第四章 二時〇〇分
時計の秒針が進む。
1:59:51
浴室から水音。
ぽたり。
ぽたり。
否。
違う。
もう滴ではない。
何かが這う音。
ぬるり。
ずるり。
床を濡らしながら近づいてくる。
部屋の温度が下がっていく。
息が白い。
麻衣が泣き崩れる。
「い、嫌……嫌……来る……来る……来る!」
スマホの画面が一斉に点灯した。
テーブル。
床。
浴室。
玄関。
いつの間にか増えている。
十台。
否。
もっと。
古いスマホ。
水没したスマホ。
割れたスマホ。
全部が濡れている。
全部が起動している。
そして。
すべての画面に映っている。
同じ映像。
――この部屋。
リアルタイム。
だが。
少しだけ違う。
画面の中では。
“間宮響子がもう一人いる”。
その偽物がケラケラ笑っていた。
現実の響子は笑っていない。
なのに。
画面の中だけ。
口が裂けるほど笑っている。
そして。
画面の響子が言った。
「おまえ……遅かったね」
部屋の空気が一瞬にして凍った。
次の瞬間。
2:00
全部のスマホから。
けたたましい着信音。
鳴る。
鳴る。
鳴る。
耳を劈くほどの異常な音量。
耳が痛い。
麻衣が叫ぶ。
響子は目を閉じた。
そして――
視た。
霊視。
何処までも暗く深い海。
何百。
何千。
沈んでいる。
人。
人。
人。
全員。
スマホを握っている。
顔がない。
目がない。
ただ。
黒い画面だけを見ている。
その海の底に。
“巨大なもの”がいた。
人ではない。
女ですらない。
巨大な影。
水の底。
暗闇の王。
それは無数のスマホ画面でできていた。
割れた液晶。
通知。
未読。
動画。
顔。
顔。
顔。
誰かの絶望。
悪意。
呪い。
孤独。
全部を飲み込んで肥大化した存在。
そいつが――
響子に笑っていた。
頭の中へ声が流れ込む。
《おまえも、みる?》
同時に。
目の前の偽物が動く。
響子の顔をした女。
皮膚が濡れている。
目が真っ黒。
口が裂ける。
「もう帰れないよ」
麻衣が絶叫した。
偽物の後ろ。
浴室から。
無数の腕。
濡れた腕。
何十本も。
何百本も。
這い出してくる。
“引き込もう”としている。
響子は理解した。
二時。
この時間だけ。
境界が開く。
スマホの光。
暗闇。
水面。
全部が重なる。
そして。
見た者は――
向こうへ連れていかれる。
響子は静かに言った。
「麻衣さん……」
「……えっ!?」
「今から何が見えても、スマホを見ないでください」
「で、でも……!」
「絶対に!!」
響子は懐から小さな鏡を取り出した。
古い御神鏡。
師から受け継いだ大切なもの。
本来ならば決して、使いたくはない。
代償が大き過ぎる。
だが。
もう時間がない。
響子は鏡を床に置く。
その瞬間。
部屋中のスマホ画面が揺れた。
ノイズ。
ばちばちと火花が散る。
海の磯の匂い。
腐臭。
偽物の響子が怒鳴る。
「見るな!!」
響子は鏡へ向かって言った。
「……返す」
空気が止まる。
「これは人間の場所じゃない」
浴室の暗闇が揺れる。
海になる。
底なしの海。
無数の手。
顔のない人々。
そして。
巨大な“それ”。
スマホの怪物。
響子は、睨んだ。
「ここへ来るな」
鏡が砕けた。
同時に。
すべてのスマホが――
真っ暗になった。
静寂。
完全な静寂。
水音もない。
気配もない。
終わった。
そう思った。
だが。
麻衣が、小さく震えながら言う。
「……響子さん」
振り返る。
麻衣の顔が青い。
彼女のスマホ。
黒い画面。
そこに。
通知が一件。
たった一件。
差出人不明。
《ひとり、かえした》
沈黙。
響子の喉が乾く。
嫌な予感。
恐ろしく嫌な予感。
麻衣が、震え声で言う。
「だ……誰が、帰ってないんですか?」
その時だった。
玄関の鏡。
映っていた。
麻衣。
そして。
もう一人。
後ろに立つ。
間宮響子。
濡れている。
髪が垂れている。
顔がない。
現実の響子は。
鏡に映っていなかった。
週間後。
事件は終わったことになった。
麻衣は引っ越した。
スマホも処分した。
眠れるようになった。
水音も止んだ。
だが。
一つだけ。
奇妙なことがあった。
間宮響子から連絡がない。
電話に出ない。
事務所は閉まっている。
誰もいない。
そして。
ある夜。
深夜二時。
麻衣の新しいスマホが震えた。
通知。
非通知動画。
タイトル。
《みえてる?》
開かなかった。
絶対に開かなかった。
なのに。
勝手に再生された。
暗闇。
水音。
ぽたり。
ぽたり。
映像の向こう。
狭い部屋。
濡れた壁。
暗い。
そこに。
誰かが座っている。
髪の長い女。
俯いている。
ゆっくり。
顔が上がる。
目がない。
だが。
口だけが動く。
そして。
その声。
間違いなく。
間宮響子の声だった。
「……見つけて」
動画が終わる。
真っ暗な画面。
そこに。
自分の顔が映る。
否。
違う。
背後。
暗い部屋の隅。
何かが立っている。
濡れている。
そして。
あなたのスマホが。
今。
もし黒い画面なら。
映り込みを――
見ない方がいい。
深夜二時は。
まだ終わっていない。
―(完)―




