第9章 止まる水
川沿いの遊歩道で、足もとの影から、黒いものがするりと抜け出した。
クロだった。
病院を出るとき、コウタが車の鍵を出しかけたのを、ミラは先に首を振って止めた。歩く、と言った。自分でも思っていなかったくらい、すぐに声が出た。コウタは鍵を握ったまま、片足で地面を踏んだ。「確認です。暗くなる前に、着いてください」。港の方へは行きたくなくて、この道を選んだ。夕方の川は、街灯がまだ点いていないせいで、空より暗い色をしている。
部屋の棚の上に置いてきたはずの猫が、いつから自分の影の中にいたのか、ミラには分からなかった。病院の廊下でも、トイレの鏡の前でも、ずっと足もとにいたのかもしれない。吐いているところも、見られていたのかもしれない。
クロは振り向かずに、ミラの前を歩いていく。遊歩道の段差を一つ、尻尾を立てたまま降りた。着地の前に、尻尾は一度も動かなかった。ジャスティンが言っていたのは、これのことだ。
すれ違ったジョギングの人は、クロに目を向けなかった。
欄干の柱に、手のひらほどの大きなガが止まっていた。
クロは座りこんで、体を動かさなかった。影の先だけが、するすると伸びて柱の根もとまで届いた。
ガの上半分が、影の中へ沈んだ。外に残った翅がばたばたと欄干を叩いて、暮れの光の中に粉が舞った。
クロは香箱を組んだまま、目を細めていた。黒い背中が、一度、きゅっと縮んだ。少しして、もう一度縮んだ。飲みこむたびに、毛並みが締まっていく。
翅が止まると、影はガを放した。ガは柱に止まったまま、もう動かなかった。その下の影だけが、水で割った墨みたいに薄い。
じゃれている。猫は、虫で遊ぶものだ。
ミラはそう決めて、目を外した。行き場のない目で、自分の靴の先を見た。
クロが立ち上がって、また前を歩き出した。
ついていきたくて、ついていくのではなかった。見えないところへ行かれる方が、怖かった。
橋の下に、人が座っていた。
最初は、誰かが置いていった古いコートに見えた。川面すれすれの段に、背中を丸めた老人が腰を下ろしている。釣り竿はない。膝の上に、コンビニのおにぎりの包みが一つ載っていた。赤いシールが貼ってある。百十八円が、五十九円。ミラがいつもパンケーキを買う店の、同じ包みだった。同じ棚の前に、この人もしゃがんだのかもしれない。
クロが、足を止めた。
背中の毛が、根もとから順に立っていった。喉の奥で、細く長く、フー、と鳴った。
クロの声を、ミラは聞いたことがなかった。封筒の匂いを嗅いだ夜も、クロはこうして毛を逆立てて机の下へ潜ったけれど、声までは出さなかった。
老人が、顔を上げた。
頬がこけて、無精ひげが白い。片方の目は焦点がどこにも合っておらず、もう片方の目が、ミラではなく、ミラの足もとを見た。
「……やっと」
川に向かって独り言を言うような、かすれた声だった。
「やっと、見つけた」
目が、影から離れない。影の端から端まで、指でなぞるように見ていく。配信で手を見られるのとも、港でスマホを向けられるのとも違った。見られているのは自分の足もとなのに、自分は数に入っていなかった。
足もとで、影がわずかに縮んだ。すねの裏に、ひやりとしたものが寄ってくる。影の方が、ミラの後ろに隠れようとしていた。
「……観測は、続けてるか」
ミラは息を吸いそこねた。
観測を続けてください。切手のない封筒の、印字の一行。
「封筒」
自分の声だった。
「あの封筒、あなたですか」
知らない大人に自分から何かを聞いたのがいつ以来なのか、思い出せなかった。聞いてから、膝が震えだした。
「……ああ」
老人は影から目を離さないまま言った。
「宛名は、自分が書いた」
それから右手を、川面へ伸ばした。
指先が、水に触れた。
輪が、広がらなかった。
触れたところから、川の表面が止まった。流れてきた落ち葉が一枚、斜めに傾いたまま動かなくなった。小さな波の山が、山の形で残った。落ち葉の影まで、水の上に貼りついている。
周りの水は、そこだけを避けて流れていった。
耳の中で、川の音が片側だけ消えた気がした。目は止まった水を見ているのに、体は流れている水の方へ傾いていって、ミラは足の裏で段を探し、コウタがいつもするように、そこを一度踏みしめた。
その場から、一歩も動けなくなる。昨日の朝に読んだ昔話の一行が、目の前で起きていた。止める側にいたのは、この人だった。
「見すぎると、こうなる」
老人は止まった水を見下ろしたまま言った。
「……自分も」
ミラは老人の足もとを見た。
夕日が橋の下へ斜めに差しこんで、老人の影を段の上に落としていた。
腰から上が、ない。
影は腰のあたりで、破った紙の端みたいに終わっている。その先は、明るいコンクリートだけ。
ミラは自分の足もとを見た。影は、頭の先まであった。もう一度、頭の先から足まで、数えるみたいに見た。
クロがもう一度、フー、と鳴いて、ミラのすねに体を寄せた。毛は逆立っているのに、触れているところは温かくも冷たくもなかった。
老人は膝に手をついて、時間をかけて立ち上がった。おにぎりの包みは、段の上に置いたままだった。
「そのうち、困る」
最後にもう一度、ミラの影を見た。
「それが大きくなると。……そのうち」
「それ、って」
返事はなかった。老人は足を引きずりながら、橋の向こうへ歩いていった。
段の上に、ミラは一人で残った。クロはいつのまにか足もとの影に戻っていた。
ニルとのトークを開く。入力欄に、まだ二文字が残っていた。
『いた』
水曜の夜、路地から帰って打った二文字だった。あのとき、いたのは、焼きそばを三つ抱えていた人だった。その人はもうどこにもいないのに、二文字だけがずっとここに残っていた。
今これを送れば、いたのは橋の下の老人になる。路地の人の二文字を、別の人に使い回すことになる。
親指で、人差し指の先をこすった。まだ白い指先だった。送れば、ニルはまた動こうとする。包帯を巻いた手で。動けば、また何かに巻きこむ。送らない理由は、今日もすぐにいくつも浮かんだ。
それでも、一人で見たものを一人のままにしておくのは、もう嫌だった。路地の夜、一人のままにしておいた結果を、ミラはもう知っている。
白い指先を、送信の上に置いた。
ニルの画面で点いたり消えたりしていた二文字が、やっと一つの吹き出しになった。
既読は、すぐについた。
『どこ』
『川。橋の下。封筒の人だった』
『いま いけねえ』
『あにき いかせる うごくな』
『あと あにき さかなくさい がまんしろ』
どれも変換されていない。包帯の手ではなく、左手の指で一文字ずつ打っているのだと思った。
間があいて、もう一つ来た。
『おせえよ』
何に対して遅いと言われたのかは、聞かなくても読めた。
ミラは段に腰を下ろした。動くな、と書いてある。カーディガンの裾を膝ごと抱えこんで、川の真ん中を見た。
落ち葉が一枚、斜めのまま止まっている。その横を、別の落ち葉が、くるりと一度回って流れていった。




