第13章 扉
ニルが来たら、目を見て言う。
送った文を、今度は口で。火曜の夜、ミラはアパートの部屋でニルを待っていた。
部屋は二階のいちばん端にある。玄関を開けると細い外廊下で、その先に下の道へ降りる鉄の階段がついている。
棚の上で、クロが尻尾の先だけを揺らしていた。
港で浮かんだ言わない理由が、今夜も戻ってくる。いちばん重いのは、三つ目だった。言ったら、ニルは手を離す。
文字は、送ったら手を離れる。口で言うのは、ニルの顔が変わるところを最後まで見ていることだった。
三つ目が戻ってくるたびに、ミラはドアの方を見た。
階段が鳴った。
鉄の段を一つ飛ばしで上がってくる音。ミラがドアノブに手をかけるより先に、外からドアが叩かれた。
開けると、ニルが外廊下に立っていた。肩で息をしていた。病院の水色の寝間着の上に兄のお下がりの橙のパーカーを羽織って、サンダルのかかとには油性ペンで『市民病院』、右手の包帯は走ったせいでゆるんでいる。
見つかれば、その場で連れ戻される格好だった。その格好で、夜の坂を走ってきた。
「……読んだ。何回も」
ミラは、決めていたとおりニルの目を見た。
「私が、消した。アルさんを」
声は震えなかった。ドアノブを握ったままの手が、震えていた。言い終えたとたんに膝の裏から力が抜けて、ドアノブに体重を預けた。
ニルは、すぐには何も言わない。左手で、ゆるんだ包帯の端を巻き直す。それからミラの足もとの影に目を落として、顔に戻した。
「お前、それ、ずっと一人で持ってたのかよ」
「……うん」
「重かったろ」
責める言葉が来るのを、ミラは待っていた。来なかった。喉の奥で詰まっていたものが、泣き声にならずに、長い息になって出ていった。
「怒んねえよ、俺は。怒っていいのは、あの妹さんの方だろ」
ニルは、パーカーのポケットを包帯の手で押さえた。防波堤で拾ってしまいこんだ小石の形が、布越しに浮いていた。
「いつか、あの人が知って怒るとき、俺も横にいる。……隠してるやつの方は、俺もむかつくけど」
いつか、とニルはもう決まった日のことみたいに言った。
階段の下で、車のドアが閉まる音がした。
ニルが外廊下の手すりから身を乗り出した。ミラもドアの内側から首を伸ばした。
アパートの前の道に、白い車が一台停まっていた。降りてきたのは、黒いコートの男だった。一人だけ。
ニルの肩が固くなる。
「……黒コートだ」
男は急がずに階段を上がってきた。
一段ごとの靴音のあいだに、ミラは聞かれそうなことを三つ並べた。港の夜のこと。路地のこと。棚の上のもの。一つ目には、見たものを全部渡す。二つ目と三つ目は、言わない。決め終えたところで、靴音が外廊下の手前で止まった。ニルが手すりの前、ミラがドアの内側、男が階段の上。三人の間が、外廊下の幅だけあいた。
髪を短く刈った、顎の四角い男だった。黒い革のケースを開いて、中のカードを見せる。長い組織の名前が印字されていたが、ミラに読めたのは最後の「局」という字だけだった。三年前に病室の書類のいちばん上の欄にあったのと、同じ書体。
「夜分に失礼します。港の件で伺いました。ニルさんには、病院で一度お話を」
男は、ニルの寝間着に目を留めた。
「まだ入院中では」
「抜けてきた。なんでこいつの家、知ってんだよ。名前、出してねえぞ、俺」
「現場にいらした方のお名前は、コウタさんから全員分、伺っています」
ニルが、手すりに額をつけた。
「……あいつ、聞かれたこと全部答えんだよ」
「大変、正確な方でした」
男は笑わない。手帳を開いた。
聞かれたのは、港のことだけだった。何時ごろ、どこに立っていたか。筒を投げた男の顔を見たか。フードの色、声、逃げた方角。ニルが答え、ミラはうなずいた。男は答えを一つ聞くたびに、手帳に短く書きつけた。
「顔は、見えませんでした」
フードの男のことを聞かれて、ミラは自分から言った。
「でも、手の甲に、縫った跡がたくさんありました。線路みたいに」
男のペンがそこで浮いて、また動いた。
港で、あんなときに目が拾ってしまった手の甲が、知らない大人の手帳の中で一行になっていく。
ミラはドアノブを握り直して、もう一つ自分から聞いた。
「黒いコートの人は、みんな、同じところの人ですか」
「外で動く者は、皆これを着ます」
男は、自分の袖を見下ろした。
「何か、ございましたか。職員のことで」
ニルが、ミラの方を見た。
屋台の湯気の向こうで、妹さんは言っていた。会社から、急な長期出張だって。心配いらないって。
アルさんも、黒いコートを着ていた。妹さんに出張だと伝えた会社と、目の前の男の手帳が、ミラの中で一本につながった。
ニルには言えた。同じ口が、まだ動く。息を吸ったのに、吸った息は肺の途中で止まって、廊下の手すりにかかったニルの包帯だけが、目の端でやけに白かった。
「……いいえ」
言わずに済んで、胸の底でほっとしていた。ニルには目を見て言えたのに、この人には言わずに済んでよかったと思っている。その差の分だけ、ドアノブが冷たかった。
男はそうですかとだけ言って、手帳を閉じた。それ以上、職員のことは一言も聞かなかった。
男は体を階段の方へ返した。それから、何か思い出したように振り向いた。
その目は、ミラの顔ではなく足もとを見ていた。
見られた、と思ったとたんに、胸の音が二つとも跳ねた。
足もとの影が、外廊下の床をすべっていった。明かりは頭の真上にあるのに、影だけが男の靴の先まで倒れていく。
その黒の真ん中で、何かが一つ、開いた。
赤い目だった。棚の上のクロと同じ、止まれの信号の色をしていた。まばたきを一度して、男の靴を見上げている。
二百九十八の半分、百四十九。口の中で数えても、目は閉じなかった。
ニルが、ミラの半歩前に出た。港で筒の前に出たときと同じ動きだった。パーカーの袖の先で、指が鳴らす形に曲がる。音はしない。
「猫は、飼ってるんですか」
ミラの背中の側で、部屋の奥の棚を尻尾が打つ音がした。
「……飼ってない」
同じ答えを、これで三人に言った。
男は、そうですかともう一度言った。足もとの目から目を上げないまま手帳を開き直して、何かを短く書き足した。
ペン先が動いたのは、一語ぶんだけだった。外廊下の明かりの下で、逆さまでも読める大きさの字。半額のシールの小さな数字を、毎晩、棚の奥から拾ってきた目だった。逆さまの一語くらい、読もうとしなくても読めてしまう。
男は最後まで、ミラの目を見なかった。見ていたのは、足もとの方の目だった。
その一語は、『猫』だった。




