第二章 濡れた部屋
窓の外には誰もいなかった。
響子が外へ飛び出した時には、雨だけが歩道を叩いていた。
だが。
そこには、水たまりが残っていた。
不自然なほど大きい。
まるで誰かが全身ずぶ濡れのまま、そこに長く立っていたような形。
そして。
中央に、それは落ちていた。
無機質なスマホ。
古い機種だった。
画面は割れている。
泥と水で汚れている。
麻衣が悲鳴を上げた。
「そ、それ……!」
響子が振り返る。
麻衣の唇が青い。
「それ、私のです……」
沈黙。
「何を言ってるんです?」
「さ、去年、なくしたんです……」
雨音が急に大きく聞こえた。
麻衣は続ける。
「海に……落としたんです」
響子はしゃがみ、スマホを拾った。
冷たい。
異常なほど冷たい。
まるで氷水の中に何年も沈んでいたような凍てついた冷たさ。
決して、電源など入るはずがない。
だが。
ブルル……
手の中で震えた。
画面が灯る。
漆黒の背景。
通知が一件。
《かえして》
その瞬間。
響子の指先を、何かが撫でた。
濡れた髪。
女の長い髪が。
一瞬だけ、スマホの充電口から垂れた。
……見間違いではない。
響子は即座に地面へ叩きつけた。
バキッ。
画面が砕ける。
だが。
スマホのスピーカーから音がした。
女の声。
濡れた喉の音を混ぜた、掠れた声。
「やっと……みつけた」
その場の空気が、一気に冷えた。
麻衣の部屋は、築三十年のアパートだった。
一階。
出窓が二つある角部屋。
だが。
玄関を開けた瞬間。
響子は立ち止まった。
湿気。
異様な湿気だった。
梅雨の湿気ではない。
古い井戸や地下室にあるような。
“閉じ込められた水”の黴と腐敗臭が鼻を突く異臭。
「……最近、水回りおかしくない?」
麻衣の顔が歪んだ。
「どうして分かったんですか?」
キッチン。
洗面所。
風呂場。
全部。
夜中の二時になると、突然水が出る。
誰も触っていないのに。
ぽたり。
ぽたり。
そして。
決まって通知が来る。
《みて》
《こっち》
《まだいる》
麻衣は眠れなくなった。
風呂場の電気を消せない。
スマホの電源を切れない。
暗闇が怖い。
だが。
明かりをつけると。
もっと怖い。
浴室に“いる”から。
「最初はね……」
麻衣が震える声で言った。
「鏡に人影が映るだけだったんです……」
響子は黙って聞いていた。
「でも……三日前から……」
麻衣の目が涙で潤む。
「スマホのインカメにだけ映るようになったの……」
空気が止まる。
響子の表情が硬くなる。
「今、スマホを見せてください」
麻衣は嫌そうに首を振った。
「やめた方がいい……」
「早く」
麻衣がスマホを向ける。
インカメを起動。
部屋が映る。
麻衣。
響子。
後ろの壁。
いたって普通だ。
だが。
響子がスマホを受け取った瞬間。
唐突な違和感。
映像の奥。
玄関。
暗い廊下。
誰か立っている。
黒髪。
じっとりと濡れている。
首が斜めに曲がっている。
顔が――ない。
そして。
異常なのは。
それが“こちらを見ている”ことだった。
画面越しに。
確実に。
「……見ないで」
麻衣が小さく呟く。
だが遅かった。
女が動いた。
ぬるり。
画面の中で一歩。
ぶつっ。
二歩。
ぶつっ。
三歩。
音がおかしい。
骨の音だった。
関節を折りながら歩いてくる。
そして。
スマホの画面いっぱいに顔が来た。
目がない。
口だけがあった。
異様に裂けた口。
そこでスマホが震えた。
通知。
《みつけた》
画面が真っ暗になる。
その瞬間。
背後で。
ぽた……
水音。
響子が振り返る。
誰もいない。
だが。
廊下の床が濡れている。
一本の水の跡。
まるで。
誰かが、這って来たような。
水は――
浴室へ続いていた。
そして。
浴室の暗闇から。
スマホの通知音が鳴った。
ピロン。
麻衣が震えた。
「……あれ、私のじゃない」
響子の顔色が変わる。
風呂場に。
“もう一台”ある。
誰のものでもないスマホが。
暗闇の中で。
妖艶な光が暗闇の中で灯る。
そして。
画面には。
ライブ映像。
映っていたのは――
今、ここに立っている響子と麻衣。
だが。
画面の中では。
二人の後ろに。
濡れた女が立っていた。
息がかかるほど近くで。
そして。
画面の女がゆっくりと顔のない頭を傾けた。
現実の背後でも。
……同じ角度で。
―(続く)―




