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第31話 殺気(後編)


 ひゅっ、と風を切る音がした。


 岩の上に、まだ弓を持った敵が一人、残っていた。

 その矢が、ベガさんの右の太ももに深く突き刺さる。


 ベガさんの膝が折れた。

 杖にすがって、片膝でなんとか身体を支える。

 こらえきれない、うめき声がもれた。


「ベガさん!」


 私は、悲鳴みたいな声を上げてしまった。


 その声に、シェリーの目が、ほんの一瞬だけ動いた。

 ヨゼフから、膝をついたベガさんへと。


 ほんの一瞬。

 それだけだった。


「隙を見せたな!」


 ヨゼフが、その一瞬を見逃さなかった。

 ずっと押されていたはずの男が、両手のナイフを低く構えて、シェリーの懐へ飛び込む。

 長剣を振りかぶる暇もない。

 それくらい、近い間合いだった。


 シェリーが、とっさに身を引く。

 でも、ほんの少し遅れた。

 ヨゼフのナイフの先が、シェリーの左の二の腕を浅く切り裂く。

 鎧《よろい》の隙間から、赤い線がにじんだ。


「……っ」


 それでもシェリーは、数歩を跳んで二撃目をかわした。

 体に魔力を流して、腕や足を強くする。

 身体強化(しんたいきょうか)の力だ。

 傷の痛みに、奥歯を噛みしめている。


 ヨゼフの顔が、いらだちに歪んだ。

 仕留めたはずの相手が、もうそこにいない。


「シェリー!」


 片膝のベガさんが叫んだ。

 ローブの内側から、ナイフを一本引き抜く。

 くるくると回りながら宙を舞うそれを、シェリーの手が掴み取った。


「そんなナイフ一本で、何ができる!?」


 ヨゼフが笑う。


 私には、分からなかった。

 長剣を片手に持ちかえれば、剣の力は落ちる。

 なのに、どうしてシェリーは、わざわざナイフを——。


 その答えにたどり着くより、早かった。


「逃げろ!」


 ヨゼフが、岩の上へ向かって叫んだ。


 岩の上では、最後の弓兵が、ベガさんにとどめを刺そうと、鉄の弓を引き絞っていた。


 その弓兵を包むように、薄い半円の膜が立ち上がる。


 ベガさんだった。

 片膝をついて、血の気の失せた顔で。

 それでも、杖の先をまっすぐ岩の上へ向けている。

 遠く離れた敵を、膜で包みこんでいた。


 静域(せいいき)。

 ベガさんの魔法だ。

 この膜の中では、魔法も身体強化も、すべて効かなくなる。

 味方だろうと、敵だろうと、容赦はない。


 弓兵の身体から、力がふっと抜け落ちた。


 限界まで引き絞った鉄の弓を支えていたのは、その力だったのに。

 力が消えたとたん、弓兵は弓のすさまじい反発に負けた。

 矢は狙いも定まらないまま、見当ちがいの方へ飛んでいく。


 弓兵が、自分の胸元を見下ろした。


 そこに、ナイフが一本、深々と突き刺さっていた。


 膜が敵の力を奪った、その無防備な一瞬。

 膜の外にいたシェリーが、身体強化を残したまま投げこんだ一刀だった。


 ——そうか。

 わざわざナイフを受け取ったのは、このためだったんだ。


 弓兵は声もなく、岩の上から崩れ落ちた。


 そして、ほとんど同時に。


 杖を掲げていたベガさんが、糸が切れたように地面へ倒れ伏した。

 肩と足の、二つの傷。

 そして、遠くまで膜を張るために絞り出した、最後の魔力。

 老いた身体に、それはあまりに重すぎたのだ。


  *


 ヨゼフの足が、ふいに止まった。


 その目が、戦場をすばやく見回す。

 地に伏した、ベガさん。

 ナイフを投げ終えた格好のまま立つ、シェリー。

 そして——私。


 ヨゼフが何を考えているのか、私には分からなかった。

 ただ、その静けさだけが、ひどく嫌だった。

 その目に、迷いはなかった。


 次の瞬間、ヨゼフが地面を蹴った。


 シェリーの肩が、びくりと跳ねる。


「なっ……」


 でも、ヨゼフが向かった先は、シェリーじゃなかった。


 まっすぐ、最短の道を。

 ヨゼフは、私に向かって走ってきた。


 私は、反応できなかった。


 ヨゼフの手が、私の黒い髪をわしづかみにする。

 もう片方の手のナイフが、白い首筋に、ぴたりと当てられた。


 冷たい鋼の感触。


「動くな!」


 ヨゼフが叫ぶ。


 シェリーは、長剣を構えたまま、一歩も動けなくなった。

 身体強化したヨゼフの速さは、シェリーも知っているはずだ。

 一歩でも動けば、その瞬間に、私の首は切り裂かれる。


「これでおしまいだ」


 ヨゼフが、私の髪をぐいと引いた。

 喉が後ろへ反って、刃が皮膚に食いこむ。


 私は、動けなかった。


 逃げろ、と頭が叫ぶのに、指の一本すら動かせない。

 首筋の鋼の冷たさが、背骨を伝って、全身を凍りつかせていく。

 息を吸えば、その分だけ、喉が刃に近づく。

 涙でにじんだ視界の向こうで、世界がぼやけて揺れていた。


  *


 シェリーの目が、激しく動いていた。

 倒れた、ベガさん。

 私の首に当てられた、刃。

 そして、自分の長剣。


 シェリーには、分かっているのだ。

 ベガさんは、もう動けない。

 ヨゼフは、身体強化をしている。

 自分が少しでも動けば、私の首が飛ぶ。


 ——詰んでいる。


 握りしめた剣の柄が、ぎりぎりと軋む音を立てた。


 そして、シェリーは。

 長剣を、地面へ落とした。


 主君ひとり、守れない。

 その悔しさが、シェリーの顔に、はっきりとにじんでいた。


「いい判断だ!」


 ヨゼフの声が、勝ち誇る。


 ヨゼフは、私の髪を掴む手を一瞬だけ離して、何かをシェリーへ放った。

 投げ終えると、すぐにまた髪を掴み直す。

 首筋のナイフは、一度も離れなかった。


 それは、手錠みたいな形をした、金属の輪だった。

 表面に、見覚えのある琥珀色の石が、いくつも嵌めこまれている。


「それを手に付けろ」


 逆らうことを許さない口調だった。


 シェリーは唇を噛んで、黙ってその輪を、左の手首に嵌めた。


 カチッ。


 その瞬間だった。

 シェリーの全身から、魔力が根こそぎ引き抜かれていく。

 左手首の輪が、すべてを吸い取っていくのだ。


 身体強化の代償が——ためこんでいた疲れが、津波みたいに押し寄せた。


 シェリーの膝が折れる。

 腕に、力が入らない。


「あはははっ」


 ヨゼフが、高らかに笑った。

「これで終わりだ」


 ヨゼフは身体強化で、膝をついたシェリーへ一足に近づく。

 そして、その腹を思いきり蹴り上げた。


「がはっ」


 シェリーの身体が宙に浮いて、地面を転がった。

 倒れたその口から、赤い血が糸を引いてこぼれ落ちる。


「お前も、アジトで可愛がってやるよ」


 ヨゼフは、ナイフを私の首に当てたまま、倒れたシェリーへ向かって歩き出した。

「さんざん、俺らの兄弟を殺しやがって」


  *


 私の視界は、涙でにじんでいた。


 首には、冷たい刃。

 髪を掴まれて、身動きが取れない。

 ベガさんは、地面に伏したまま動かない。

 シェリーは、血を吐いて倒れている。


 ——終わった。


 そう、思いかけた。


 息を合わせた連携も。

 シェリーの銀色の剣も。

 ベガさんの風の刃も。

 たった一人、最後まで残った男に、すべてをひっくり返された。


 私の心が、暗い水の底へ沈んでいく。


 その時だった。


 ヨゼフの足が、ぴたりと止まった。


 私の首を掴む、その手も。

 血の気の引いた、シェリーの視線も。

 そして、絶望に沈みかけていた、私の意識さえも。


 すべてが、ある一点へと引き寄せられた。


 戦場の、外れ。

 風の吹き渡る、その行き着く先に。

 一人の女の人が、立っていた。


 その姿は、まだよく見えない。

 ただ、そこから何かが放たれていた。

 肌がひりつくような、研ぎ澄まされた、何か。


 これまでの、どの刃よりも。

 どの魔法よりも。

 冷たく、鋭く。

 戦場の空気そのものを、凍りつかせていた。


 殺気(さっき)。


 その一点から押し寄せる、すさまじい殺気に、ヨゼフが息を呑む。

 シェリーの目が、大きく見開かれた。


 私の唇が、震えながら、その名を呼んだ。


「——アルテミシア、さん……?」


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