第10章 集まる
動くな、と書かれたまま、ミラは橋の下の段で待っていた。
ニルの兄は軽トラックで来た。
橋の上に車を停めて、段を降りてくる。病室で黙って丸椅子を空けてくれた人だった。日に焼けた首のタオルも、潮と魚の匂いも、あのときのままだ。
男の人は最初にミラの足もとを見た。それから川を見た。流れの真ん中で斜めになったままの落ち葉の上で、視線が少しだけ長く止まった。何も言わずに、ミラの顔に戻ってきた。
「妹が、世話になってる」
妹、と聞いて、ミラはニルのパーカーの袖を思い出した。兄のお下がりを、ずっと着ている。ニルが誰かの妹だということを、ミラは今まで考えたことがなかった。
「ニルが、動くなって言ったんだろ。だから来た」
助手席は、外よりもっと魚の匂いがした。アパートまでのあいだ、男の人はほとんどしゃべらなかった。信号待ちで、前を見たまま言った。
「あいつ、昔から考える前に走るから」
怒られると思っていた。妹の手をあんなふうにした相手を乗せているのだから、怒られる言葉を、ミラは頭の中で先に三つ用意していた。どれにも使い道がなかった。男の人はそれきり、ラジオの音をひと目盛りだけ上げた。
降りぎわに、荷台の箱を開けて、ビニール袋に何か入れて差し出された。
「アジ。今朝の。焼いて食え」
袋の中で、銀色の魚が三匹、目を開けていた。ミラは袋の外側をぐるりと見回した。値札も、シールも、どこにも貼っていない。
値段の分からないものの受け取り方を、ミラは知らなかった。半額なら、いくら得をしたか言える。おごられたなら、いくら返せばいいか計算できる。これは、どちらでもない。両手で受け取ると、袋の底が手のひらに冷たく沈んだ。頭を下げて、顔を上げるまでのあいだに、目の奥が少しだけ熱くなった。
土曜の夕方、駅前のファミレスの窓際に、五人が集まった。ミナコを呼んだのは、ニルだった。耳のことを、ミナコの方から言ってきたらしい。
ニルは病院から、夕方だけの外出許可をもらってきていた。右手の包帯の上にパーカーの袖をかぶせ、左手の指のあいだにグラスを二つ挟んで、ドリンクバーから戻ってくる。一つを、ミラの前に置いた。メロンソーダだった。頼んでいないのに、ミラがいつも選ぶ色。
「門限すぎたら、看護師さんに殺される」
ドリンクバーは二百九十円。五人で千四百五十円。
「昨日の川のやつは、あとで全部聞く。先に、こっち」
ニルは左手を顔の前に上げて、指を鳴らした。指の腹が擦れる音がしただけだった。
「ほら。遠いまんま」
コウタが、肩の袋から土をひとつまみ出して、紙ナプキンの上に置いた。指を近づける。土は指の形に盛り上がりかけて、さらさらと崩れた。
「……立ちません。港のあとから、ずっとです」
ジャスティンの古着の黒いシャツは、今日は黒かった。肩にも首にも、毛が一本も付いていない。
「俺は、猫。帰ってはきたけど、どいつも、もう肩に乗らない。俺の匂いが変わったって顔する」
軽い声のまま、ストローの先を噛んでいた。それからメニューを開いて、「パフェ頼んでいい?」と聞いた。
「好きにしろ」
ニルが言った。
「それは、誰のお金ですか」
コウタが聞いた。
「ニルの」
「は?」
ジャスティンはもう、店員さんに手を挙げていた。
いちばん端の席で、ミナコは首のヘッドホンを、耳にきっちり当てたままだった。外すと、耳が左右ともひと回り大きくなっていた。
「あたしは、これ。焦ってるときしか、こうならなかったのに」
離れた席でグラスの氷が崩れる音まで、拾ってしまうのだという。
「いつからですか」
コウタが聞いた。ミナコはミラの方を見ないまま答えた。
「屋上で配信した日。ミラが、後ろに座ってた日」
耳がキンキンする、と言って耳たぶを引っぱっていた指を、ミラは覚えていた。風のせいだと、ミナコは笑っていた。
ミナコは港にはいなかった。病院にも来ていない。
見ないまま、というのが、言葉より先に刺さった。ミナコはいつも、話すときに相手の顔を見る。
「共通しているのは」
コウタはそこで言葉を止めて、ストローの紙袋を指で小さく折った。続きは、誰も待たなかった。
壁のテレビで、白黒の猫が跳んでいた。音は消してあった。ミラはそれを見ているふりをして、グラスの外側の水滴を、指で一本ずつなぞった。
パフェが来た。ジャスティンは長いスプーンをくわえたまま、ミラの方を見ずに言った。
「匂いが変わったの、ミラの近くにいるときが一番強いんだよね」
テーブルの上で、誰の手も動かなかった。
ジャスティンはすぐに顔を上げて、笑った。
「いや、責めてるんじゃなくて。匂いの話」
ミラはグラスを両手で包んだ。冷たさが、手のひらから肘の内側まで上がってきた。
路地の男の人の、困ったように寄せた眉が浮かんだ。あの人も、自分のすぐ近くにいた。
私のせいかもしれない。口に出せば、ここにいる四人が、それぞれのやり方で違うと言ってくれる。違うと言ってほしくて言うのは、ずるい。だから、グラスの中の泡が一つずつ浮いて消えるのを数えていた。七つ目で、数が分からなくなった。
「とにかく」
ニルが、左手でテーブルを軽く叩いた。
「一人で抱えんの、なし。全員」
ミナコがうなずいた。ジャスティンはスプーンを持ったまま「はーい」と言った。コウタはニルの方を見た。
「確認です。全員、というのは、ミラさんも入りますか」
「当たり前だろ」
ニルはミラを見ないで言った。
ミラはうなずくのが一番遅かった。うなずいたら、抱えているものを出さなければいけなくなる。出したら、この窓際の五人は、四人になるかもしれない。
顎が、下がった。
門限の前に、ニルはコウタの車で病院へ戻っていった。ジャスティンはパフェの底を最後までさらってから、猫の乗らない肩で帰っていった。
駅までの道を、ミナコと並んで歩いた。ミナコはヘッドホンを当て直して、しばらく何も言わなかった。
横断歩道の手前で、ミナコが片方のヘッドホンを耳から浮かせた。大きいままの耳を、ミラの胸の方へ傾けている。
「……一回鳴って、ちょっと遅れて、もう一回」
信号が、青に変わった。ミナコは渡らなかった。
「ねえ。ミラの心臓、二回鳴ってない?」




