第11章 皿
横断歩道の手前で、ミラは自分の手首を押さえた。
人差し指と中指の下で脈が打つ。一つ。一つ。一つ。手首では、一つずつしか来ない。
「そこじゃない」
ミナコが、ミラの胸の真ん中を指さした。ヘッドホンのコードが、その指に二重に巻きついている。
カーディガンの上から、手のひらを当てた。
とくん。
遅れてもう一つ、とくん。
一つ目の音を、二つ目が半歩うしろから追いかけてくる。レジの列で、前の人の背中にかごをぶつけないように歩く人の足音みたいに。
「……ほんとだ」
声に出すと、喉の奥が乾いた。手を離した。離しても、音は止まらなかった。
ミナコは大きいままの耳にヘッドホンを戻して、信号を見た。
「あと、お腹も鳴ってる」
ミラは胸に当てていた手を、お腹の方へずらした。こっちは一回ずつだった。信号が青に変わって、二人とも渡った。
日曜の夕方になっても、ニルの兄にもらったアジは冷蔵庫の中で目を開けていた。
ミラの部屋には魚を焼く網がない。コンロは一口で、小さいフライパンが一つあるだけ。シールの貼られたものは、どれも袋を開ければそのまま食べられる。三年、それで足りていた。
冷蔵庫を開けるたびに三匹と目が合って、閉める。
スマホが震えた。ジャスティンからだった。
『ばあちゃんが晩ごはん多めに作る日』
『一人にすんなってニルがうるさいから、来る?』
一人にすんな、とニルはわざわざジャスティンに言ったらしい。ファミレスの窓際で、うなずくのが一番遅かったのを、見られていたのかもしれない。
冷蔵庫の中を見てから、打った。
『アジ、ある』
送るまで、親指は一度も止まらなかった。
『最高。持ってきて』
ジャスティンの家は、港の裏の古い通りにある瓦の低い一軒だった。引き戸の前で、ジャスティンが待っていた。
肩に猫はいない。茶色いのと灰色のと片耳の欠けた白いのは、隣の塀の上にいた。三匹ともミラの足もとを見て、向こう側へ降りていった。
「ああいう顔するんだよ、最近。俺にも」
ジャスティンは塀を見ないで、引き戸を開けた。
「ただいま。来たよ、例の子」
奥から、小さなおばあさんが出てきた。笑うと、目が目尻のしわに埋まった。
「あらあら、いらっしゃい。あんたが、匂いの子かい」
ジャスティンが天井を見た。
おばあさんはアジの袋をのぞいて、目が澄んでるねえ、と言った。値札のない魚の値打ちを、この人はひと目で決めてしまった。
台所の裸電球の下で、鍋が赤い煮汁をふつふつ言わせていた。甘くて、端の方が焦げた匂い。冷蔵庫に留めたスーパーのチラシは、卵の値段にだけ赤い丸がついている。ミラでも同じところに丸をつける。
「ばあちゃん、南の生まれなんだよ。子どものころ、こっちに来たの」
焼けたアジが、赤い煮物の隣に並んだ。皿は一枚ずつ柄が違う。おばあさんは縁の欠けていない、いちばんいい皿をミラの前に置いて、いちばん大きいアジを載せた。
「たんと食べな。細いんだから。……お家の人は」
「……一人です」
病院の受付でも学校の書類でも、何度も言ってきた言葉だった。言い慣れているはずなのに、皿の前で言うと、声が皿の縁に当たって返ってきた。
おばあさんは、そうかい、とだけ言って、ミラの皿に赤い煮物をもうひと匙よそった。聞かれなかったことが、煮物の重さと一緒に皿に残った。ジャスティンは聞こえないふりで、アジの骨を外していた。
誰かの家で誰かの作ったごはんを食べるのは、三年ぶりだった。写真立てを伏せてから、シールの貼られたものを袋の上で食べてきた。皿に移すのは配信をする夜だけ。画面に映る夜だけ、ちゃんとした食卓のふりをしていた。
目の奥が熱くなった。赤い煮物を口に入れる。辛い。辛くて、ちょうどよかった。
ジャスティンが鼻を、すん、と鳴らした。何も言わずに、水のコップをミラの前に置いた。
「ミラの匂いさ、閉店したあとのスーパーなんだよね」
「それは、褒めてるのかい」
おばあさんが聞いた。
「褒めてる。灯りがほとんど落ちて、冷蔵の棚だけ、まだ唸ってるやつ」
閉店の音楽が終わって半額のシールを貼り終えた店員が奥へ引っこみ、冷蔵の棚だけが低く鳴っているあの時間を、ミラはよく知っていた。いちばん好きな時間の匂いがすると言われて、どんな顔をすればいいのか分からない。
ジャスティンは骨を皿の端に寄せた。
「港で海に飛びこんだとき、水の中で、それと同じ匂いがした。ニルの背中の下だけ、冷たかった。浮き輪みたいに、下から押してた」
ミラの箸が、アジの身の上で浮いた。
港の夜、伏せたまま影を縁の向こうへ向けた。沈まないで、と思った。海に落ちたニルは、仰向けのまま沈まなかった。
向けた先に、届いていた。
手のひらに、皿の温かさが遅れて伝わってきた。影は消すだけのものだと思っていた。路地では、そうだった。
畳の上に、自分の影が落ちている。路地の人を消した影と、ニルを浮かせた影。数えたら、一つしかない。
ミラは箸を置いて、畳の影から目を逸らさなかった。
食べ終わるころ、おばあさんが湯のみを両手で包んだ。
「向こうはね、昼がうんと明るいの。だから、影がうんと濃い」
湯のみの縁に、唇をつける。
「明かりをつけちゃいけない晩があってね。真っ暗な中で、母さんが言うの。影に話しかけちゃいけないよって」
「暗いところで影に話しかけるとね、そこに誰かが座っちゃうんだって。座らせたまま放っておくと、だんだん大きくなる。大きくなったら、困るよって」
困る。
橋の下の老人も同じ言葉を使った。それが大きくなると、そのうち困る。
配信では一言もしゃべらないのに、街灯の下で名前は呼んだ。呼ぶのは、話しかけるに入るのだろうか。
「ばあちゃん、またその話。南のほうで町がひと晩でなくなった話もするけど、あれは嘘っぽい」
「嘘じゃないよ」
おばあさんは、ミラの足もとを見ていた。
風が入って、裸電球が揺れた。
畳の上に、膝を抱えて座る自分の形が落ちていた。その輪郭の外へ、もう一つ形がはみ出している。
椅子に腰かけた、女の人の形だった。
畳の部屋に椅子は一つもないのに、ミラより一回り大きな体がミラの影からはみ出して、背筋を伸ばし両手を膝の上にそろえて座っている。顔はない。こちらを向いていることだけが、わかった。
猫の形ではなかった。
その背筋の伸ばし方を、どこかで見た気がした。どこで、と思ったとたんに胃の底が冷えて、その先へ進めない。膝を抱えた腕が動かない。胸の中で、とくん、遅れてとくん、が速くなっていく。
ジャスティンの指から箸が一本落ちて、畳の上を転がった。
おばあさんは湯のみを置くと、畳の上の影に向かって小さく頭を下げた。客を迎えるときみたいに、ていねいに。
「あんた、ずいぶん前から、そこにいるんだねえ」
電球の揺れが収まった。
畳の上には、膝を抱えた自分の形だけが残っている。
おばあさんは立って、食器棚から縁の欠けた白い皿を出した。ちゃぶ台の誰も座っていない側に置いて、自分のアジを箸で半分に分け、その皿に移す。
「うちじゃね、来た人には出すの」
それから、畳を見下ろした。
「……もう、帰っちゃったのかい」




