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第29話 白銀の盾

 それが、何なのか。


 頭のどこかが、理解することを拒んでいた。


 目には映っている。

 輪郭も、色も、はっきりと見えている。


 なのに。


 脳がその最後の一線を、どうしても認めようとしなかった。


「……アルテミシア、さん……?」


 かすれた声が、口から漏れた。


 そこにあったのは、人の右足だった。


 膝から上には、もう何もない。

 あるべきものが、そこで断ち切られていた。


 ――違う。


 胸の中で、誰かが叫んだ。

 これはアルテミシアさんのじゃない。

 どこかの誰かの、たまたま似ただけの足だ。


 でも。


 その右足には、靴が履かされていた。


 その靴を、私は知っていた。


 街道を二人で旅した日々。

 馬に揺られながら、焚き火の脇で、井戸の縁で。

 私は何度も、その靴を見ていた。


 背丈の割に、私の足よりも小さな靴。

 靴底には、何度も縫い直した跡があった。

 すり減るたびに、自分で繕ってきたのだ。

 新しいものを買う金があれば、その分は誰かの薬代に消えた。

 そういう人だった。


 縫い目の一つ一つ。

 革のかすれ具合。

 爪先のわずかな反り。

 そのすべてが、声を揃えて告げていた。


 ――これは、アルテミシアさんの靴だ。


「――っ、ああ……アルテミシアさん!」


 喉の奥から、声にならない何かが噴き出した。


 私はその場に、崩れるように膝をついた。

 修道服の裾が、乾いた草の上に広がる。

 両手を、断ち切られた足の方へ伸ばした。


 でも、指が届かなかった。


 あと、ほんの少しのところで、手が止まる。

 震える指先が、宙で固まったまま動かなくなった。


 触れてしまえば、これが本物になる。


「アルテミシアさん……」


 涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。

 頬を伝い、顎の先から、乾いた草の上へ落ちていった。



 *



「お前たちにも」


 頭の上から、ヨゼフの声が降ってきた。


「俺たちの仲間を、殺された」


 私は顔を上げた。


 岩の上で、ヨゼフがナイフを握り直していた。

 赤と青の布が、風の中でひらひらと揺れている。

 その口元には、笑みが貼りついたままだった。


「だから、お前にも」


 ヨゼフはナイフの刃を、目の高さまで持ち上げた。


「最大限の恐怖と苦痛を与えてから――殺してやる」


 刃が、陽の光をぎらりと跳ね返した。


「その馬車に積んできた魔石と食料は、ありがたく頂戴するぜ。あれを元手に仲間を増やす。村の子供を一人さらえば、親はいくらでも言うことを聞く。人が増えれば、スミスの柵なんざいずれ内側から食い破れる。あの領地は、まるごと俺たちのものだ」


 私は、ヨゼフを睨み上げた。


 涙で滲んだ視界の中でも、その目だけは揺らがなかった。


 胸の底で、悲しみがゆっくりと別の熱に変わっていく。

 喉の奥が震えた。

 でもその震えは、もう恐怖のものではなかった。


「お前たちが」


 声が震えた。

 涙の混じった、かすれた声だった。


「お前たちが、私たちを襲ってきた。だから、倒した。私たちの方から、仕掛けたわけじゃない」


「俺たちの縄張りに、勝手に入っただろう」


 ヨゼフはつまらなそうに言った。


「理由は、それで十分だ」


 私は涙を拭わなかった。


 拭わないまま、ゆっくりと立ち上がった。

 膝がわずかに震えていた。

 それでも地を踏みしめ、背筋を伸ばした。


 涙の熱を、そのまま声に変えるように。


「自分たちで勝手に決めたルールを、他人に押しつけないで」


「そんなものに、正当性《せいとうせい》なんてどこにも無い」


「ふん」


 ヨゼフの目が、すっと細くなった。


「何を言おうが、お前は死刑だ」


 岩の上から、私を見下ろす。


「まずは――その可愛い手足を、一本ずつもいでやる」


 ヨゼフが右手を高く上げた。

 そして、勢いよく振り下ろした。


 その合図と同時だった。


 岩の上の弓兵が、鉄の弓をきりきりと引き絞った。


 矢が放たれた。


 空気を切り裂く音が聞こえたと思った瞬間、もう矢は私の右肘を目がけて走っていた。


 避ける間など、なかった。


 ガキン。


 私のすぐ目の前で、硬い音とともに火花が散った。


 白銀の色が、視界を塞いだ。


 磨き上げられた鎧の背中だった。

 腰の左には、装飾のない無骨な長剣。

 その抜き身の刃が、矢を弾き返した余韻でわずかに震えていた。


「シェリー……」


 私は後ろへ半歩下がった。


 シェリーは振り向かなかった。

 岩の上の敵だけを見据えたまま、言った。


「リディー」


 低く、でもはっきりした声だった。


「まだ、アルテミシアさんが死んだと決まったわけじゃない」


 私の息が、止まった。


「あいつらを倒して。――探しに行くよ」


 私の胸の奥で、重く沈んでいた何かが、ほんの少しだけ軽くなった。


 決まったわけじゃない。

 そうだ。

 まだ何も終わってなどいない。


 シェリーの背中の揺るがなさが、崩れかけた私の足元を、もう一度支えてくれていた。


 私は涙の残った頬を、手の甲でぐいと拭った。



 *



「どこから出てきた……?」


 岩の上で、ヨゼフが目を見開いた。


 その表情から、初めて余裕の色が剥がれ落ちた。


 馬車の中には誰もいなかったはず。

 樽の中まで調べた魔術師が、なぜ見逃した。

 その問いが、ヨゼフの顔にありありと浮かんでいた。


「魔法使い!」


 ヨゼフが叫んだ。


「シスターに向かって、魔法を撃て!」


 私には見えていた。


 岩の上には、杖を持った術者が二人いた。

 その片方の周辺に、風の紋章が立ち上がっていく。

 縦に三本。

 鋭く尖った、刃の形をした紋章。

 その線に沿って、風の力が束になって巻きついていく。


 ――風の刃だ。


 私の指が、咄嗟《とっさ》に腰の革袋へ伸びかけた。


 でも、届かない。


 紋章が遠すぎた。

 琥珀色《こはくいろ》の石を巻きつけたスティックは、紋章に沿わせて初めて力を解ける。

 あの岩の上の紋章には、とても手が届かない。


 風の刃が放たれた。


 三本の見えない刃が、空気を裂いて私へ迫る。


 シェリーは動かなかった。

 私を守る位置のまま、ヨゼフと弓兵だけを見据えている。

 風の刃には、見向きもしなかった。


 その刃が、私に触れる寸前で。


 ふっと、霧散した。


 私の周りに、いつの間にか薄い半球の膜ができていた。

 陽の光をわずかにゆがめる、透明な膜。

 風の刃はその膜に触れた途端、行き場を失って、ばらばらとほどけて消えていった。


「ふむ……危ないところであったな」


 聞き慣れた、しわがれた声が後方から聞こえた。


 振り向くと、馬車の御者台《ぎょしゃだい》の脇に、ベガさんが立っていた。

 杖の先を、まっすぐこちらへ向けている。

 杖先の魔石が、淡く光っていた。


 馬車の荷台では、蓋の開いた樽が二つ、横倒しになってごとごとと転がっていた。


「てめぇら……!」


 ヨゼフの声が、岩の上で引きつった。


 ベガさんはゆっくりと歩いてきた。

 修道服の私のすぐ隣に並んで立つ。

 戦いの場には、似つかわしくないほど落ち着いた足取りだった。


「さて」


 ベガさんは白髪交じりの眉の下から、岩の上の敵を見上げた。


「ぐずぐずしてはおられぬ。――さっさと片付けて、アルテミシアを助けに行くぞ」


 風が一陣、四人の間を吹き抜けた。

 岩の草が激しく波打つ。

 その音だけが、しばらく戦場を満たした。


 一時の静寂だった。

 敵も味方も、互いの出方を測っている。



 *



 私はその静寂の中で、魔術師の周辺にまた新しい紋章が立ち上がるのを見た。


 今度は、シェリーの足元へ向けて。


 オレンジ色の熱を帯びた線が円を描き、その中で炎のように渦を巻き始めている。


 ――火の紋章だ。


 私はベガさんに顔を寄せ、声を落とした。


「ベガさん。シェリーの足元に、火の紋章が」


 ベガさんは頷かなかった。

 ただ無言で、杖を構え直した。


 次の瞬間。


 ベガさんは私を包んでいた膜を、すっと払った。

 膜がある間は、味方の魔法すら立ち上がれない。

 攻めるには、いったん膜を解くしかなかった。


 シェリーの足元の空気が、一気に冷えた。


 地面の草に、見る間に白い霜が降りる。

 シェリーの吐く息が、ふっと白く染まった。


 それとほぼ同時に、シェリーの足元で火がちろりと灯った。

 でもそれは立ち上がる前に、冷気に押し潰されるようにしゅうっと音を立てて、消えた。


「何ッ……!?」


 岩の上で、魔術師が声を上げた。


「なぜ、火が立たない!」


 ――これは、馬車の中で決めておいた作戦の一つだった。


 相手に魔術師がいる場合、紋章が見えた私がすぐベガさんへ属性《ぞくせい》を伝える。

 ベガさんは、その紋章と正反対の力をぶつける。

 火には冷気を。風には収束を。

 相手が借りようとする自然の力を、こちらが先回りして打ち消す。


 紋章を見るのが私で、属性で返すのがベガさん。

 二人が揃って、初めて成り立つ連携だった。


「――なら、これならどうだ!」


 岩の上の弓兵の一人が叫んだ。


 弓兵は鉄弓の狙いを、私でもシェリーでもなく、ベガさんの胸へ定めた。


「魔術師に、あの矢は避けられん!」


 矢が放たれた。


 膜は魔法を防げても、矢は防げない。

 ベガさんは魔術師だ。

 あの速さで飛んでくる矢を、体一つでかわす力はない。


 弓兵の読みは、正しかった。


 ガキーン。


 でも、その矢もまた、ベガさんに届く寸前で、硬い音とともに弾かれた。


 膜の外側で、シェリーが前へ一歩踏み出していた。

 長剣の腹で、矢を横ざまに打ち払っていた。


 剣を握る細い腕が、鉄の矢の勢いを軽々と受け流す。

 自分の魔力を体に流して力を高める、身体強化の力だった。


 膜を張る間は、ベガさんは魔法が打てない。

 その隙に飛んでくる矢を、外のシェリーが弾く。

 ベガさんが魔法を打ち消し、シェリーが体で矢を受ける。

 二人がかわるがわる、互いの隙を補い合う。


 これも、馬車の中で何度も話し合っておいた連携の一つだった。



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