第三十話 殺気(前編)
見る。消す。守る。
私たちの間に、一つのリズムが生まれていた。
私が紋章の立ち上がりを見て、ベガさんに属性を囁く。
ベガさんが正反対の属性をぶつけて、相手の魔法を打ち消す。
そして膜の外に立つシェリーが、飛んでくる矢を弾き返す。
その三つが噛み合っているあいだ、私たちの態勢は崩れなかった。
*
戦いが始まると同時に、岩の陰に潜んでいた男たちが動き出していた。
風の王座を半円形に囲む形で、荒野の兄弟団の男たちが武器を構えて立っている。
弓を引く者が二人。
ローブをまとい、杖を握った魔術師が二人。
そして先頭に、ヨゼフ。
数では、向こうがはるかに上だった。
それでもベガさんは、慌てなかった。
「ふむ」
ベガさんが岩の上の弓兵に向かって、杖の先をゆっくりと向けた。
その目は、岩肌を流れる風の動きを読んでいた。
この地に満ちる風を、どう借りれば最短で片づけられるか。
その一点だけを、静かに測っていた。
「アルテミシアが待っておる。手間取っている暇はない」
ベガさんは低く呟いた。
「この風、ありがたく使わせてもらうぞ」
*
ベガさんの杖の先で、いくつもの紋章が空中に組み上がっていった。
私の目には、それがはっきりと見えた。
風刃の紋章が、一つ、二つ、三つ。
岩肌を渡る風が、その紋章の渦の中へ、勢いよく吸い込まれていく。
放たれた。
空気を裂く、鋭い音だけが走った。
「ぐ……がああああ!」
弓兵の右手が、肘の先から千切れて飛んだ。
鉄弓が岩の上に落ちる、からんとした音がした。
それで終わりではなかった。
続けて右足。
左の脇腹。
次々と見えない刃が降り注ぎ、男の体を刻んでいく。
岩の上から、何かが崩れ落ちる、重い音がした。
弓兵は、動かなくなっていた。
*
私は思わず、目を逸らしかけた。
人が死ぬ。
すぐ目の前で。
生きていた者が力を失い、ただの重い塊に変わっていく。
その音が、その匂いが、容赦なく五感に押し寄せてきた。
――これは、戦いだ。
私は奥歯を噛んだ。
目を背けてはいけない。
背ければ紋章が見えなくなる。
紋章が見えなくなれば、ベガさんもシェリーも危うくなる。
私は震える視線を、無理やり戦場へ戻した。
*
ベガさんの放った刃が、もう一人のローブの魔術師をも斜めに切り裂いた。
魔術師は、組みかけた紋章を空中に残したまま、声もなく倒れた。
討ち終えると同時に、ベガさんの周囲に、薄い半円の膜が再び張り上がる。
その前に、シェリーが長剣を構えて立った。
崩れかけていた態勢が、また組み上がる。
岩の上で、ヨゼフが震えていた。
*
「お前ら……」
ヨゼフの声が掠れた。
「絶対に許さない。……くそっ!」
ヨゼフの目に、涙の膜が張った。
その涙に、私は虚を突かれた。
手足を一本ずつもぐと嗤っていた、あの男の目から。
――だが。
私は思い出した。
引き渡しの場で、この男が言ったことを。
力のない者を養うつもりはない。
強い者だけを鍛えて、強い国を作る、と。
ならば、今地に伏した男たちは。
この男が選び、共に飢えを生き延びてきた、数少ない「強い仲間」だったのだ。
荒野で、寄る辺のない者同士が、奪い合いの果てに、それでも肩を寄せ合った。
いびつな、家族。
その一人ひとりが、今、目の前で力を失っていく。
私の胸を、奇妙な痛みがかすめた。
――憎いはずなのに。
この男の怒りの根のところに、私は見覚えのあるものを感じた。
直轄地の廃村で、命を削られて老いていったあの人々の絶望。
それと地続きの何かが、この盗賊の涙の底にも、確かに横たわっている気がした。
私には、その感覚をすぐ言葉にできる余裕がなかった。
*
だが、ヨゼフの頭は急速に冷えていった。
怒りに任せて突っ込めば死ぬ。
研ぎ澄まされた本能が、それを許さなかった。
ヨゼフの目が、岩の上からゆっくりと私たちを見渡した。
ベガさん、シェリー、私の順に、その目が静かに動く。
私はヨゼフの視線を、無言で追った。
――何を、見ている。
ベガさんは攻撃の魔法を放つとき、いったん膜を消している。
放ち終えると、また張り直す。
攻めと守りを、同時にはできない。
そして、シェリー。
シェリーは身体強化を使っているのに、なぜ膜の内側へ入らないのか。
答えは一つだった。
膜の中では、魔法も身体強化も使えなくなる。
あの異常な速さを失えば、シェリーはただの剣士だ。
だから外にいる。
守りを引き受けて、外に立ち続けている。
ヨゼフの口の端が、わずかに上がった。
――そして。
膜は、矢を止めなかった。
物理的な攻撃は、防げない。
つまり――。
*
ヨゼフが地を蹴った。
岩の上から、シェリーへ向かって矢のように跳ぶ。
シェリーの背筋がぴくりと反応した。
構えをその方向へ向ける。
ヨゼフは腰の小さな袋を、シェリーへ向けて投げつけた。
シェリーは長剣で、その袋を宙で両断した。
こぼれ出たのは、細かい黒い砂だった。
*
黒い砂が宙に散った。
風に乗って、シェリーの顔へ。
「……っ」
シェリーが反射的に、片手で顔を覆った。
目を潰されまいとする、ほんの一瞬の判断。
でも、その一瞬こそが、ヨゼフの狙いだった。
両手のナイフが、シェリーの懐へ斬りかかる。
シェリーは顔を覆ったまま、半歩横へ跳んだ。
構えは解かない。
ほとんど勘で長剣を振り抜く。
刃が空を薙いだ。
ヨゼフはその一撃を、身を逸らして避けた。
そして、がら空きになったシェリーの胴へ、鋭い蹴りを叩き込んだ。
*
シェリーの体が、横へ流れた。
バランスを崩す。
よろける。
その足が――膜の内側へ踏み込んでしまった。
その瞬間。
シェリーの全身から、満ちていた力がすうっと抜け落ちた。
身体強化が、消えた。
シェリーの顔に、驚愕が走った。
当たり前に出ていた速さが、嘘のように消えている。
出なきゃ。
シェリーはすぐに膜の外へ出ようとした。
だが――。
*
「遅い!」
ヨゼフが嗤った。
膜の中では、シェリーの動きが水の中を歩くように緩くなっていた。
膜の外へ出るまでの、その一瞬。
そこが、急所だった。
「撃て!」
ヨゼフが叫んだ。
岩の上で、生き残った弓の男が、鉄弓を限界まで引き絞る。
*
弓の向いた先に、私は気づいた。
膜の中の、ベガさんの右肩。
まっすぐそこへ、矢が狙われている。
――撃たれる。
矢は放たれてからでは追えない。
森で、いやというほど思い知らされていた。
だから、私は矢を待たなかった。
弓がぎりと鳴り切る、その前に。
「ベガさん!」
私は、ベガさんの体を横から突き飛ばした。
ほとんど同時に、矢が放たれた。
ベガさんの体が傾いだ、そのぶんだけ。
矢は心臓をわずかに逸れ、右の肩へ深々と突き刺さった。
「……くっ」
ベガさんの口から、押し殺した呻きが漏れた。
膜は矢を止めなかった。
魔法は防いでも、鉄の勢いまでは防げない。
その痛みに、ベガさんの集中が断ち切られた。
半円の膜が、ふっと揺らいで、消えた。
*
膜が消えた。
その瞬間、シェリーの全身に、失われていた力が洪水のように戻ってきた。
身体強化が、再び巡る。
シェリーが地を蹴った。
「速い……!」
ヨゼフの目が見開かれた。
数歩離れていたはずの白銀の影が、一瞬で目の前まで詰めてくる。
長剣が、頭上から唸りを上げて振り下ろされた。
ヨゼフは両手のナイフを十字に組み、剣の勢いを横へ逸らす。
それでも刃は、ヨゼフの左肩の布を浅く裂いた。
赤い布の下から、血がにじんだ。
振り抜かれた剣が、返す刀で横薙ぎに踊る。
「くそっ!」
ヨゼフが後ろへ跳んで、それをかわす。
*
その攻防のさなか。
岩の上で、最後のローブの魔術師が、杖を両手で握りしめていた。
膜が無い。
今だ。
魔術師の頭の中で、巨大な紋章が組み上がっていく。
私の目が、それを捉えた。
ベガさんと私を取り囲むように、地を這う円の紋章が現れる。
その線が時計回りにぐるりと回り始め、円の内側へ、風の力が渦を巻いて集まってくる。
さらに、風の紋章の間に、火の紋章が立ち上がった。
炎の竜巻。
これまでの風刃とは、桁が違う規模だった。
*
ベガさんは肩に矢を受けたまま、すぐには動けなかった。
正反対の属性をぶつけて打ち消すにも、紋章を組む一瞬が要る。
その一瞬が、もう無い。
間に合わない。
私は咄嗟に、腰の革袋からスティックを引き抜いた。
父の形見の軸に、琥珀色の吸魔石を巻いた、あの一本。
森のときは届かなかった。
岩の上の紋章には、手が届かなかった。
でも今、その紋章は、私たち自身の足元を取り囲んで立ち上がっている。
――届く。
私は走った。
ベガさんの周囲を円く囲む紋章の線に沿って、スティックの石を、その線に撫でつけるように駆け回る。
*
「あのシスター、何をしている……?」
岩の上の魔術師が、眉をひそめた。
修道服の女が、杖のようなものを握って、自分たちの周りをぐるぐると走り回っている。
意味の分からない動きだった。
「……まぁいい。いけッ!」
魔術師はありったけの魔力を注ぎ込んで、竜巻を放った。
地を抉り、すべてを巻き上げる、巨大な風の柱が立ち上がる――はずだった。
だが、何も起きなかった。
*
私のスティックが撫でた跡から、竜巻の紋章が、糸のほつれるように端から解けていった。
集まりかけていた膨大な風の力が行き場を失い、ただのそよ風となって四方へ散っていく。
「何ッ……?」
魔術師が目を剥いた。
「何が起きた……ぐあっ」
その声の途中で、魔術師の体が、斜めに切り裂かれた。
*
斬ったのはシェリーではなかった。
振り返ると、肩に矢を生やしたベガさんが、魔術師へ向けて杖を構えていた。
その先から、最後の風刃が放たれた直後だった。
膜が消えているいま、ベガさんも魔法を放てる。
私が竜巻を消した一瞬の隙に、ベガさんはすかさず止めの刃を送り込んでいた。
連携。
私が紋章を消し、その隙にベガさんが討つ。
竜巻という最大の魔法すら、二人の呼吸が合えば、無力化できる。
*
でも、その代償は、すぐに来た。
握ったスティックの石が、じわりと熱を持っている。
吸い込んだ風の力が、行き場を失って、私の内側へ流れ込んでいた。
竜巻ほどの力を、丸ごと。
ぐらり。
足元が傾いだ。
視界の縁が白く褪せる。
頭の奥で、低い耳鳴りがぐわんと鳴った。
鼻の奥に、つんとした感触が走った。
手の甲で拭うと、赤い筋が一条、伝っていた。
――鼻血。
訓練場で気を失った、あの感覚によく似ていた。
いや、あのときより、ずっと深い。
『大きな魔法を続けて吸えば、その分が、お前さんの中に溜まる。溜まりすぎれば……下手をすれば、それきりだ』
馬車の中でベガさんが言った言葉が、煮えた頭の底でぐらぐらと反響した。
私は奥歯を噛みしめ、崩れそうな膝に、無理やり力を入れた。
*
それでも、戦いはこちらに傾いていた。
弓の男が一人。
魔術師が二人。
合わせて三人が、すでに倒れた。
残るは、ヨゼフと、岩の上の最後の弓の男だけ。
シェリーの剣は、ヨゼフを一方的に押し込んでいる。
私の胸に、わずかな希望が灯った。
――このまま、いけば。
ヨゼフを捕らえて、アルテミシアさんの行方を聞き出せる。
私は肩で息をしながら、よろめく足で、ベガさんの傍らへ向かった。
その瞬間だった。




