第三章 浴室の向こう側
響子は振り返らなかった。
振り返れば終わる。
霊能者としての経験が、そう告げていた。
“見えてしまったもの”は、目を合わせた瞬間に近づく。
そしてこれは――
普通の霊ではない。
異界に片足を突っ込んだもの。
境界を、水を媒介に越えてくる類。
浴室から、音がした。
ぽたり。
ぽたり。
ぽたり。
一定だった。
否。
違う。
近づいている。
水音が。
一歩。
また一歩。
まるで裸足の何かが濡れた床を歩いている。
響子は低く言った。
「麻衣さん。絶対に後ろを見るな」
「……後ろに、いるんですか」
返事をしなかった。
代わりに、響子は鞄から数珠を取り出した。
古い黒檀の数珠。
幾度も霊障を退けてきたもの。
だが。
手に持った瞬間。
ブチッン。
糸が切れた。
珠が床へ散らばる。
響子の背中を冷たいものが伝う。
ありえない。
この数珠は、普通の悪霊では切れない。
つまり。
“向こう側”が強すぎる。
その時。
浴室から、女の声が聞こえた。
濡れた喉。
水を飲み込み続けるような声。
「……ま……だ……」
麻衣が泣き出す。
「この声、毎晩するんです……!」
ぽたり。
ぽたり。
ぴちゃん。
音が変わった。
何かが床に落ちた。
響子は、ゆっくり視線だけを動かす。
浴室の入口。
漆黒の暗闇。
そこから。
一本の指が出ていた。
蝋燭のような白い。
異様に白い指。
ブヨブヨにふやけている。
水死体のような皮膚。
そして。
ずるり。
腕。
肩。
首。
“それ”は這い出てきた。
顔がない。
正確には。
顔が溶けていた。
水に長く沈みすぎた肉のように。
皮膚が崩れている。
だが。
口だけが裂けていた。
笑っている。
ありえないほど横に。
女は、四つん這いだった。
髪から水が垂れている。
ぽた。
ぽた。
ぽた。
そして。
異様なことが起きた。
女の輪郭が崩れ始めた。
身体が、水になる。
床を流れる。
黒い水。
否。
髪が混じった濁水。
それが蛇のように動く。
スマホへ向かって。
テーブルの上の麻衣のスマホ。
画面が点灯。
ブルルルル。
通知。
《みて》
響子は即座にスマホを掴み、床へ叩きつけた。
画面が割れる。
だが。
割れた液晶の中で。
何か得体のしれぬものが動いていた。
暗闇。
水。
そして。
響子自身の顔。
「……!」
動画だった。
リアルタイム映像。
映っているのは。
今、この部屋。
だが。
画角がおかしい。
床から撮影されている。
浴室の暗闇の奥から。
誰かが。
こちらを撮っている。
麻衣が絶叫した。
「後ろ!!」
響子が振り返る。
遅かった。
女がいた。
真後ろ。
髪が頬に触れる距離。
腐った水の臭い。
顔がない。
だが。
耳元で。
濡れた声がした。
「……あけて」
「何を」
女の首が傾く。
枯れ枝が折れるような骨が折れる音。
ゴキッ。
「……スマホ」
沈黙。
響子は理解した。
これは憑依ではない。
侵入だ。
スマホの画面。
カメラ。
暗闇。
そして水面。
映る場所を“入口”にしている。
女は、完全にはこちらへ来られない。
だが。
人が見れば。
覗けば。
許可になる。
その時。
響子の脳裏に、映像が流れ込んだ。
冷たい海。
夜。
橋。
車のヘッドライト。
若い女。
泣いている。
スマホを握っている。
通知。
《見てるよ》
《死ねないね》
《飛べば?》
SNSの誹謗中傷。
何百件。
何千件。
女は海へ落ちた。
暗い水。
沈む。
沈む。
沈みながら。
最後まで。
スマホを握っていた。
暗闇の中。
彼女が最後に見たもの。
それは。
自分を中傷する通知画面。
そして。
彼女は、気づいてしまった。
“向こう側”に。
誰かがいることに。
水の底。
暗闇。
スマホの黒い画面。
その奥に。
見ているもの。
ずっと。
見ているもの。
響子が息を呑む。
これは怨霊ではない。
もっと古い。
もっと深い。
人の絶望を餌にする“何か”が。
彼女を器にしている。
そして。
時計を見る。
1:58
麻衣が震えながら言った。
「……二時になる」
浴室から。
通知音が鳴った。
ひとつ。
またひとつ。
止まらない。
ピロン。
ピロン。
ピロン。
画面に無数の通知。
《あと2分》
《みえる?》
《うしろ》
そして。
最後に。
スマホが勝手に起動する。
インカメラ。
映った。
響子。
麻衣。
そして。
二人の間に立つ。
“もう一人”。
顔のない女。
だが。
違った。
その女の顔が。
ゆっくりと。
形成され始めていた。
目。
鼻。
口。
そして。
完成した顔。
それは――
間宮響子だった。
―(続く)―




