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第27.5話 閑話 祈りの手

「――光よ。

 この者の名を、忘れずにいてください。

 歩いた道を。こぼした涙を。

 最期に握った手の温もりを」


 うちは、その手を両手で包んで祈った。


 老人のような手だった。

 指の節は太く膨れ、皮膚は乾いて骨に張りついている。爪の色はもう灰色で、血の気がなかった。


 でも、この人は若者だった。


 枕元に、細密画《さいみつが》が一枚立てかけてあった。

 描かれているのは、頬の張った、目に光のある、二十歳半ばの男の顔だった。墓を掘り、薪を割り、畑を耕してきた、働き盛りの体つきだった。


 その同じ人が、いま老衰で死んでいこうとしている。


 平民は、貴族のために魔力を捧げる。捧げ続けた体は、その分だけ早く老いていく。

 二十代の若者が、老人の顔で死んでいく。

 それが、この国の仕組みだった。


 部屋は最期まで自分の部屋で、と本人が言い張ったのだと、家族が低い声で話してくれた。

 窓の隙間から夕暮れの光がひと筋差し込んで、白い敷布の上をゆっくりと這っていた。


 男はもう何も言えなかった。

 喉の奥で息が薄く、不規則に鳴っている。瞼は半分だけ開いていたが、その目はもうどこも見ていなかった。


 それでも。


 うちが握っていた手の上に、男のもう片方の手がそっと乗った。


 骨と皮ばかりの手のひらが震えながら、うちの手の甲に触れてくる。

 枯れ葉が一枚落ちてきたような、わずかな重みだった。


 ――あぁ。


 うちはその手を、もう一度、握り返した。


 聞こえとるんか。それとも、ただの最期の身じろぎか。

 どちらでもよかった。祈りの言葉が届いていなくても構わない。


 死んでいく人の手を握る。その温もりが消えるまで握り続ける。

 それが、うちの務めだ。


 男の息がひとつ、長く伸びた。

 伸びて、途中で止まった。


 手の甲に触れていた手のひらから、最後のわずかな力が、すうっと抜けていく。

 皮膚の表で、それがはっきりと分かった。


 うちは目を閉じた。


 枕元で、家族の啜り泣きが始まった。


 しばらく、その手を握ったままでいた。

 それから男の胸の上で両手を組ませ、敷布の縁をそっと整えた。

 この手つきは、もう何百回と繰り返してきた。


 立ち上がる時、膝の関節が低く鳴った。



 *



 外に出ると、もう日は沈みかけていた。


 スミス男爵領の町が、夕暮れの橙色に染まっている。

 石畳の道に荷車の跡が幾筋も刻まれ、市場からはまだ売り買いの声が響いていた。

 焼いたパンの匂いと、家畜の藁の匂い。人が生きている場所の、ごちゃまぜの匂いがあった。


 ――でも。


 うちは、町の奥へ続く細い路地に目をやった。


 活気のすぐ裏側に、腐っていく匂いがいつも貼りついていた。

 薄い壁の向こうで、誰かが咳をしている。

 その咳の湿り気を、うちの耳は聞き分けていた。


 あの咳をする者は、長くない。

 窓の灯りの数だけ、看取りを待つ者がいる。


 どこへ行っても、同じだった。


 スミス領を回り始めてから、何人を看取ったか。

 うちは、もう数えていなかった。


 握った手の温もりが消える。

 それを何百回、感じてきただろう。

 そのたびに、自分の中の何かが、ひとかけらずつ一緒に消えていく気がした。


 ――どこへ行っても、変わりゃせんがね。


 そして近ごろ、こんな考えがふと胸の底に浮かんでくる。


 ――いっそ、うちもいなくなってまった方が、楽なんじゃにゃあか。


 浮かんでは、慌てて蓋をする。

 蓋をしても、また次の看取りの後で浮かんでくる。


 誰にも言えなかった。神父にも。あの王子にも。

 言えば心配される。それが何より嫌だった。


 ――あの、王子。


 ロディエットという王子が、青臭いことを言い出している。

 この死の仕組みを、法律で変える、と。

 王族だろうが所詮はガキだ。一人の人間が、この大きな流れに逆らえるはずがにゃあ。


 それに――神父が、あの王子を助けるためにリディアの体を使った、あの夜のことを、うちはまだ許せていなかった。


 九年もの間、ベッドの脇に座り続けた。

 毎日その名を呼び、魔石の光を当て続けた。

 たった一人の娘の体を。


 なんで、よりにもよってあの体を、見ず知らずの王子のために使ったのか。

 考えるたびに、胸の奥がざらりとする。


 ――なのに。


 旅をしている間、あの王子は、行く先々で死んでいく人の気持ちに寄り添った。

 最初は、お坊ちゃんの気まぐれだと思った。

 だが違った。


 死にそうな目に遭っても。絶望しか残っていにゃあ村を見ても。

 常に、この世を変える手立てを考えとる。

 自分のことなど後回しにして。


 死にたいと蓋をしたばかりの、うちのすぐ隣で。

 あの王子は今も、必死にこの世を変えようとしとる。


「……あぁ、イライラする」


 口から低い独り言が漏れた。


 あの王子の青臭さにか。

 それとも、自分のすぐ隣で必死に足掻く、あの生き方にか。

 自分でも、うまく説明がつかなかった。


 うちは頭を一度、軽く振った。

 考えても仕方のないことだった。



 *



 足を向けたのは、町外れのスラム街だった。


 石畳がそこで途切れ、ぬかるんだ土の道に変わる。

 傾いた板壁の家が肩を寄せ合い、軒の隙間に夕闇が溜まり始めていた。

 市場の声も、井戸端の笑い声も、ここまでは届かない。


 うちは周囲の魔力を確かめた。近くに魔力持ちはいない。


 この荒れた一画でも、子供は多かった。

 食い扶持も知れない暮らしの中で、それでも子は生まれてくる。


「シスター!」


 不意に明るい声が、路地の手前から飛んできた。

 子供が数人、こちらへ駆けてくる。


「シスター、お祈り教えて~!」


 先頭の女の子が両手を広げて、うちの修道服の裾に飛びついた。


 うちはしゃがんで、子供たちと目の高さを合わせた。

 垢《あか》の浮いた頬。擦り切れた服の袖。

 でも、その目だけはまだ濁っていなかった。


 ――こういう子らもおるんだがね。


 この子たちが悪い道を覚える前に、正しい道を指し示してやる。

 それもシスターとして、うちの役目だ。


「分かりました」


 子供たちに向けたその声から、うちの訛りはすっと抜けていた。

 聖句を授ける時の、整った声だった。


「まずは、お祈りの形を取ります」


 うちはゆっくりと、両手を胸の前で握り合わせた。

 子供たちはぺたりと座り込んで、見よう見まねで小さな手を合わせる。


 夕闇の中で、垢じみた小さな手のひらが行儀よく揃えられている。

 腐っていくこの一画の中で、そこだけ、何か清らかなものが灯っているようだった。


 ――こういう時だけは。


 握った手の温もりが消える、あの感覚を忘れていられた。


 うちはゆっくりと目を閉じた。


「光よ――」


 聖句を唱え始める。


「この子らの道を、照らしてください。

 まだ汚れぬ、この手のひらに――」


 カチッ。


 足首のあたりで、硬い金属の音がした。


 うちは反射的に振り向いた。


 子供たちの輪にいなかった女の子がいた。

 十歳くらいの、痩せた子だった。

 その手が、うちの右足首からすっと離れたところだった。


「ご、ごめんなさい」


 女の子の声が震えていた。


「これ、つけろって……言われて……」


 そう言うが早いか、踵を返して走り出した。

 痩せた背中が、夕闇の路地の奥へ転がるように消えていく。


 うちは自分の右足を見下ろした。


 足首に、金属の輪が嵌まっていた。


「くくく」


 低い笑い声が、すぐ後ろから聞こえた。


「捕まえたぜ、シスター」


 路地の木の陰から、男がゆっくりと姿を現した。

 服は汚れていた。まともな場所で長く寝起きしていない者の汚れだった。


 ――盗賊か。


 うちは立ち上がろうとした。


 そして、異変に気づいた。


 いつもなら足の裏から腿へと駆け上がってくるはずの力が、来なかった。


 身体強化。

 息をするように使ってきたその力が、まったく立ち上がってこない。

 魔力が足首の輪の方へ、すうっと流れ落ちていくのが分かった。

 汲んでも汲んでも、底に穴の空いた桶から水が漏れていくように。


 ――足首の魔石か。


 うちは奥歯を噛んだ。


 吸魔石《すいませき》だ。

 身体強化使いや魔法使いから魔力を吸い取り、ただの人間に変えてしまう石。

 話には何度も聞いていた。まさか自分の足に嵌まるとは。


 足がもつれた。

 立ち上がりかけた体勢が、ぐらりと崩れる。


 その隙に男が踏み込んで、うちの腹を思いきり蹴り上げた。


「ぐっ――」


 息が詰まった。


 身体強化の無い腹に、男の足の重みがまともに食い込む。

 うちは咳き込み、土の上で痛みに身を折った。


 ――こんな。こんな蹴りひとつで。


 身体強化があれば、こんな蹴りなど当たる前に見切れた。当たっても痛くもなかった。

 それが今は、ただの女の腹だった。


 腰の刺突剣《さしつきけん》に、手が伸びた。


 伸びたが、そこで止まった。


 長くこんな痛みを知らなかった。

 身体強化が、いつもあらゆる痛みを薄い膜で包んでくれていた。

 その膜の無い生身に蹴りを食らうと、思考が白く塗り潰された。

 抜く、という一つの動作を、痛みが奥で堰き止めていた。


 男がもう一度、足を振り上げた。


 二度目の蹴りが脇腹に入る。

 うちの体が、横へ跳ねた。


「身体強化が、使えねぇだろう」


 男は口の端を歪めて見下ろしてきた。

 しゃがみ込んで、うちの右足首の輪を指でこつこつと叩く。


「身体強化しようとするたびに、魔力は全部この石に吸われる。どれだけ頑張ったって無駄だぜ」


 うちは痛みを堪えながら、男を睨み上げた。

 睨むことしか、できなかった。


 子供たちのにぎやかさにまぎれて。聖句に目を閉じた、その隙に。

 あの女の子に、これを嵌めさせた。


「お前が」


 男の声が低くなった。


「お前が、俺らの兄弟を殺したんだよ」


 男の目に、暗い熱が灯っていた。


「俺らはなぁ、兄弟を殺した奴は、絶対に許さねぇ」


 うちは土の上で、ゆっくりと上体を起こした。

 折れた息をなんとか整えて、できるだけ平らな声を出した。


「……誰のことやら。さっぱり分からんがね」


「とぼけるな。湖の近くで、殺しただろうが!」


 湖。


 その一語に、うちの記憶がわずかに揺れた。


 森を抜ける手前の、湖の縁。

 リディアを男爵領まで送り届ける、二人きりの道中だった。

 襲ってきた盗賊どもを刺突剣で沈めた、あの日。

 刃を拭った布の上で、暗い赤が黒へと変わっていった。


 ――あぁ。あいつらか。


 だが、うちは顔色を変えなかった。


「まったく、身に覚えがにゃあな」


 男の手が伸び、うちの修道服の胸ぐらを乱暴に掴み上げた。

 布の襟が首の後ろでぎりと締まる。


「お前らはなぁ」


 すえた息の匂いが、すぐ近くまで寄ってきた。


「魔力探知に、頼りすぎなんだよ」


 男の口の端が、勝ち誇るように吊り上がった。


「俺も、さっきのガキも、ただの市民だ。魔力なんざ、これっぽっちも無ぇ。だからお前は、俺らが近くに来ても、まったく気づかなかった。――ザマぁみろ、魔力持ち」


 うちは心の中で毒づいた。


 ――くそ。男の言う通りだった。


 長年、人の気配はその者の放つ魔力で測ってきた。

 離れた場所からでも、相手がどこに何人いるか、魔力の濃淡で手に取るように分かった。

 その探知に、頼りすぎていた。


 魔力をほとんど持たぬ者は、その網にかからない。


 ――リディアが、言っとったな。


 あの王子の言葉が、ふと頭をよぎった。

 紋章が見える、力の流れが見える、と。

 あの時は適当なことを言うなと一蹴した。


 だが、もしあれが本当なら。

 あの娘なら、魔力を持たぬ者の気配さえ、別の何かで見抜けたんだろうか。


 ――今さら、考えても詮無《せんな》いことだがね。


 左足で輪を蹴ってみた。

 金属の輪は足首に固く食い込んだまま、外れる気配がない。

 蹴れば蹴るほど皮膚が擦れて痛むだけだった。


 魔力はいまも流れ続けている。

 汲み上げようとする端から、輪の中へ際限なく吸われていく。


 ――これ以上、吸われ続けるのはまずい。


 背に冷たいものが伝った。


 身体強化はおろか、魔力が空になれば立つことも考えることもままならなくなる。

 九年前、魔力を空にした後の、足に力の入らなかったあの感覚を、うちの体はまだ覚えていた。


 抗えば抗うほど、吸われるばかりだ。


「さぁて」


 男はうちの胸ぐらを掴んだまま、立ち上がった。

 掴まれた体が、土の上をずるりと引きずられる。


「うちらの団長さんの元まで、連れて行ってやるよ」


 男はもう片方の手で、腰の麻袋を引き抜いた。

 くたびれて汚れた、大きな麻袋だった。

 それがうちの頭の上から、ばさりと被せられた。


 視界が一瞬で闇に閉ざされた。

 麻のざらざらした繊維の匂い。埃と黴の匂い。

 織り目の隙間から、夕闇の最後の光がほんのわずか差し込んでいた。


 男が袋の口を首元で絞ると、その細い光も消えた。


 完全な闇だった。


 引きずられていく地面の感触が、踵の裏から伝わってくる。

 子供たちのおびえた泣き声が、袋越しに遠ざかっていった。


 うちは闇の中で、奥歯を強く噛み締めた。


 ――いっそ、いなくなってまえばいい。


 近ごろ何度も蓋をしてきたあの考えが、また胸の底から浮かんでくる。

 こんな終わりのない務めなら。いつ果てるとも知れないなら。ここで連れられて、終わってしまっても――


 そう思おうとして。


 うちの頭の中に、ふと、あの目がよぎった。


 九年前。黒い髪のあの娘の体が、最期に開いた目。


 そしてあの夜。禁術の光が消えた後、もう一度開いた、同じ体の別の目。


 どちらも――うちを見ていた。

 神父ではなく、うちを。


 あの目を、忘れることができなかった。

 だからうちは、いまもこうして生きている。


 ――勝手なことだがね。


 闇の中で、うちは小さく息を吐いた。

 死にたいような気がするのに。あの目のせいで、まだ死ねずにいる。


 引きずられていく闇の中で、うちはもう抗わなかった。

 魔力をこれ以上吸われぬよう、ただ力を抜いて、男の引く方へ身を任せる。


 ――団長とやらの、元へ。


 そこまで連れて行かれれば、何か分かるだろう。

 こいつらの狙いも。逃げる隙も。


 闇の中で、うちの目だけが、まだ冷たく光っていた。


 死にたいと思う心の、すぐ裏側で。

 それでも生き延びる算段を始めている自分が、いた。


 ――勝手なもんだて。


 麻袋の中の闇が、引きずられる足の運びに合わせて、ゆっくりと揺れていた。


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