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第32話 流れ込む過去(前編)

 暗い水の底のような場所に、私は沈んでいた。


 そして、また始まった。


 頭の奥で、低い音が鳴る。

 視界の端が、ゆがんでいく。

 指先が、すうっと冷たくなる。


 宿場の村で、初めて知った感覚だった。


 ——誰かの人生が、流れ込んでくる。


 それが誰のものか、私にはすぐに分かった。


 私の黒い髪を掴んで、首筋に刃を当てたまま、最後の最後まで私に触れていた男。

 ヨゼフ・イングリット。

 その人が生きてきた、時間だった。



「マリア。どうして、村に帰るんだ」


 俺がそう言っても、マリアは聞かなかった。


「母さんが、お前の分まで魔力奉仕をしてるんだろう。このまま帰ったら、母さんだけじゃない。お前まで吸い尽くされて、死ぬだけだぞ」


 マリアは、首を横に振った。

 そして、笑った。

 大丈夫だよ、と言うように。


 その笑い方を、俺は知っていた。

 不安を隠そうとするときの、マリアのいつもの笑い方だった。


「ダメだ。お前を、帰したくない」


 そう言うと、マリアは泣いた。

 泣きながら、怒った顔をした。

 帰さなかったら一生恨む、と言った。

 時間が経ったら、また迎えに来てほしい、と。


 俺の両親は、俺とろくに暮らすこともなく、枯れて死んだ。

 だから、分からなかった。

 どうしてマリアが、自分を犠牲にしてまで、村に帰るのか。

 ただ、犠牲になりに行くだけなのに。



 一人になった俺は、わずかな食料を持って、森に入った。


 すぐに、盗賊に襲われた。

 食料は、全部奪われた。

 奪われて、腹が減って、もう動けなくなった。


 そんな俺に、奴らは干し肉を一切れ、放ってよこした。

 そして、仲間に入れてくれた。


 腹が満ちるというだけで、人は生きていける。

 それを、初めて知った。


 それからは、力をつけて、強盗ばかりして暮らした。

 奪った物を持ち帰ると、みんなが褒めてくれた。

 久しぶりに、腹いっぱい食えた。


 飢えなくていい。

 それがどれほどのことか。

 飢えたことのない奴には、分からないだろう。



 ある日、ふとマリアを思い出して、村を見に行った。


 村は、すっかりさびれていた。

 盗賊になった俺が堂々と歩いても、もう、誰も見向きもしない。


 マリアの家の扉を、押し開けた。


 中にいたのは、徴収官だった。

 マリアの額に、吸魔石を押し当てている。

 魔力奉仕の、最中だった。


 マリアの右手が、力なく宙に上がっていた。

 同い年とは思えないほど、皺だらけの手。

 その手が、ゆらゆらと揺れている。


 もう吸わないでくれ。

 そう必死に訴えているのだと、俺にも分かった。


 隣には、母親がいた。

 母親もまた、皺だらけだった。


「もう、やめてください」


 母親の声は、消え入りそうだった。

 それでも、喉の奥から絞り出すような必死さがこもっていた。


「娘は、手を上げています。もう、限界なんです。どうか、もう……」


 徴収官は、その声を聞こうともしない。


「お前は、母親の分も奉仕すると言ったはずだ。まだまだ、抜けるぞ」



 俺は、見ていられなかった。


 手にしたグレイブを振りかぶり、徴収官に斬りかかった。


 刃が、届く。

 そう思った瞬間だった。


 物陰に隠れていた兵士が、横から体当たりしてきた。

 俺の体は、たやすく吹き飛ばされた。


「誰だ、お前は。捕えろ」


 立ち上がって、もう一度斬りかかる。

 だが、刃はあっさりとかわされた。


 兵士の剣が、横に払われる。

 俺のグレイブが、手から弾き飛んだ。

 二の腕が、ぱっくりと裂けた。


「お前も、魔力奉仕させてやる。死ぬまでな」


 そう言って、徴収官は嗤《わら》った。


 そのとき、マリアの顔が見えた。

 背丈も、服も、ほとんどあの頃のままだ。

 なのに、中身は老婆だった。

 すっかり、枯れていた。


 これまで、枯れた人間は何人も見てきた。

 だが、幼馴染《おさななじみ》の枯れた顔は、別だった。

 胸の奥を、これ以上ないほど深く、えぐられた。


 俺は、叫んで逃げ出した。

 あんな風には、なりたくない。

 死にたくない。



 傷を負いながらも、なんとか逃げきった。


 アジトに戻って、手当てを受けた。

 みんなには、こう言った。

 食料を奪おうとしたら兵士がいて、逃げてきた、と。

 マリアのことは、何も言わなかった。


 その夜、俺は悔しさのあまり、近くの木を何度も殴った。


 すると、木が折れた。

 大人二人分はありそうな太さの木が、根元からへし折れた。


 そうだ。

 俺はその夜、身体強化に目覚めた。



 暗い水の底で、私の胸が、小さくきしんだ。


 この力は、いつも、誰かの絶望の底からにじみ出してくる。

 そのことを、私はもう、知っていた。



 それからの俺は、別人のように強くなった。


 盗賊団の中で、地位を上げていった。

 もう、あの村にも、マリアにも、二度と会いたくなかった。


 だが、あの徴収官だけは、許せなかった。

 街道で待ち伏せして、殺してやった。

 守りの兵士も、赤子の手をひねるように、簡単に殺せた。


 しばらくして、国から兵士が来た。

 アジトはすべて壊され、仲間はみんな殺された。


 俺はまた、一人になった。

 それでも、生き延びた。


 子供と食料をさらい、盗賊団を一から作り直した。

 凶暴な獣がうろつく、森の奥。

 そこに、新しいアジトを築いた。

 国の兵士に、対抗するためだ。


 魔力を操るには、二つのものがいる。

 激しい感情の高ぶりと、生まれ持った才能だ。

 自分が身体強化に目覚めたとき、俺はそれを知った。


 だから、さらってきた子供たちを、わざと恐怖の底へ追い込んだ。

 森の獣をけしかけ、ぎりぎりまで追い詰めた。


 そうやって、魔力を操る者が、何人も生まれた。

 最後まで使えなかった者も、戦いの役には立った。



 記憶の流れの中で、私は息を呑んだ。


 枯れていく幼馴染を、見ていられなかった男。

 その同じ手が、今度は別の子供たちを、追い詰めている。



 この盗賊団を、もっと大きくする。

 そして、いつか、強い国を作る。

 それが、俺の願いだった。


 二度と、奪われない国。

 二度と、飢えない国。

 誰かの寿命を吸い尽くして肥《こ》える奴らに、もう二度と、踏みつけられない国。


 弱ければ、吸われて、奪われて、枯れて死ぬ。

 ならば、強くなるしかない。

 強い者だけが生き残る国を作る。

 それの、何が間違っているんだ。


 そんなある日、魔力を操る兄弟が、三人も殺された。


 一緒にいた、魔力を持たない兵が言った。

 シスターが二人、それをやった、と。

 そして、スミス男爵領に入った、と。


 俺は、偽善《ぎぜん》が許せない。

 世の中を変える力があるのに、何もしない奴が。


 そして、兄弟を殺した奴は、絶対に許さない。

 それが、荒野の兄弟団の、鉄の掟《おきて》だった。



 スミス男爵領に、こちらの内通者《ないつうしゃ》を潜ませてあった。

 その者から、報せが入った。


 シスターは、人々を慰める務めで、領内を歩き回っているという。


 俺は、命じた。

 子供を使って、シスターを捕らえろ、と。


 だが、迎えに行かせた部隊からの報告は、予想外のものだった。


 捕らえに向かった部隊は、全員死んでいた。

 残されていたのは、吸魔石のついた、シスターの片足だけ。


 俺は、悟った。

 死なないために、自分で足を切り落としたのか。


 だが、ここはあの森の中だ。

 大怪我をした女が、凶暴な獣がうろつく森で、生き延びられるはずがない。

 もう、どこかの獣の腹の中かもしれない。


 念のため、確認の部隊を送り込んだ。

 そして俺は、約束の場所へ向かった。


 この食料と魔石さえ手に入れれば。

 男爵領は、俺のものだ。



 だが、約束の場所で待っていたのは、地獄だった。


 兄弟が、一人、また一人と、斬り倒されていく。

 守るはずだった者たちが、目の前で、肉の塊に変えられていく。


 俺は、最後の賭けに出た。

 あの黒髪のシスターの首に刃を当て、盾にした。


 そのとき。

 あの女が、現れた。



 木の枝を杖の代わりに突いて、片足のシスターが歩いてくる。


 あの女だ。

 俺たちの兄弟を殺し、自分で足を切り落としたという、あのシスター。

 森で死んだはずだった。

 どこかの獣の腹の中だと、そう思っていた。

 それが、生きて、ここに立っている。


 歩みは、遅い。

 なのに、一歩ごとに、肌がひりついた。

 これまで斬り合った、どんな剣士よりも鋭い、何か。

 それが、まっすぐ俺に向かってくる。


 殺される。


 手のひらに、汗が噴き出す。

 握っているはずのナイフの感触が、遠のいていく。


「それ以上、近づくんじゃねぇ!」


 俺は、叫んだ。

 盾にしたシスターの首から、とっさにナイフを引き剥がす。

 その切っ先を、女に向けた。


「こいつが、どうなってもいいのか!」


 刃が、人質の首から離れた。


 その、一瞬だった。



 周りの時間が、すうっと引き伸ばされた。

 何もかもが、ゆっくりになる。


 女が、地を蹴った。


 片足の、低く沈んだ影。

 引き伸ばされたこの時間の中でさえ、その跳躍を、俺の目は捉えきれなかった。


 開いたままの、俺の口へ。

 一筋の銀色の光が、恐ろしい速さで滑り込んでくる。


 止められない。

 避けられない。

 俺はただ、それを見ているしかなかった。


 まだだ。

 まだ、死ねない。


 腹の底から、悔しさが噴き上げてくる。


 あの飢えを、まだ終わらせていない。

 腹を空かせて死んでいく者を、まだ一人も救えていない。

 森のアジトで、俺の帰りを待つ兄弟たち。

 あいつらは、今夜も腹を空かせている。

 あいつらを食わせるのは、俺しかいない。


 こんなに、兄弟たちを死なせた。

 守ると誓った者たちを、目の前で。

 残った奴らを、誰が守る。

 誰が、食わせる。


 二度と奪われない、強い国。

 あと、少しだった。

 この食料と、この魔石さえあれば。

 手の届くところまで、来ていたのに。


 こんなところで、死ぬわけには……



 刃が、口の中を貫いた。


 その瞬間、ヨゼフ・イングリットは、事切れた。


 だが、私の黒髪を掴んだ手は、まだ離れなかった。

 息絶える、その瞬間まで。

 こわばった指は触れ合ったまま、男が生きた時間の、最後の一滴までを、私の中へ流し込んだ。


 やがて、事切れた体が、後ろへ吹き飛ばされる。

 手が、解ける。


 そこで、すべてが、途切れた。



「うわあああああああ!」


 自分の悲鳴で、私は目を覚ました。


 両手で、口を押さえる。


 喉の奥に、剣の切っ先が滑り込んでくる、あの感覚。

 かっと見開かれた、アルテミシアの鋭い目。

 それらが、頭の奥にこびりついて、離れない。


 恐怖に突き上げられるように、私は跳ね起きた。



 荒い息を繰り返しながら、私は周りを見回した。


 そこは、戦場ではなかった。

 天蓋《てんがい》つきの、柔らかな寝台。

 磨き上げられた、家具。

 窓には、見覚えのある厚い布。


 スミス男爵邸の、客間の寝台の中だった。


 布の隙間から、穏やかな昼の光が、一筋だけ差し込んでいる。


 私は、自分の両手を見下ろした。

 震えが、まだ止まらない。


 その手の中には、もう、誰の人生も流れてはいなかった。



 枯れていく、あの少女の顔。


 ——マリア。


 私の息が、止まった。


 知っていた。

 あの顔を、あの皺だらけの手を、私は知っていた。


 宿場の村。

 寝台の上で枯れ果て、最期に「ヨゼフ」と、そして「ごめんね」と、喉の奥から絞り出した少女。


 その人生を、丸ごと受け取った。

 そして、私の手で、土に還《かえ》した。

 あの少女だった。


 迎えに来てほしいと、泣いた相手。

 帰さなかったら一生恨む、と言った相手。


 その名を呼ばれていた男が、ついさっき、私の首筋に刃を当てていた。



 私の胸の奥に、ヨゼフの最期が、消えずに沈んでいた。


 飢えたことのない者には分かるまい、と彼は言った。

 奪われない国を作るのだ、と。


 守ると誓った兄弟を、目の前で死なせていく無念。

 その最期の悔しさまでが、私の中に、そっくり残っていた。


 寿命を吸い尽くす、あの仕組み。

 それが、マリアを枯らした。

 そして、同じ仕組みが、まだ幼かったヨゼフから、家族も、居場所も、何もかもを奪っていった。


 彼もまた、その大きな仕組みに、振り回された一人だったのだ。


 ——だが。


 私は、両手をきつく握りしめた。


 振り回された果てに、ヨゼフはその手で、別の子供たちを、同じ淵《ふち》へ突き落とした。

 マリアを枯らしたその仕組みを、今度は彼自身が、別の誰かに向けていた。


 被害者であり、加害者でもあった男。


 私の胸に残ったのは、憎しみでも、同情でもなかった。


 名前をつけることのできない、重く濁った塊。

 それだけが、私の中に、居座っていた。


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