第28話 風の王座
私は、一人だった。
御者台に座り、慣れない手綱を両手で握りしめながら、馬を進めていた。
シェリーは、もういない。
荷台には、いくつかの樽が積んである。
食料と、魔石。手紙が要求してきた、馬車一台分の積み荷だ。
だが、そのうちの二つには——別のものが入っていた。
ベガさんと、シェリーだった。
風の王座が遠くに見え始めた頃、シェリーはベガさんとともに荷台の樽へ身を隠した。
代わりに私が御者台へ移り、手綱を引き継いだ。
樽の外側には、琥珀色の吸魔石を編み込んだ縄が、ぐるりと巻きつけられている。
——魔力の気配を消すための縄だ。
樽の蓋を閉じる前に、ベガさんがそう告げた。
相手の側にも、魔術師がいるはずだ。
もし魔力を探る術をかけられたら、隠れている二人がすぐに見つかってしまう。
だが、この縄が二人の漏らす魔力を吸い取れば、探知の網には、ただの樽としか映らない。
それが、ベガさんの策だった。
*
草原の彼方に、ごつごつとした岩の塊が、せり上がってきた。
低い緑の中で、そこだけがひときわ高い。
風雨に長く削られた灰色の岩が積み重なり、いびつな塔のような形を空へ向かって作っていた。
——あれが、風の王座。
頂では、絶えず強い風が吹いているのだろう。
岩肌にわずかに張りついた草が、てっぺんで激しく揺れているのが、遠目にも見えた。
私は、その岩の輪郭をじっと見据えた。
膝の上で重ねた手を、気づかないうちに強く握りしめていた。
手のひらに、汗がにじむ。
——アルテミシアさん。
その名を、胸の奥でもう一度呼んだ。
*
空を見上げると、太陽はまだ天頂に届いていなかった。
わずかに余裕がある。
ぎりぎり、間に合った。
私は岩から少し離れた場所で、馬の歩を止めた。
慣れない手で手綱を引くと、馬が鼻を鳴らし、乾いた土を前足で一度掻いた。
「……ここで、合っているはず」
低く呟いて、御者台からゆっくりと地面へ降りた。
修道服の黒い裾が、風にあおられてはためく。
岩のまわりに、人の姿は見えなかった。
ただ、草の上を渡っていく風の音だけが、絶え間なく続いていた。
私は、岩へ向かって歩き出した。
一歩ごとに、足首の脇の草がしなって倒れる。
岩が近づくにつれ、風の音が低い唸りへと変わっていった。
岩の手前で、足を止めた。
そして、声を張り上げた。
「アルテミシアさん!」
声は、風に半分さらわれながら、岩肌にわずかに反響した。
*
その時。
私の体の周りに、淡い光の線が、すうっと立ち上がってきた。
——解析の紋章だ。
体の中身を探り、変身の術を使っていないかを確かめる魔法だった。
その紋章が、幾筋もの細い線を外側へ放射しながら、私の全身を薄い網のように包んでいく。
私の目には、それがはっきりと見えていた。
体が反射的に、半歩、横へ逃げようとした。
——いけない。
寸前で、その動きを押し殺した。
足の親指に力を入れる。
靴の中で、爪が革に食い込む。
その感触だけを頼りに、私はその場に踏みとどまった。
——動いては、いけない。
この紋章は、本来、目に見えない。
普通の人には、皮膚の表のわずかな空気の揺れとして、かろうじて感じられるかどうか。
だから——ただのシスターが、その立ち上がりに気づいて身を躱すなど、あってはならなかった。
紋章が見えることを。
相手に悟られてはならなかった。
*
解析の網が、私の体の表をゆっくりと撫でていく。
——気持ち悪い。
見えない指が、修道服の上から皮膚の下まで潜り込んで、肋骨の内側を、心臓のあたりを、一本ずつ確かめていくような感触だった。
背筋を伝う冷たさを、奥歯を噛んでこらえた。
吐き気にも似た気持ち悪さに耐えながら、私はただ、まっすぐ前を見続けた。
「——変化の術は、使っていないですね」
風の音の合間に、男の声が微かに聞こえた。
岩の向こう側からだった。
*
岩の陰から、一人の男が姿を現した。
三十歳ほど。
手には、抜き身のナイフを無造作に握っている。
その身なりを見て、私はわずかに目を見張った。
赤と青の鮮やかな布が、肩や腰のまわりで風にひらめいていた。
襟元や袖口には、金糸の刺繍まで光っている。
——盗賊の、服じゃない。
粗末な麻の服をまとった他の者たちとは、まとう空気がまるで違う。
その立ち姿には、人の上に立つ者の揺るぎなさのようなものがにじんでいた。
「アルテミシアさんは、どこ?」
私は叫んだ。
「まぁまぁ、焦るな」
男は口の端を緩く吊り上げた。
「俺の名前は、ヨゼフ・イングリット。よく来たな」
その合図のように、岩のあちこちから人影が現れた。
杖を持った男が一人。
岩の上には、弓を構えた者が二人。
全員が、薄い笑みを顔に貼りつけていた。
気がつくと、私は半円の中に囲まれていた。
逃げ道は、馬車のある後方だけ。
だが、岩の上の弓は、その後方まで射程に収めている。
*
「もう一人のシスターの、心配か?」
ヨゼフが、ナイフの先で自分の肩を軽く掻いた。
「食料と、魔石を持ってきました」
私は声を絞り出した。
「私の代わりに——アルテミシアさんを、返してください」
「これからお前が、どうなるか。分かっているのか?」
ヨゼフの声に、嘲りの色が混じった。
その時、杖を持った男がヨゼフに向かって低く言った。
「馬車の中には、樽が何個か積まれています。——中身は、見ないと分かりませんね」
私の心臓が、一度、跳ねた。
——大丈夫だ。
吸魔石の縄が、効いている。
あの魔術師の探知は、樽の中の二人をただの積み荷としか捉えていない。
私は表情を変えなかった。
変えないように、ありったけの力で、頬の筋肉を固めた。
「くくく」
ヨゼフは肩を揺らした。
「まぁ、シスター。少し、話をしようぜ」
「それが終わったら」
私はすかさず言った。
「ちゃんと、アルテミシアさんを、返してください」
「あぁ。分かってるって」
ヨゼフは軽く片手を上げた。
そして、ゆっくりと私の方へ歩いてきた。
*
「なぁ」
ヨゼフは歩きながら口を開いた。
「お前らは、なんで思考が止まってるんだ?」
風が、二人の間を吹き抜けていく。
「このまま領地にいたら、魔力を吸われて死ぬだけだ。なんで、外に出ない?」
私はヨゼフを見据えた。
「誰もが、あなたみたいに強くはありません」
私の声は低かった。
「集団の中でしか、生きられない人も、いるのです」
ヨゼフの足が、私のすぐ目の前で止まった。
私はその目を、まっすぐ睨み返した。
「殺されるくらいなら」
ヨゼフは私の顔を覗き込んだ。
「なぜ、貴族に歯向かわない? なぜ、死ぬまで奉仕を続ける?」
「それは……」
言葉が、一瞬詰まった。
「お前らシスターは、何度も見てきたはずだ」
ヨゼフの声が、低く沈んだ。
「死にゆく人間を。——お前らは、人に光を見せているようでいて。その実、偽りの光で騙しているだけだ」
*
私の胸の奥で、ある声がよみがえった。
廃村を抜けた道中。
二十歳で老人の顔をした男を看取った後の夜。
アルテミシアさんが、焚き火の脇で細い剣の刃を拭きながら、低く零した言葉だった。
——慰めたところで、明日にはまた一人、死んでいくんだて。
あの時、その言葉の重さを、私はまだ本当には分かっていなかった。
いま、目の前の男が、同じ意味の言葉を、嘲りとともに突きつけてきた。
「俺等には」
ヨゼフは続けた。
「自由を、選べる権利が、あるはずだ」
そう言うと、ヨゼフの手がふいに伸びてきた。
私の顎を、無造作に掴む。
指の力が、思いのほか強かった。
顎の骨が、ぎりと軋む。
私は首を、わずかにのけぞらせた。
「だから——」
ヨゼフの顔が、すぐ近くで笑った。
「いずれ、男爵領を乗っ取ってやる。そして、俺の国を作ってやる」
そう言い捨てると、ヨゼフは顎から手を離し、くるりと背を向けた。
*
「力が無い者は、どうするのですか」
私は、その背中に問いを投げた。
ヨゼフの足が止まった。
「魔力を土地に満たさなければ、作物は実りません。それは、どうするのですか。——あなたたちが王国に逆らえば、他の領地からも攻撃されるかもしれませんよ」
ヨゼフはゆっくりと振り返った。
その目が、私を上から下まで、値踏みするように滑った。
「お前。頭の回転が、早いな」
ヨゼフは薄く笑った。
「仲間になるか? ——いや、ダメか」
ヨゼフは頭を一度振った。
「力の無い者を養うつもりは無い。いまいる子供を鍛えて、強くして、強い国を作る」
ヨゼフは指を一本ずつ折っていった。
「次は、魔力か。そんなもの、無くても耕させればいい。足りなきゃ、奪えばいいだろ。最後の答えは——最初に言ったのが答えだ」
*
「奪う?」
私は眉を寄せた。
「どこから、ですか」
「ほかの領地から、決まってんだろ」
ヨゼフの声に、初めて熱がこもった。
「俺たちが弱い時には、奪われ続けた。今度は、俺たちが奪う番だ」
私の、握りしめた手に力が入った。
「それは」
私は言った。
「いまの貴族が、平民にしていることと、まったく同じです」
ヨゼフの薄笑いが、わずかに止まった。
「そんなやり方では、領土を守ることなどできません」
私の声が、少しずつ強くなっていく。
「国の根幹は、一部の力ある者のためにあるのではありません。人々の力こそが根っこにある。そのことで初めて、国は守られるのです」
「ふん」
ヨゼフは鼻を鳴らした。
「俺は、市民なんざ、百人は倒せるぜ」
ヨゼフはナイフの腹を、自分の頬に軽く当てた。
「力ある者が、この世を統べる。それだけだ」
*
私は一度、息を吸った。
そして、言った。
「あなたが、赤ん坊だった頃にも、そう言えるのですか」
ヨゼフの、頬に当てたナイフが、止まった。
「あなたが年老いて、剣を振れなくなったら。味方に殺されても、文句は言えないのですか」
私は、ヨゼフの目をまっすぐ見た。
「あなたがいまそう言えるのは。いまのあなたが、強いからです」
風が、二人の間をまた吹き抜けた。
「強さは、いつまでも続きません」
*
「てめぇ」
ヨゼフの口の端が、引きつった。
「あぁ言えば、こう言う。じゃあ、なんだ。今の腐った世の中が、正しいって言うのかよ?」
私の口が、わずかに開いた。
そして……
「それは」
私の声が、少しずつ小さくなった。
「……正しいとは、言えません」
自分の口で、いまの王国を否定したのは。
これが、初めてだった。
書物の中の数字としてではなく。
羊皮紙に書きつけた草案の一行としてではなく。
生身の声として、それを認めた瞬間だった。
胸の奥が、ずしりと重くなる。
認めてはならないものを、ついに口に出してしまった重みだった。
私は一拍、置いた。
風の音だけが、二人の間を満たした。
それから、顔を上げた。
ヨゼフの目を、まっすぐ見据えた。
「でも」
私の声に、再び芯が戻った。
「常に、人の幸福のために、正しい道を探し続ける。——それが、政治です」
*
ヨゼフの目が、わずかに見開かれた。
その表情の中に、ほんの一瞬だけ。
嘲りでも怒りでもない、別の色がよぎった。
だが、それはすぐに消えた。
「ふん」
ヨゼフは顔を背けた。
「シスターが、何を。綺麗事ばっかり言ってるんだよ」
後ろ向きのまま、歩き出す。
片手を、面倒くさそうにひらひらと振っている。
「興ざめだ」
吐き捨てた。
「アルテミシアを、見せてやる」
*
ヨゼフが、地面を軽く蹴った。
その体が、風の王座の岩の上へと跳ね上がった。
——あれは。
私の目が、その軌道を追った。
人の脚では、あり得ない高さだ。
あり得ない速さ。
岩肌に一度も触れることなく、一息で頂近くまで跳んだ。
身体強化。
シェリーが訓練場で見せた、あの爆発的な力の使い方と同じ系統だった。
ヨゼフは岩の上の、突き出した一画に片足で軽やかに降り立った。
そして、足元に置かれていた小さな袋を、無造作に持ち上げた。
くたびれた、麻の袋だった。
*
ヨゼフは、その袋の口に片手を突っ込んだ。
私の頭が、混乱した。
——あの袋の中に、アルテミシアさんが?
そんなはずは、なかった。
その袋は、人が入るような大きさではなかった。
せいぜい、丸い野菜が二つ収まるかどうか。
それほどの、小さな袋だった。
私の背筋を、得体の知れない悪寒が一気に駆け上がった。
喉が、からからに渇いていく。
なぜ、あんなに小さな袋なのか。
その問いの答えを、頭が考えることを拒んでいた。
ヨゼフは袋の中から、何かを掴み出した。
そして、私に向かって、それを無造作に投げつけた。
岩の上から、何かが宙を舞う。
ドサッ。
それは——私の足元のすぐ前に、落ちた。




