて死んでいく者を、まだ一人も、救えていない。
森のアジトでは、俺の帰りを待つ兄弟たちが、今夜も腹を空かせている。
あいつらを食わせるのは、俺しかいない。
兄弟たちを、こんなに死なせた。
守ると誓った者たちを、目の前で。
残った奴らを、誰が守る。
誰が、食わせる。
二度と奪われない、強い国。
あと少しだった。
この食べ物と、この魔石さえあれば。
手の届くところまで、来ていたのに。
こんなところで、死ぬわけには……
刃が、口の中を貫いた。
そこで、彼の生きた時間は、終わった。
けれど、私の黒髪をつかんだ手は、まだ離れていなかった。
息絶える、その瞬間まで。
こわばった指は私に触れ、生きてきた時間の、最後の一滴までを、私の中へ流し込んだ。
やがて、息絶えた体が、後ろへ吹き飛ばされる。
手が、離れる。
そこで、すべてが、途切れた。
*
「うわあああああああ!」
私は、自分の悲鳴で、目を覚ました。
両手で、口を押さえる。
喉の奥へ、剣の切っ先が滑り込んでくる——あの感覚。
鬼気迫る顔で見開かれた、アルテミシアの、鋭い目。
それらが、頭の奥にこびりついて、離れない。
恐怖に突き上げられるように、私は、跳ね起きた。
荒い息を繰り返しながら、私は、周りを見回した。
そこは、戦場ではなかった。
天蓋のついた、柔らかな寝台。
磨き上げられた、家具。
窓には、見覚えのある、厚い帳。
スミス男爵邸の、客間のベッドの中だった。
帳のすき間から、穏やかな昼の光が、一筋だけ、差し込んでいる。
私は、自分の両手を見下ろした。
震えが、まだ止まらない。
その手の中には、もう、誰の人生も、流れてはいなかった。
枯れていく、あの少女の顔。
——マリア。
私の息が、止まった。
知っていた。
あの顔を、あの皺だらけの手を、私は知っていた。
宿場の村。
寝台の上で枯れ果て、最期に「ヨゼフ」と、そして「ごめんね」と、喉の奥から絞り出した少女。
その人生を丸ごと受け取り、自分の手で、土に還した、あの少女だった。
迎えに来てほしいと泣いた、あの少女。
帰さなかったら一生恨むと言った、あの少女。
その少女に名を呼ばれていた男が、ついさっき、私の首すじに、刃を当てていた。
私の胸の奥に、ヨゼフの最期が、消えずに沈んでいた。
飢えたことのない者には分かるまい、と彼は言った。
奪われない国を作るのだ、と。
守ると誓った兄弟を、目の前で死なせていく、無念。
その最期の悔しさまでが、私の中に、そっくり残っていた。
寿命を吸い尽くす、あの仕組み。
それが、マリアを枯らした。
そして、同じ仕組みが、まだ幼かったヨゼフから、家族も、居場所も、すべてを奪っていった。
彼もまた、あの大きな仕組みに、振り回された一人だったのだ。
——だが。
私は、両手を、きつく握りしめた。
振り回された果てに、ヨゼフはその手で、別の子供たちを、同じ淵へ突き落とした。
マリアを枯らしたその仕組みを、今度は自分が、別の誰かに向けていた。
被害者であり、加害者でもあった男。
私の胸に残ったのは、憎しみでも、同情でも、なかった。
名前をつけることのできない、重く濁った塊だけが、そこに、ただ居座っていた。




