第12章 出張
電柱の陰で、ミラは親指で人差し指の先をこすっていた。
こすっているあいだは、足が前に出ない。指を離した。
火曜の放課後だった。港の岸壁には黄色いテープが張られ、えぐれた角にかけた青いシートの端が、風のたびにばたばたと鳴っている。焼きそばの屋台は倉庫の並びが始まる角で、いつもと同じに湯気を上げていた。
火曜と木曜に、三つずつ。主人は取り置きのことをそう言っていた。台の端に輪ゴムでまとめたパックが別にしてあって、『取り置き』の紙が挟んである。
来ない人の分を、今日も作っている。
三つのパックを待っている誰かを、知りたかった。知ってどうするのかは決めていない。決めないまま、ここまで来てしまった。ミラは電柱の陰を出た。
「はい、いらっしゃい。……ああ、この前の子だ。取り置きのこと、聞いてた」
主人は頭にタオルを巻いて、へらを二本持っていた。
ミラは小銭をちょうどで台に置いて、指を一本立てた。三百八十円。数える前に指が覚えていた。
「……あの人、名前は」
声が小さかった。主人のへらが、鉄板の上で浮いた。
「アルさん。知り合い?」
アル。
名前があることを、考えないようにしていた。考えないようにしていたものが、鉄板の音の中をまっすぐ胸まで落ちてくる。コメント欄に流れてきたら、読む前に過ぎてしまう短さだった。
「……ちょっとだけ」
「いい人だよ。黒いの着てるから怖そうに見えるけどさ。紅しょうが多めで、って毎回言うんだ、あの顔で」
主人がへらで麺を返した。ソースが、じゅっと鳴った。
局の下っ端で因子持ちを見張ってる、とニルは言っていた。路地で消えたのは、紅しょうがを多めに頼む人だった。
「取り置きは、妹さんとこの子らの分。こぼすなよって自分に言いながら、持って帰るの。この前の木曜は、店じまいの前に、妹さんが代わりに取りに来てね」
「おじさん、いつもの」
後ろから、女の人の声がした。
振り向くと、小さな男の子と女の子の手を両手に一人ずつ握った人が立っていた。ミラよりずっと年上で、目の下に薄い隈がある。
「ああ、ちょうど今、噂してたとこ」
主人が、台の端の取り置きを白い袋に入れた。
「兄ちゃんから、連絡は」
女の人は首を振った。
「会社から、急な長期出張だって。連絡はつかないけど、心配いらないって」
出張。
路地で、回線の落ちた配信画面みたいに揺れて消えた人が、出張していることになっていた。誰かが、この人にそう伝えた。値札の上に、別の値札。
足もとで、影が靴の下へ隠れた。
女の子が袋をのぞきこんだ。
「おじちゃんの、赤いのいっぱいのやつ?」
「そう。帰ってくるまで、ママたちで食べとこうね」
女の人が袋を受け取ろうとして、男の子の手を離した。その拍子に袋が傾いた。
いちばん上のパックが、すべり落ちた。
足もとの影が、先に伸びていた。ミラの手が、それを追った。
地面に落ちる前に、両手で受け止めた。体の前で。熱い。輪ゴムの下から、ソースの匂いが立ちのぼった。
「あ、ごめんなさい。ありがとう」
女の人が袋の口を開けた。ミラはパックをそこへゆっくり戻した。
女の人はミラの手の動きを見て、目だけで笑った。
「兄も、そうやって持つの。こぼさないように、体の前で」
ミラの手が、袋の縁から離れなかった。離せば、この人は帰っていく。兄は出張していると思ったまま。
女の子が、ミラのスカートの裾を引いた。
「おねえちゃん、手、ふるえてる」
ミラは手を離した。半歩、下がった。
女の人は頭を下げて二人の手を握り直し、男の子が水たまりをまたぐのを待ってから、港とは反対の夕日の当たる坂の方へ、白い袋を体の前で揺らしながら歩いていった。
追いかけて言うことは、できた。お兄さんは、出張じゃない。路地で、私が。
言えば、あの人は何を受け取るのか。兄がいなくなったことか。それをしたのが、今パックを拾った子だということか。会社の人が嘘をついたことか。
どれを渡しても、あの人の手から何かが落ちる。こぼさないように、体の前で持っていたものが。
それに、言って軽くなるのはきっと自分の方だ。胸の中の重いものをあの袋に足して、坂の上まで運ばせることになる。
背中が、角を曲がった。
言わないほうを、ミラは自分で選んだ。
奥歯のあいだで、舌の先を噛んでいた。
「あんた」
鉄板の向こうから、主人が言った。
「顔、真っ白だぞ。座ってけ」
ミラは首を振って、自分の分を体の前で持った。
アパートに帰って、ニルとのトークを開いた。
路地のこと。投げたこと。揺れて、消えたこと。橋の下の老人が言ったこと。ジャスティンの家で、自分の影から椅子に座った女の人がはみ出していたこと。アルという名前。妹さんと子どもたちと、出張という言葉。
打っては、止まった。止まるたびに、入力中のまま寝んな、と言ったニルの声がした。向こうの画面では今、入力中の印が点いたり消えたりしているはずだ。
いちばん長く止まったのは、最後の一行だった。
『あの人が消えたのは』
そこまで打って、親指が動かなくなる。消えた、なら誰も主語にならない。防波堤でニルに「消えた」としか言えなかった日も、喉はこの形をしていた。
二文字だけ、直した。
『あの人を消したのは、私。でも、誰かが、消えたことを隠してる』
送った。
既読がついた。返事は、すぐには来なかった。
画面の端の時計が、一つ進んだ。もう一つ。待っているあいだに、長い文を読み終えて黙りこむ人の顔を、ミラはいくつも思い浮かべた。どの顔も、こっちを見ていない。
『ぜんぶよんだ』
『いまからいく』
『病院は』
『ぬける』
ぬける、が病院を抜けるという意味だと分かるまでに、時間がかかった。分かってから、スマホを胸に押しあてた。二つの音が、画面の裏側を叩いた。
入力欄には、もう何も残っていない。
机の上で、自分の分のパックが一つ、輪ゴムをかけたまま冷めていた。手のひらには、受け止めたときの熱がまだ残っている。




